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日本人と死後世界
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  (3)生まれ変わり

 臨死体験において見る死後世界は、古代から現代、また外国も日本も、時空を越えて極めて共通している。臨死体験者達が見たのは、本当の死後世界かも知れないと思われるほどである。ところが、問題は、これらの臨死体験者は、すべて一度は死んでも、その後に生還した人々の証言である。
 つまりこれらの体験は、すべて臨死の際のエンドルフィンなどによる脳内現象であり、本当は生きている人間の魂も肉体の死とともに無くなるとする説を否定することは出来ない。しかしある人間が、他の人問に生まれ変わるという事実が、本当にあるとすれば、今度は、魂が転生するという事実を認めないと説明がつかないことになる。
 その生まれ変わりという事例が、日本にもいくつか記録されている。

◆古代の事例

 古代の事例としては、既に述べた「日本霊異記」に見られる。
● 大和国山辺郡の善珠禅師が、延暦17年(798)に亡くなり、その時の予言通り、翌年、王子として生まれ変わった。下顎の右に禅師と同じほくろがあった(下39)。
● 愛媛県の石槌山の寂仙菩薩という禅師が、死後28年たった延暦6年(787)、生前の予言通り神野親王(後の嵯峨天皇)として生まれ変わった(下39)。日本霊異記が成立したのが822年頃といわれる。とすれば、この話はそのとき在位中の天皇(嵯峨天皇:在位809-823)にかかわる挿話であり、当時としては、かなり有名な事件であったことが想像される。
● 桜井秀「平安朝史下」(総合日本史体系)は、大正末期に出版されたものであるが、平安朝後期の生まれ変わりの事例がいくつか記載されている。以下、それに従う。
 仏教思想が普及していた平安時代には、人々はすべて前世をもつと考えられていた。当時は、3才までの子供は、皆、前世の記憶を持つと思われており、その間に前世を聞けば、必ず答えるといわれていた。
 この信仰はかなり後まであり、「元亨釈書」(1322)巻八順空の伝に、「(順)空は、舟中に生まる、天福元年(1233)正月1日なり。国の俗に児生まれて、三朞(き)にして試みに先身を問えば、多く言あるなり」と記されている。
 姓名や容貌が前世にかかわっている場合も多い。藤原有国は応天門事件(866)の伴納言の後身とされ、容貌もきわめて似ていたといわれる。(「古事談」巻6、帝宅諸道)
 筆跡が似ていた例もある。昔、河内国の古寺に公泰という僧がいた。自分は将来、再び人間に生まれ変わり、この国の大守となって、この寺の修復を行うべく願文を書いた。その後、この僧は、公経という人に生まれ変わり、河内守になった。そこでまずこの寺を訪れ、仏壇の中を見ると公泰の願文があり、その筆跡は、公経の筆跡と全く同じであった。(「本朝世紀」康和元年7月23日条)
 また死去するときも、前世と所縁の地に葬られたいと考えた。崇徳上皇(1119-1164)は保元の乱に破れて讃岐に流され、その地に葬られた。かつてこの地に流された「白峰の聖」という阿閣梨があり、上皇はこの僧の生まれ変わりであるという夢をある人が見た。上皇の御陵は、この僧の墓の横に作られている。(「今鏡」やへのしおじ条)
 同姓、同名の生まれ変わりの事例がある。昔、尾張国に俊綱という僧がいた。熱田神宮の宮司に馬鹿にされたことがあった。生まれ変わって国守になり、大宮司を苛めてしまった。 それが関白の子、橘俊綱であるという。(「伏見のゆきのあした」の条)

◆勝五郎再生譚 -江戸期の事例

 再生譚として有名なものには、平田篤胤が文政6年(1823)に記録した「勝五郎再生記聞」がある。勝五郎は、武州多摩郡中野村(いまの多摩動物公園のあたり)の百姓源蔵と妻せいの息子として、文化12年(1815)10月10日に生まれた。勝五郎が8才になった時、自分は多摩郡程窪村(いまの八王子)百姓藤五郎と妻しづの子の藤蔵の生まれ変わりであることを姉に告白した。
 藤蔵は、文化2年(1805)に生まれたが、同7年(1810)2月に5才で疱瘡になって死んだ。勝五郎が藤蔵の生まれ変わりであることを告白したのは、丁度、13回忌の年に当たる。
 平田篤胤は、勝五郎に直接会って詳細にその記録を残している。

 勝五郎の前世藤蔵は、文化7年2月4日に疱瘡で死んだ。病名は後で人から聞いて知った。死ぬ程の病気ではなかったが、薬がもらえず死んだ。死後に納棺の時に魂となって飛び出し、山へ葬りに行く時は龕(ひつぎ)の上に乗っていった。棺を穴に入れた時の音の響きは今も覚えている。その後、家に帰って机の上にいたが、人に物をいいかけても聞こえなかった。
 その時、長い白髪に黒い着物を着た老人に連れられて、高い所へゆき綺麗な芝原で遊んだ。一杯に咲いている花の枝を折ろうとして、小さい烏に大変脅されて怖かった。遊び歩いて、我が家にくると、親の話し声や読経が聞こえた。7月に庭火をたくとき家に帰ったら、団子が供えてあった。

 ある時、かの老人と一緒に、源蔵の家の前を通りかかった時、あの家に生まれよ、と指示された。老人と別れて、庭の柿の木の下に3日いて、窓の穴から屋内に入り、竃のそばにまた3日いた。ここで父源蔵の話を聞いた。源蔵によると、これは文化12年正月の夜の夫婦の話のようである。その後、母の胎内に入ったと思われるが、よく覚えていない。
 生まれる時は何の苦しみもなかった。4~5才までは、いろいろなことを覚えていたが、忘れてしまった。

 ここで不思議なことは、藤蔵の実父藤五郎は、若い時の名を久兵衛といった。ところが、その頃の程窪では久兵衛という名を知る人がいなかったのに、そのことをはじめ、他人の知らない人間関係を、勝五郎はよく知っていた。 そこで実際に祖母は、勝五郎を連れて、山をへだてて6キロ離れた程窪村へ行ってみた。すると初めて行くのに、勝五郎は、自分の家のようによく知っていた。その後、両家はその縁で親類関係になった。
 平田篤胤は、異常なほどの関心を以て、勝五郎から聞き書きした詳細を残している。

 平田は、仏教的な解釈を排して、この話に登場する白髪黒衣の老人を「産土紳」(うぶすなかみ)とする。民学的でいう「産土神」は、「生まれた土地の神、本来は氏神・鎮守神とは異なるものであったのが、近世以後は大抵共通してしまう」(柳田国男「民俗学辞典」)神である。勝五郎の場合、村は異なり6キロも離れているが、同じ多摩郡であることから、地縁による神と考えたのであろう。
 一方、「産土神」と似た神に「産神」がある。これは「出産にかかわる神」であり、「生児の肉体を育み、霊魂を肉体に固定する役目を負っている」(桜井徳太郎「民間信仰辞典」)神である。勝五郎の場合には、「産神」との関わりも強く感じられる。
 いずれにしても、平田の場合、仏教における六道輪廻の思想には批判的であるものの、肉体と霊魂の分離、転生の思想については、仏教と共通していることが感じられる。

 勝五郎の転生は、当時、有名な事件となったようであり、「甲子夜話」、「巷街贅説」、「武蔵名勝図会」などにも記載されている。

◆現代の事例

 民間伝承として、生まれ変わりの例がいまでも民俗学の分野で数多く記録されている。その例を「日本人物語5 -秘められたる世界」(毎日新聞社、昭和37)から、いくつかあげる。
● 大正4年に平瀬麦雨氏の実見報告で、死児の手足に墨でしるしをつけて葬ると、どこかに生まれる児に、そのままのしるしが同じ部分に現れる。それを落とすには、死児の墓土で洗う。某家の生児にそれがあり、墓土をとりにいったことがある。
● 桜田勝徳氏の昭和8年の伝聞では、長門通浦の子守オセキが、掌にオシャリオセキの文字を握り締めて豪家に生まれ変わった。桜田氏宅の女中さんは、長崎県北松浦田平出身であるが、彼女の生家で昔、死んだ子の腕にしるしをつけて葬ったら、そのしるしをつけた子が、1代おいて彼女の姉の子に生まれ変わった。同地方では、1代おいてその家に生まれ変わると信じられているという。
● 昭和8年、村田鈴城氏の話では、勝五郎再生の場所に近い東京・八王子市でも、死者の掌にしるしをつけて葬る話が伝えられており、同氏の祖母の知る実例を聞いた。 同じ目的で東京・大田区の羽田の米屋が、北糀谷の物持ちを訪ねて親類になった話が、明治以降にも語られていたという。

 松谷みよ子の「現代民話考」には、明治以降の日本における生まれ変わりの伝承が、いくつか報告されている。これらの中から、場所、名前、時間などが明確なものを以下にあげる。
● 明治の末に、長野県の山形村に’おくめ’という女乞食がいた。おくめが死んだ時、村のKという素封家がお弔いをし、お墓も作ってやった。お弔いの時、成仏を願って、足の裏に経文を書いてやった。その後にその家に生まれた女の子の足の裏に、その経文が書かれており、お墓の土を産湯に入れて洗ったら消えた。その女の子は、美しく成長して幸せな結婚をした。(塩原恒子 -長野県)
● 昭和7年頃、青森県の岩美ハナは、生まれた時、ニシタと手のひらに書かれていたという人に会った。その人の親は、ニシタ家をたずねていったと話した。(北彰介編「青森県の怪談」)
● 千葉県松戸市の長尾悦子の夫の弟の子が、9才で水死した。祖父が悲しみ、左の足の裏に墨をつけて葬ったら、昭和50年に足の裏の同じ場所にホクロのある男の子が生まれた。(長尾悦子 -千葉県)
● 昭和14年に、東京足立区在住の大工梅島作爾の友人山崎竹二が、突然、心臓麻痺で死に、梅島が葬式を出し、谷中の寺に葬った。その年の秋、大阪の呉服屋幸田哲夫夫妻に男の子が生れ、その子の内股に「東京千住の梅島、故人の霊を弔う」と読める青あざがあった。(鈴木淳也「日本の奇談」-梅島、幸田の関係は記録では不明)
● 東京都西多摩郡多摩町に、明治30年頃、トメという男性がいて、知恵遅れのため一生結婚せず、ホウキをつくり方々の掃除をしたりして生活し、50才を越えて急に亡くなった。親が次に生まれる時には、普通の子になれよといって、手のひらにトメゾウとかトメキチとかいう名を書いて葬った。それから幾らもたたない内に、近くの村に生まれた子供の手に、その字が書いてあった。その子は普通の子で、字はまもなく消えた。(清水利 -東京都)
● 東京の蒲田区羽田の米屋に生まれた子供の手に、同区北糀谷の物持ちの家で亡くなった子供の住所、氏名が書いてあった。そのことが縁で親類付き合いをするようになった。 (佐久間昇「生まれ変わり小記」 -東京都)
● 石川県珠洲郡のある村に、いつも子供が早く死ぬ家があった。次に生まれてくる時には長生きするようにといって、背中に長い線を書いて入棺した。すると次に生まれた女子の背中に墨の紋があり、息災に育ち、大正4年頃65才で亡くなった。また近くの内浦町の西本願寺派の松岡寺で、生後間もない嬰児が死亡したので、右の手のひらに「南無阿弥陀仏」と書いて入棺した。13日後に町内で生まれた子の手のひらに「南無阿弥陀仏」と判読できる文字があり、シキビの葉を煎じた汁で洗ったら消えた。(滝口篤男 -石川県)
● 福井県大野郡猪野瀬村の片瀬に、明治初年にいた三治郎という男が、下庄村アヒツキ(大月?)の酒屋に生まれ変わった。背中に墨で大きく「三治郎」と書いてあり、片瀬の土で洗ったら消えた。(石原弘之「生と死にイゲ」 -福井県)
● 池田弥三郎の叔母さんが生まれた時、祖母が守りをしながら、前のお婆さんの時はどこにいたの?と聞いたら、「あざぶ」と答えた。その叔母さんは、大人になって麻布へ嫁いだ。(池田弥三郎「日本の幽霊」)
● 岡山県西大寺市東宝伝に住む事業家折原啓太郎の3女淳子は、昭和29年頃、東京深大寺の小野家の娘で菊子といい、肺結核で亡くなったことが、催眠術で分かった。淳子は体の3ケ所のホクロに、斧、琴、菊の字が浮かんでおり、右足の真に「三みゃく三ぼだいの仏たち冥加あらせ給え。北多摩神代。小野義信しるす。」と読めた。小野菊子が死んだ時、父は娘があわれで、足の裏に斧(小野)、菊(菊子)、琴(よきことをきく)と書いたという。(松岡原夫「日本の怪奇 -日本列島四次元地帯-」




 
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