(5)日本の金融危機
橋本内閣の金融改革の不幸は、その過程で日本の金融危機が想像以上に深刻化していったことである。そのために「ビッグバン」は、日本の金融市場を外国に負けないものにするため始まったのに、それどころか、日本の金融機関は21世紀に生き残れるかどうかという危機的な極限状況に追い込まれていった。
その最大の原因は、不良債権問題を軽視し、先送りしたことにあった。
★90年代後半期の不良債権と深刻な金融危機
政府は90年代初頭の5年間、バブル崩壊の後始末ともいうべき「不良債権」について、その実体さえ明らかにせず、放置してきた。
95年になって重い腰を上げてようやく政府が直接責任を持つ「住専」の不良債権問題に取り組んだ。しかしその結果は、6,850億円の公的資金を投入したことから、国民的な批判を浴びることになった。そのため、その後は公的資金を投入した不良債権処理はほとんどタブー視されることになり、不良債権の処理は更におくれることになった。
公的資金の投入なしに不良債権の処理は不可能である。それが住専問題の不手際から再び先送りになった。大蔵省は当初、不良債権の大物は「住専」であり、「住専問題」が片づけば、大体、不良債権問題の山は越えたと思っていたふしがある。
94年3月期末に、主要銀行21行の公表ベースの不良債権額は、13兆5千億円であった。この他に3業態の「金利減免先」を、大蔵省は、当時、約10兆円と見込んだ。併せて24兆円、貸出総額の7%が不良債権の総額と推定した。
これに対して、95年3月期には、3業態で約3兆円、翌96年3月期には、0.5%という史上最低の金利を背景にして、銀行は史上最高の利益を上げ、一挙に9-10兆円の不良債権の償却を行なった。
公表されている不良債権額はこれで大方、処理されたことになる。あとは10兆円の「金利減免先」だけであり、「概ね5年」をかければ、十分に償却可能な額であった。
ところが実態の不良債権額は、この段階で大蔵省発表の2倍である40-50兆円はあるといわれており、100兆円とする人もいた。銀行経営の箸の上げ下ろしまで統制してきた大蔵省は、不良債権の実態さえも把握出来ていなかった。
バブル崩壊により1000兆円の資産が失われたのであるから、その1割の100兆円が不良債権として残っていても不思議はなかった。この不良債権額の実態把握さえ、バブルから5年をへても行われていなかったことが日本の不幸であった。
98年9月期の銀行の自己査定による不良債権額は、都銀など3業種で51兆円、銀行全体で66兆円になった。初期の楽観論とは全く異なり、巨額の不良債権が未処理のまま残っていることがわかった。
このような巨額の不良債権処理を本格的に行うと金融機関の中に経営破綻を生じる可能性が高くなる。そのため97-98年の金融危機の中で金融機関が破綻した場合の仕組みづくりが行われた。まるで大暴風の最中に、家の改修工事をやるようなものであった。
97年12月16日、自民党は総額30兆円の公的資金枠を設ける金融システム安定策をまとめた。これは30兆円の公的資金を預金保険機構に投入して、そのうち、17兆円で破綻した金融機関の処理を行い、13兆円で金融機関の自己資本を補強しようというものであった。
98年2月16日、預金者保護と金融機関の資本強化に公的資金を投入するための改正預金保険法(公的資金による預金保護)と金融機能安定化緊急措置法(公的資金による銀行の自己資本の充実)が成立し、3月には金融システム安定化法に基づく公的資金1兆8千億円が大手銀行を含む21行に投入された。
この方法は、あまりにも拙速、かつ横並びであった。その時には、健全行として資本注入が認められた日本長期信用銀行、日本債券信用銀行の2行は、それからわずか半年後に破綻して、その制度の甘さを露呈した。98年5月頃からは、政府は大手銀行の破綻も容認する方針に変わったようであり、2行の破綻処理は、98年9月、「特別公的管理」(一時国有化)という形でまとまった。
98年4月からは早期是正措置が導入されるため、自己資本比率の向上を迫られた金融機関は、不良債権の早期処理を目指して、融資の早期回収や融資先の選別を始めた。これは金融機関の経営の健全化のためには当然の措置であったが、不況下にあえぐ企業の側からは『貸し渋り』として不況に拍車をかけることになった。
この頃から住専以来タブーになっていた公的資金を利用して金融機関の資本強化に公的資金を投入することによる貸し渋り対策が浮上してきた。
長銀の特別公的管理を含む、銀行の新しい破綻処理制度を盛り込んだ金融再生関連法は、98年10月15日に成立した。これらの法案により、公的資金の枠は大幅に拡大された
破綻前の資本注入に使う金融機能早期健全化勘定に25兆円、破綻銀行の株式を買い取って国有化するための金融再生勘定に18兆円、従来からの預金者保護のために17兆円、併せて60兆円という巨額な資金が金融不安の解消のために準備されることになった。
99年前半は、日本の金融システムが立ち直れるかどうかという瀬戸際にきていた。99年3月決算を前にして、日銀は実質金利をゼロにする究極の政策をとった。これを株式市場のPKO(株価維持政策)と組み合わせることにより99年3月の危機を日本は何とか乗り越えることができた。
しかし銀行の不良債権は、21世紀の現在に至るまで、処理しても処理しても依然として巨額のまま残っている。それどころか21世紀の現在では、国家、地方、そして公共の特殊法人の債務が、不良債権化しており、それらが民営化の進行とともに深刻な問題になりつつある。
★日本の将来を脅かす公的金融の不良債権
2002年7月、日本道路公団において民営化のために財務諸表が作成されたといわれる。そこでは六千億円を超える債務超過になっていたという幻の財務諸表の存在をめぐって、2003年の夏には社会的な問題になり始めた。
道路公団を例にとると、「財政投融資資制度」という日本独特の公的金融による融資を受けて道路を建設してきた「特殊法人」である。このような政府の特殊法人の債務(=借金)は、2003年現在でなんと500兆円の巨額にのぼるといわれる。
もし指摘のように、道路公団が債務超過の状態であるならば、同じような特殊法人の財務状況も極めて怪しいと思われる。
国民の立場からすると、この500兆円に上る特殊法人の債務の内容がどれほど不良債権化しているのか!非常に懸念されるところである。しかもその実体は、本来は透明であるべき公共機関の財政状態が全く分からないのである。
財政投融資制度とは、郵便貯金,厚生年金の掛け金、国債などの資金が大蔵省の資金運用部により国家の資金として利用される日本独自のシステムであり、不思議なことに「一般会計」と表裏の関係にあることから『第二の予算』と呼ばれてきた。
その規模は大きく、最近では国家予算の歳入とほぼ同じ50兆円を超えるほどである。ただ両者(歳入予算と財政投融資)の決定的な違いは、財政投融資の資金は国家の借金であり、将来、国民に返さなければならない資金であることである。
その資金は、国民が国家を信用して預けている郵便貯金、簡易保険、厚生年金などからなり、国家に積み立てている資金が、国民の知らぬ間に、不良債権化していることが懸念されている。しかもその不良債権の実態は、国民に全く情報開示されていないのである。
「平成不況」において「公的資金」は色々なところで利用された。金融機関の救済、株価を維持するための「PKO」(株価維持操作)、為替相場への介入、など、その資金運用の結果、国民年金の基金は6兆円の赤字がでたとも伝えられた。
これらの公的資金における不良債権は、郵政事業、道路事業、公的住宅建設などの民営化の進行により、否応なしに白日の下に曝されることになるであろう。在来、日本において公的金融資金の占めてきた規模は非常に大きい。従って、不良債権の規模も民間金融機関のそれよりは、遥かに大きいのに、親方日の丸に隠れて国民に分からなくされていたことが懸念される。一刻も早くその内容が公開されることが期待される。
★日本の公的金融システムとその改革
日本の郵便貯金と財政投融資のシステム環境は、既に、1970年代の後半に転換期を迎えていた。そこでは大企業本位の景気対策として、公共工事がらみの大型プロジェクトが大々的に展開されるようになり、更に高度成長期に作られた公団、事業団、特殊法人などへの融資も増加した。また本来、一般会計で行われるべき公営住宅の建設などが、財政投融資で行われるようになった。
1976-85年は、日本の経済・金融の発展が、最高潮に達した時期である。その中での公的金融の拡大は、本来は国際的な市場経済の流れに逆行するものであり、その批判は増加した。しかしその時期、郵便貯金も財政投融資も重要な改革の対象とはならず、ともに従来通りの公的金融の役割を担い続けた。
1980年代後半に、郵便貯金の成長は銀行預金に比べて鈍化し、大きな転換期を迎えた。86年の税制改革でマル優システムが廃止され、郵便貯金の優位性は失われた。そして郵政省は、免税特権を失った補償として預金の一部を独自に運用する権利を得た。
90年代へ入り金融危機の懸念が出始めると、金融システムに大きな変化が出始めた。まず郵便貯金のシェアは急激に増加した。その時期、政府は91年から95年までの間に11の小規模信用組合を公式に閉鎖するという、戦後に前例のない措置をとった。そして94年には預金保険機構の準備金は底をつき、実質的に破産し、公的資金の注入が始まった。つまり日本の民間の金融システムは金融パニック寸前の状態になっていた。
このことが民間銀行から郵便局への資金移動を引き起こしたが、その移動の原因は、金融危機以外にもあった。それは郵便局が満期前引き出し権利付きの「定額貯金」(10年定期預金)を提供しており、民間銀行には長期の定期預金が許可されていなかった。金利が低下する時期には、当然、資金は長期の定期預金に流れるわけで、これも民間銀行から郵便局への90年代の資金の移動の原因になった。
民間銀行から郵便局への資金移動を阻止するために、郵政省は色々な手段を講じた。まず93年から郵政省は、郵便局が、預金獲得のために、銀行システムの問題点を宣伝することを禁じた。94年10月から、郵便貯金の利子率は民間銀行とほぼ同率に設定されるようになった。それまではなんと公的金融機関の利率が、民間より高率であったのである。
95年に、預金保険機構が再建・拡張されて、民間銀行の破綻の際の保全が補償されるようになった。95年に大蔵省は、すべての民間銀行に対して、2001年4月まで、預金を完全に補償するむね公表した。(その後、補償期限は、2003年4月まで延期された。)
このような措置にもかかわらず、90年代末にかけて民間銀行の貸し出しは減少し、政府系金融機関の貸出しが増加するという傾向が顕著に現れ始めた。このことは日本のビッグバンが考えた方向とまったく逆であり、日本の金融市場改革は、国際的には益々遅れることになった。
このような状況を背景にして、1998年6月のはじめに、大蔵省資金運用部の審議会が、財政投融資に対する改革の答申を出した。
答申の内容は、次の3点である。
第1に、日本の金融システムにおける財政投融資の果たした貢献を評価しつつ、70年以降の新しい環境に対する財政投融資制度の改革の必要性を指摘した。
第2に、計画的配分原則、郵便貯金、財政投融資の巨大な規模や非市場性が、ビッグバンが掲げる自由、公正、グローバルな市場と矛盾することを指摘した。
第3に、財政投融資における補助金、政策コスト分析と結果の公表、政府系金融機関や企業の資産・負債の時価会計による公表、キャッシュ・フロー分析の利用、貸出金利に対する市場金利の適用、政府系金融機関と公社・公団の資金調達における債券発行、郵便貯金、簡易保険、厚生年金、国民年金などの資金の全額自主運用など、具体的な財政投融資の改革案が指摘された。
この答申が提出された数週間後の98年6月、中央省庁改革法が制定された。この法律では、財政投融資制度が自由市場と両立できるための改革の必要性を明示し、2001年4月1日から、次の2つの事項が開始されることになった。
(1) 郵便貯金、簡易生命保険、年金の資金は、今後、財政投融資に用いる目的で
資金運用部に移されることはない。
(2) 政府系金融機関と政府系企業は、公開市場で資金を調達しなければならない。
2000年5月24日、財投改革関連法が成立した。資金運用部資金法、郵便貯金法などの改正案が可決され、財投改革が実現した。これによって郵貯や年金積立金の資金運用部への預託が廃止され、市場原理による資金調達が始まった。
郵便貯金と年金の資金は、市場で自主運用されることになった。一方、特殊法人の資金調達は、市場原理により「財投機関債」もしくは、国が「財投債」という名の国債を発行して融資することになった。
しかし実際には、2001年度から「財政機関債」を発行できる特殊法人は一部にかぎられており、2184億円の商工組合中央金庫、2000億円の住宅金融公庫、1400億円の日本道路公団など、20機関にすぎない。そのため市場での資金調達も財投債が中心になり、実質的に今までと変わらず、このことから財投温存の批判がでてきている。
2003年現在、せっかく旧大蔵省に代わり、内閣府が日本国家の経済運営の中心になることが期待されていた「経済財政諮問会議」も事務局の力不足から、予算編成の権限も旧大蔵省=財務省に奪い返された。「財政融資資金預託金」の管理・運用も財務大臣の所管になった。つまり省庁大改革は、結局、かけ声だけで、公的資金の管理の実態はほとんど変わらなかったように見える。
大蔵省も郵政省も特殊法人も、見かけは兎も角、実態は90年代を通じて殆ど変革することが出来なかった。これでは日本の金融市場が、国際市場として21世紀に生き残ることは最早困難であろう。2003年の現在、小泉改革で郵政民営化、特殊法人の民営化が口では言われていうが、橋本改革の実態を省みた時、暗澹たる気持ちにならざるをえない。
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