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  (3)「呂氏春秋」の世界

 「呂氏春秋」は、秦の始皇帝の初期、相国・文信侯・呂不韋が、自分の下に集まった賓客にそれぞれ所論を展開させたものであり、それを八覧、六論、十二紀に分けて編著した大作である。
 四書五経を中心にして展開してきた日本の漢学の中では、道教、儒教など広範な領域を内包する呂子春秋は、雑書の取り扱いを受けて、長い間研究が遅れていた。そこでは諸子百家の説がすべて混在している上に、漢文は多様で読みにくく、内容は多岐にわたっていて理解する事が難しい。そのため中国でも雑家に分類されてきており、ようやく最近になって日本でも少し研究者が増えてきたようである。

 諸子百家の説が道とか天を軸として所論を展開しているのに対して、呂氏春秋においては、「時令」という1年の時間軸を中心として所論が展開されている。そこでは1年を4季にわけ、さらに1季を孟・仲・季の3節、つまり12ヶ月(紀)に分割した。そしてこの時間軸に対して、この月の天文気象、自然の状態から人間の日常生活を規定し、それに見合った人事教訓を記述する方式をとっている。

●春、夏、秋、冬 ―十二紀が「呂氏春秋」編集の軸組みとなった!
 門下生・許維遹の「呂氏春秋集釈」の序文において、その師・孫人和が次のように述べている。「十二紀初めは一部たり、蓋し秦勢強大、行く行く将に一統せんとするを以って、故に呂不韋、賓客を延き集め、各々聞く所によりて、月令を選せしめ、円道を明らかにし、人事を証す。天地・陰陽・四時・日月・星辰・五行・礼儀の類を載せ、名づけて春秋という。以って、天下を定め政教を施さんと欲するなり」
(内野熊一郎、中村璋八郎「呂氏春秋」明徳出版社、74頁)。

 何年か前、初めて呂氏春秋を読んだとき、その漢文の文体の多様さ、内容の複雑さとともに、孟春から始まる季節の構成に、非常な違和感を感じたことを記憶している。しかし考えてみると、農業が主体であった古代社会において、1年・12ヶ月の時間軸に従い、社会規範を展開することは、それなりの現実的妥当性をもっていたと今では思う。
 したがって、漢文と内容の難解さはさておいて、社会規範の展開を12ヶ月という時間軸にあわせた呂氏春秋の記述の展開は、極めて現実的な考え方といえよう。

 ▲時令と天子の行事
 その内容の難解さの雰囲気を知ってもらうために、孟春の冒頭の第1節を次に挙げて、本文と読み下し文をつけ解釈を試みてみよう。
 ちなみに原文は、中国政府がインターネットで公開している原文をコピーしたものである。私なりに読み下してみるが、その読み方の正確さについては残念ながら保証出来ない。

<原文>
孟春:  一曰 孟春之月:日在營室,昏參中,旦尾中。其日甲乙。其帝太皞。其神句芒。其蟲鱗。其音角。律中太蔟。其數八。其味酸。其臭羶。其祀戶。祭先脾。東風解凍。蟄蟲始振。魚上冰。獺祭魚。候雁北。天子居青陽左個,乘鸞輅,駕蒼龍,載青旂,衣青衣,服青玉,食麥與羊。其器疏以達。
<読み下し文>
 孟春、一に曰く、孟春の月、日は営室にあり、昏に参中し、旦に尾中す。その日は甲乙にして、其帝は太皞、其神は句芒。其蟲は鱗。其音は角。律は太蔟に中たる。其數は八。
 其味は酸。其臭は羶。其祀は戶。先脾を祭る。東風は凍りを解き、蟄蟲は振りを始む。魚は上冰し、獺は魚を祭る。候雁は北にいき、天子は青陽の左個に居り、乘鸞に輅り、蒼龍に駕し、青旂に載し、青衣を衣る。青玉を服し,麥と羊を食す。其器は疏にして以て達す。
<訳文>
 内野、中村「呂氏春秋」74-75頁を参考に、その訳を付けてみると、次のようになる。

 第1に、孟春、旧暦1月は、北方の営の星座に太陽が巡りゆき、夕方には西方の参星が南中し、朝方には東方の尾星が南中する。その月の初日は甲乙で木徳にあたり、天子・太皞(伏義氏)は死んで東方に祭られ、同じ木徳にあたる。
 木徳の帝を助けるから、死んで少暤氏の子孫である句芒(こうぼう)が木官の神となった。また東方の虫類は、魚鱗の属で、龍がその長である、東方の音楽は五音の中の角であり、音律は太蔟(たいそう:12律の平調(へいびょう)、洋楽のホの音)にあたる。

 その数は八(高注によれば、五行の数は五であり、木は3番目の八になる)。東方は木王で、木の味は酸、その香臭は生臭い。春になると、地中に冬ごもりしていたものたちが、家の入り口から出てくるので、戸神(いりぐちのかみ)を祭り、人間の五臓では脾(ひ:消化器)が木性であるから、まず消化器を先に祭る。
 木気に属する東方風(こちかぜ)は暖かく、氷を解き、冬ごもりしていた虫たちが蘇って動き始め、魚は水の上に出てきて、川獺は魚をとり、雁の群れは北へ渡る。
 
 そこで天子は、宮廷の東北隅の明堂(青陽)の左房に居住し、鈴の付いた車に乗り、黒毛の馬に乗り、青い旗を立て、青い衣服を着て、青玉を帯びる。食べ物は、麦と羊を食べる。宗廟に用いる器は、飾り気のない彫刻をした物を使用する。(以下略)

 続く文は次のようになる。

<原文>
孟春: 是月也,以立春。先立春三日,太史謁之天子曰:"某日立春,盛德在木。"天子乃齋。立春之日,天子親率三公九卿諸侯大夫以迎春於東郊。還,乃賞公卿諸侯大夫於朝。命相布德和令,行慶施惠,下及兆民。慶賜遂行,無有不當。迺命太史,守典奉法,司天日月星辰之行,宿離不忒,無失經紀,以初為常。
<読み下し文>
 孟春:この月や、立春なるを以って、立春に先立つこと3日、太史これを天子に謁して曰く、「某日は立春なり。盛徳は木にあり」と。天子すなわち斎し、立春の日、天子みずから三公・九卿・諸侯・大夫を率い、以って春を東郊に迎え、還ってすなわち卿・諸侯・大夫を朝にて賞す。相に命じて徳和令を布く。慶を行い恵を施し、下は兆民に及び、慶賜を遂行す。当たらざることあるなからしむ。すなわち大夫に命じて、典を守り、法を奉じ、天の日月星辰の業をつかさどる。4字不明。経紀を失うことなし。初をもって常となす。
<訳文>
 この月は立春なので、その3日前に、太史(礼官)がこのことを天子に告げる。「○日は、立春でございますので、盛徳は東(=木)の方位にあります」と。そこで立春の日には、天子は自ら三公・九卿・諸侯・大夫を率いて、都の東で春を迎える儀式を行う。
 そして宮廷に帰って後、褒賞を行い、宰相に命じて徳和令を布く。
 その日は、祝賀行事を行い、広く万民にいきわたるような祝賀の施しものを行う。そして礼官に命じて、法典を遵守して、天地の運行に従い、初心を失わない政治にこころがける。

 さて上に、孟春紀の冒頭の「時令」とそれに続く宮廷行事の部分を挙げた。時令に見られる陰陽五行説は、古代中国における自然哲学の理論であり、今から見ると理解に苦しむ点も多い。しかし、皇帝をはじめ庶民の生活にいたるまで、その行動理論の根本をなすものが陰陽五行説から出てくることから、現在では古代史の風俗、習慣を解明する重要な資料となっている。

 呂氏春秋の12紀の冒頭部分は、各月のすべて、ここに示したような時令から記述が始まり、朝廷の行事から人事教訓の話に展開されている。

 ▲人間生活の行動原理
 たとえば、孟春の時令と宮廷行事の後に、人事教訓などを語る4編が続く。それは陰陽五行で構成された自然の中で生きる人間生活の行動原理を定めるものであり、そこに古代の中国思想の本質を見ることが出来る。
 そこで呂氏春秋の12紀と、それに続く4編の構成を図表-1に挙げる。

図表-1 呂氏春秋における12紀と4編の構成
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
孟春紀 仲春紀 季春紀 孟夏紀 仲夏紀 季夏紀 孟秋紀 仲秋紀 季秋紀 孟冬紀 仲冬紀 季冬紀
本生 貴生 尽数 勧学 大楽 音律 蕩兵 論威 順民 節喪 至忠 士節
重己 情欲 先己 尊師 侈樂 音初 振亂 簡選 知士 安死 忠廉 介立
当染 当染 圜道 誣徒 適音 制楽 禁塞 決勝 審己 異宝 異宝 誠廉
貴公 功名 用眾 誣徒 古楽 明理 懷寵 愛士 精通 異用 長見 不侵
去私                      

 孟春紀に続く「本生」の最初に記述は次のようになる。読み下し文、訳文は町田三郎氏の「呂氏春秋」講談社学術文庫、21-23頁を参考にした。

<原文>
本生: 二曰──
本生: 始生之者,天也;養成之者,人也。能養天之所生而勿攖之謂天子。天子之動也,以全天為故者也。此官之所自立也。立官者以全生也。今世之惑主,多官而反以害生,則失所為立之矣。譬之若修兵者,以備寇也,今修兵而反以自攻,則亦失所為修之矣。
<読み下し文>
 二に曰く、始めてこれを生するものは天なり、養いて之を成すものは人なり、よく天の生ずるところを養いて、これに攖(もと)ることなきを天子という。天子の動くや、天に全(したが)うをもって故(こと)をなすものなり、これ官のよりて立つところなり、官を立つるものは以って生に全(したが)うなり、いま世の惑主は、官多くして反って以って生を害するは、即ちなすところを失いて、之を立つるなり。これを譬うれば、兵を修る者、以って寇に備うるなり。いま兵を修めて、反って以って自ら攻むるは、即ちまたなすところを失いて、これを失うなり。
<訳文>
 万物を初めてこの世に生み出したのは天である。それを養い育てて作り上げるものは人間である。天の生み出した万物を養い育てて、その生成の道にたがわないようにするのが、天子の役割である。従って、天子の行動は、天に全(したが)う事が原理となる。そのために官吏を置く。つまり官吏を置くのは民衆の生活を保全するためである。最近のダメな君主は、官吏を増やすことにより、反って民衆の生活を脅かしているが、それは官吏を置く目的に合っていない。たとえていえば、軍隊を持つのは外敵に備える目的であるのに、逆に自分のほうから攻撃をしかけるのは、本来の目的を見失ったものである。

 この文章を見ると、2200年前の記述が、見事に現代の国際政治に対する痛烈な批判になっていることに驚かされる。
 さてここでは孟春紀の時令と本生の初めの部分を紹介したが、このような記述が図表-1の構成に従って、展開していく。その多くの部分は、町田三郎氏の「呂氏春秋」で文庫本という見やすい形で公刊されており、さらにそのレジメはインターネットでも公開されている。

 呂氏春秋は、この12紀と4編だけでもかなり大きな著作であるが、なおかつそれに八覧、六論という付属的な著作がついている。そのさわりを次にあげる。

●八覧・六論
 現在の呂氏春秋は、上記の12紀が冒頭に掲載されていて、それが中心をなしている。しかしフシギなことに、12紀が終わり、次の八覧・六論の記述が始まるその間に、本来は全巻の冒頭に置かれるべき序意(=序文)が置かれている。
 史記によると、司馬遷が史記を書いた頃の呂氏春秋は、冒頭が八覧・六論から始まっていた。そのため「呂氏春秋」という名前も、その頃は「呂覧」と呼ばれていた。
 その後に、12紀が中心的な位置に置かれていたと思われ、そのために、序文が12紀が終わったところに登場するフシギな形式は、その編成の名残に由来するようである。

 ▲八覧の構成と例示
 八覧の構成を、図表-2に挙げる。

図表-2 八覧の構成
巻13 巻14 巻15 巻16 巻17 巻18 巻19 巻20
有始覧 孝行覧 慎大覧 先識覧 審分覧 審応覧 離俗覧 恃君覧
應同 本味 権勲 観世 君守 重言 高義 長利
去尤 首時 下賢 知接 任数 精諭 上徳 知分
聴言 義賞 報更 悔過 勿躬 離謂 用民 召類
謹聴 長攻 順説 楽成 知度 淫辞 適威 達鬱
務本 慎人 不広 察微 慎勢 不屈 為欲 行論
論大 遇合 貴因 去宥 不二 応言 貴信 驕恣
  必己 察今 正名 執一 具備 挙難 観表

 ▲有始覧
 八覧の冒頭にある「應同」の原文を次に挙げてみよう。

<原文>
應同: 二曰──
應同: 凡帝王者之將興也,天必先見祥乎下民。黃帝之時,天先見大螾大螻,黃帝曰"土氣勝",土氣勝,故其色尚黃,其事則土。及禹之時,天先見草木秋冬不殺,禹曰"木氣勝",木氣勝,故其色尚青,其事則木。及湯之時,天先見金刃生於水,湯曰"金氣勝",金氣勝,故其色尚白,其事則金。及文王之時,天先見火,赤烏銜丹書集於周社,文王曰"火氣勝",火氣勝,故其色尚赤,其事則火。代火者必將水,天且先見水氣勝,水氣勝,故其色尚黑,其事則水。水氣至而不知,數備,將徙于土。天為者時,而不助農於下。類固相召,氣同則合,聲比則應。鼓宮而宮動,鼓角而角動。平地注水,水流溼。均薪施火,火就燥。山雲草莽,水雲魚鱗,旱雲煙火,雨雲水波,無不皆類其所生以示人。故以龍致雨,以形逐影。師之所處,必生棘楚。禍福之所自來,眾人以為命,安知其所。
<読み下し文>
 應同:二に曰く、凡そ帝王の将に興らんとするや、天は必ずまず祥を下民に見(あらわ)す、黄帝のとき、天はまず大螾(だいいん)、大螻(だいろう)を見す。黄帝曰く、「土気勝つ」と。土気勝つ。故にその色は黄を尚(たっと)び、その事は土に即(のっと)る。

また禹の時におよび、天は先ず草木に見れ、秋冬も殺(かれ)ず、禹曰く、「木気勝つ」と、故に、その色は青を尚び、その事は木に即る。

湯のときに及び、天は先づ金刃の水より生ずるを見わす、湯曰く、「金気勝つ」と。金気勝つ。故にその色は白を尚び、その事は金に即る。
文王のときに及び、天はまず火を見す。赤鳥の丹書を銜(ついば)み、周社に集まるを見す。文王曰く、「火気勝つ」と。火気勝つ。故にその色は赤を尚び、その事は火に即る。

火に代わるものは、必ず将に水ならんとす。天は且(まさ)に先づ水気勝つを見さんとし、水気勝つ。故にその色は黒を尚び、その事は水に即る。水気いたりて数の備わるを知らざれば、将に土に徒らんとす。天の為すは時にして、農(っとめ)を下になさず。類は固(まこと)に相招き、気同ずれば、すなわち合し、声比すれば即ち応ず、宮を鼓すれば宮動き、角を鼓すれば角動く。地を平らかにして水を注げば、水は湿に流れ、薪を均しくして火を施せば、火は燥につく。山雲は草莽のごとく、水雲は魚麟のごとく、早雲は煙霞のごとく、雨雲は水波のごとく、皆その生ずるところに類して以って人に示さざるなし。故に竜を以って雨をいたし、形を以って影を遂う。師の拠るところには、必ず棘楚(きょくそ)を生ず。禍福の拠りてくるところは、衆人は以って命となす。安(いず)くんぞ、その所を知らんや。
<解釈>
 ここでは5行、木―火―土―金―水の働きの基本的な知識が語られる。
應同(ものの同に応じること)。
★ 黄色=土=中央・・黄帝
帝王が興るときには、天は必ずその祝いを国民に見せてくれる。黄帝のときには、大みみずや大ケラが現れた。そこで黄帝は「土」(=黄)を大切にし、黄色を尊んだ。黄帝は土気が基本になっている。
★ 青色=木(草木)=東・・禹王
 呂氏春秋における3王の1人である夏の禹王は木気である。秋冬に草木が枯れず天が禹帝への祝意を示した。木気の方位は東、色は青を尊んだ。
★ 白色=金(金属)=西・・湯王
 殷の湯王は、同じく3王の1人であり、金気の王である。そこで天は金刃が水から現れることを示した。金気の方位は西、色は白色を尊んだ。
★ 赤色=火=南・・文王
 周の文王は、同じく3王の1人であり、火気の王である。そこで赤鳥が丹書をついばみ、周の社に集まった。之を見て、文王は、火気が勝ったといった。火気の方位は南、色は赤色を尊んだ。
★ 黒色=水=北
 火に代わるものが水である。水徳の王朝が秦である。それが火徳の周王朝を滅ぼして、秦王朝が成立した必然性を述べている。水気の方位は北、色は黒である。北は北極星の方位で天の中心であり、地上では皇帝の方位になる。そのため古代中国の都城は都の北端に作られるようになった。

 ▲六論の構成と例示 ―六論は古代中国のブログか?
 六論の構成を図表-3にあげる。

図表-3 六論の構成
巻21 巻22 巻23 巻24 巻25 巻26
開春論 慎行論 貴直論 不苟論 似順論 士容論
察賢 無義 直諌 賛能 別類 務大
期賢 擬似 知化 自知 有度 上農
審為 壱行 過理 当賞 分職 任地
愛類 求人 壅塞 博志 処方 弁土
貴卒 察伝 原乱 貴当 慎小 審時

 六論は、いろいろな問題に対する論説をあげ、中国古代のブログのような性格をもっている。そのいくつかの部分を例示してみる。

<慎行論、察傳:原文>
察傳: 六曰──
察傳: 夫得言不可以不察,數傳而白為黑,黑為白。故狗似玃,玃似母猴,母猴似人,人之與狗則遠矣。此愚者之所以大過也。聞而審則為福矣,聞而不審,不若無聞矣。齊桓公聞管子於鮑叔,楚莊聞孫叔敖於沈尹筮,審之也,故國霸諸侯也。吳王聞越王句踐於太宰嚭,智伯聞趙襄子於張武,不審也,故國亡身死也。
<読み下し文>
察傳、六に曰く、それ言を得ては、以って察せざるべからず。数伝して白を黒となし、黒は白となす。故に狗(く)は玃(かく)に似、玃は母猴に似、母猴は人に似たり。人の狗に与(お)けるはすなわち遠し。これ愚者の大いに過まつ所以なり。聞きて審らかにすればすなわち福となり、聞きて審らかにせざれば、聞くことなきしかず。
斉の桓公は、管子を鮑叔に聞き、楚の荘は孫叔敖(そんしゅくごう)を沈尹筮(しんいんせん)に聞きて、これを審らかにせり。故に国、諸侯に覇たり。呉王は越王句踐(こうせん)を太宰嚭(たいさいひ)に聞き、智伯は趙襄子を張武に聞くも、審らかにせざるなり。故に国亡び、身死せり。
<訳文>
慎行論六、察傳で次のよういう。さて言葉を聞いたならば、よく推察しなければならない。数回、人から人に伝わると、白が黒、黒が白になる。したがって犬が大サルに似て、大サルは母猿に似て、母猿は人に似ている。しかし人と犬とは違っている。これが愚か者の大きく間違うところである。聞いたことをよく詮索すれば良くなることも、詮索しなければ聞かなかったのも同じである。
斉の桓公は、管仲のことを鮑叔に聞き、楚の荘王は孫叔敖のことを沈尹筮に聞いて、よく人柄を明らかにした。そのために斉も楚も強国になり、諸侯に覇を及ぼした。
呉王夫差は、越王句踐のことを太宰嚭に聞き、智伯は趙襄子のことを張武に聞いたがそれを明らかにしなかった。そのため国は亡びて、その身も殺されてしまった。
(内野、中村「前掲書」180頁)

<貴直論、壅塞:原文>
亡國之主,不可以直言。不可以直言,則過無道聞,而善無自至矣。無自至則壅。
<読み下し文>
壅塞(さいそく:耳がつまること)論、五に曰く、国を滅ぼす主には、以って直言すべからず。以って直言すべからずんば、即ち、過ちの聞する道なくして、善よりて至るなし。よりて至るなくんば、即ち壅塞(ふさが)る。
<訳文>
壅塞:人主の直言を聞く耳が塞がれてしまうこと。
国を滅ぼす君主には、直言することができない。直言することができなかったならば、君主は自分の過誤を聞く方法がなく、善がやって来ることはない。善がやってこなければ、すべて塞がれて真実を見たり聞いたりすることはできなくなる。
(内野、中村「前掲書」186頁)

<似順論、別類:原文>
知不知上矣。過者之患,不知而自以為知。物多類然而不然,故亡國僇民無已。夫草有莘有藟,獨食之則殺人,合而食之則益壽;萬堇不殺。漆淖水淖,合兩淖則為蹇,溼之則為乾;金柔錫柔,合兩柔則為剛,燔之則為淖。或溼而乾,或燔而淖,類固不必,可推知也?小方,大方之類也;小馬,大馬之類也;小智,非大智之類也。
<読み下し文>
別類、似順論、ニに曰く、知らざるを知るは上なり。過つものの患いは、知らずして自ら以って知るとなすなり。物は然るに類(に)て、然らざるもの多し。故に国を滅ぼし、民を僇(りく)すること已む無し。それ草に莘(しん)あり、藟(るい)あり、独りこれをこれを食らえば、即ち寿を益(ま)す。萬堇(まんきん)は殺さず、漆は淖(とう)に水も淖なり、両淖を合すれば、すなわち蹇(けん)をなす。これを
溼(うるお)せば、即ち乾をなす。金は柔にして錫も柔なり、両柔を合すれば、即ち剛をなす。これを燔(や)けば、すなわち淖をなす。類は固(まこと)に必ずしも推知すべきや? 小方は大方の類なり、子馬は大馬の類なり、小智は大智の類にあらざるなり。
<訳文>
自分がなにも知らないという事を知るのは上である。過ちをおかすものの患は、知らないのに知っているとすることである。物事はそれに似ていて、そうでない事が多い。だから国を滅ぼし、民を殺すことがなくならないのである。
草には莘や藟のような毒草もある。1つだけ別々にそれを食べれば人を殺すが、合わせて食べると寿命が延びる薬草となる。萬堇という毒草も食べ方によっては人を殺さない。漆は流動的で、水も流動的である。しかしそれを合わせれば、強く硬いものになる。金も錫もやわらかい金属であるが、これを合わせれば、硬い金属になる。
これを焼くと溶けて流動的に成る。
従って、類は固定的に考えてはいけない。子犬は大犬と同じ類であり、子馬は大馬と同じ類である。しかし小智は大智と同じ類ではないのである。

●むすび
 戦国時代の末期、当時の強国である北の山西省の魏には信陵君、同じく山西省の趙には平原君、南の湖北省の楚には春申君、東の山東省の斉には孟嘗君という有名人が宰相として活躍しており、4君子と呼ばれた。そこに中国全土から多数の有能な士が集まり、それが国力を示す指標にもなっていた。
 
 この状況に対して、本来後進地帯であった西部の陜西省の秦を文化・芸術の中心にするために、河南省出身の大商人・呂不韋が全国から3千人の賓客を招いて纏め上げたのが、呂氏春秋であった。
 呂不韋自身は、嫪毐の乱により失脚して自殺してしまうが、彼の纏め上げた大作・呂氏春秋は、秦の始皇帝時代における万里の長城や阿呆宮に並ぶ大きな文化遺産として、後世に残された。

 大作・呂氏春秋は、呂不韋の自慢の作品であり、「史記」の呂不韋列伝によれば、それが完成したとき、呂不韋は「天地・万物・古今のことなどすべてを網羅した書物」と称して、それを秦の首都である陜西省・咸陽の市の門に並べ、千金の懸賞金を出して、諸侯の国の遊士・賓客を招き、「これを1字でも増減出来る者があれば、千金を与えよう」と宣言したといわれる。
 この当時、紙に書かれた書はまだなく、呂氏春秋は竹簡とか木簡で作られ、穴を開けて縄で節ごとに纏められていたと思われる。

 その量は膨大であり、市に展示された時の数量は荷馬車で十数輌という単位になったであろう。この展示された竹・木簡の山は壮観であり、民衆の目を奪ったとことと思われる。それを市で読むのは、1節でも大変なことであったに違いない。

 町田三郎氏「呂氏春秋」の後書きによると、「秦の八年」の十二紀を中心にした第1次編集から、呂不韋入蜀後の八覧の編集を経て、さらに統一後に八覧・六論の第2次編集・補遺の後、第3次として十二紀・八覧・六論が合集されて、現在の形になったとされる。(講談社学習文庫、326頁)

 漢代に入り、漢書の芸文志で諸子の部の雑家に分類されたのが、呂氏春秋の不幸であった。儒家・道家・法家などの古代思想のすべてを包含しているため、どれにも入らない雑の部に分類された。
 そのため四書五経については非常に詳しく研究された日本でも、膨大な内容を含む呂氏春秋は雑の部に分類されたことから、その研究は非常に遅れたようである。
 戦後になり、中国思想のなかで従来、儒学に対して研究が遅れていた道家の研究が進むようになり、その一環として呂氏春秋にも関心を持つ人々が増えてきた。中国では、既に多くの研究書が出ているが、日本ではこれからの研究課題であると思われる。






 
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