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  (2)平成不況の認識を誤った宮沢内閣(91.10-93.6)

★「バブル」とは何であったのか?
 1987年に日本の1人当たりのGDP(国内総生産)は、1万9,500ドルとなり、アメリカの1万8,400ドルを抜いてスイスに次ぐ世界第2位の豊かな国になった
 しかし大方の日本人には、世界有数の金持のレベルになったといわれても、そのような生活実感は全く異なく、統計上の数字と実感との差は「円高」の進行と共に益々大きくなっていった

 ドルで表示した日本のGDPは、1985年9月22日の「プラザ合意」以降の「円高」の進行により、ドル換算での所得水準も急激に上昇していった。
 1985年に1ドル226円であった「円」は、わずか3年後の87年には144円になった。このことによりドル換算による日本のGNPは、円表示では2年で16%増えたにすぎないのに、単純にドルで計算すると、2年で82%も増えたことになる

 この急激な「円高」のおかげで、85年に年収500万円のサラリーマンは、ドルで計算すると、85年には年収2万2千ドルであるが、87年には3万4千ドルをこえる高給取りに出世した。資産で計算すると更に驚く。
 85年に1,500万円であった資産は、ドルで計算すると6万6千ドルであるが、3年後には、10万ドルを越える資産になった。
 
 国際通貨ドルにより世界的な金持になった日本が、もし島国でなく多くの外国と地続きであったなら、日本人は安くなったドル貨幣を利用して、金持気分を満喫できたであろう。しかし不幸にして規制だらけの上に島国の日本人は、国内で「ドル」の有効活用は出来ず、しかも「円高」では輸出も難しくなる。

 そこでだぶついた円資金は、日銀による金融緩和と低金利政策とあいまって、国内の証券と不動産市場に流れ込んだ
 土地が狭い日本では、伝統的に不動産への投資は最も安全と思われており、銀行は不動産を担保にすればどれだけでも融資してくれた。更に驚いたことには、証券投資さえも日本では、企業間の株の持ち合い構造のおかげで、短期的に変動はあるものの、長期的には日経平均は必ず上がり続けると思われていた
 
 このような迷信を背景に、85年末に13,113円であった日経平均株価は、89年末には約3倍の38,916円をつけ、更に、90年代の始めには50,000円をつけると思われていた。
 また不動産の面では、90年代に東京はロンドンやニューヨークを超える世界の金融センターになると思われており、東京・商業地の地価は、87年には50%、88には60%と暴騰しており、その後にどれほど上がるか分からない状態にあった。

 80年代末、日本経済は、まさに「有頂天」にあり、これが「バブル」であった。
 その時期、日本では経済理論にも面白い思想が登場した。それは日本人1人当たりの所得水準が、世界第2位になっても、日本人にその生活実感がないのは、年々の努力や所得(=フロー)に比べて、1人当たりの資産額(=ストック)が少ないことにあるとするものであった。

 たとえば日本人の住宅資産額は、全体として160兆円あるものの1人当たりの住宅資産額は131万円であり、それはアメリカの半分、イギリスの7割の水準にある。
 そこで日本経済の豊かさを実感するには、世界一の債権大国にふさわしい社会資本ストックの整備を国の政策として進めることが重要とするものであった

 この思想は、日本にバブルを生み出した張本人である中曽根内閣の時に登場した。そこでは日本人が日本経済の豊かさを実感するためには、世界一の債権大国に相応しい社会資本ストックの整備が重要であると考えられた。そこで中曽根首相の諮問機関である経済審議会は、日本国の政策を従来の「産業中心」から「生活重視」に切り替え、21世紀に向けて国際社会に貢献する「文化国家」を創造することを求めた。

 1980年代の後半、円高により世界一の経済規模に拡大した日本経済を、従来の「輸出依存型」経済から「内需主導型」経済へ大転換させようとした。それが上記の「産業中心」思想から「生活重視」の思想に結びついた。

 80年代の初頭、既に日本の国家財政は危機的な状態にあった。そこで中曽根内閣は、上記の国家政策の大転換を、国家予算ではなく「民間活力」(いわゆる「民活」)を利用して行うことを考え出した。そこで登場したのが「第3セクター」である。1986年5月には「民活法」が制定された。

 この「民活」によって、東京臨海副都心、みなとみらい21、関西国際空港、本四連絡橋などの巨大プロジェクトが、国家予算に拘束されることなく次々に推進された。更に全国で自治体がすすめる巨大プロジェクトが、これと併行して進められた。これらのプロジェクトは、国家や自治体が主体として参加しているため、銀行・信用組合などの金融機関は、担保も確かめず融資した。民活に便乗したゴルフ場、リゾート、マンションのプロジェクトには、大建設企業が連帯保証人になって融資が行われた。このような国を挙げての狂乱的な状況が、「生活重視」、「内需拡大」の名の下に作り出されたのが80年代後半の「バブル」であった。

★バブル崩壊
 この狂乱的状況が、「生活重視」の21世紀社会を作り出すと思った人は少ない。多くの国民は、日本の政治・経済の前途に非常な不安をもっていた。

 89年12月、日銀の三重野総裁は、就任とともに公定歩合を3.75%から4.25%に上げ、更に翌90年3月に5.25%に引き上げた。
 同月、大蔵省は土地関連融資の総量規制と不動産、建設、ノンバンクの3業種に対する規制に乗り出した。

 日銀、大蔵省がバブル退治に乗り出した途端、膨らみきった風船がはじけた。90年末には5万円をつけると思われていた東証株価のみか、債券、円までが、90年1月から一斉に下がり始めた。金利の引き上げと土地関連融資の総量規制が実施された頃から地価も低落傾向に入り始めた。

 これに加えて92年から地価税が新設され、94年から固定資産税が引き上げられ、それにともない都市計画税、不動産取得税、登録免許税が上がり、土地の流動化は更に困難になった。その上、遊休土地には特別土地保有税、遊休土地保有税などの懲罰的重税が課せられることになった。これらの土地政策が、実施される前に、既に土地価格は下落し始めていた。

 まさに日本政府は、経済失政によってバブルを発生させ、その終焉過程では、再び、失政によってその後の平成不況を深刻化させた。昭和初年の大恐慌において、浜口内閣と井上蔵相の失政が恐慌をより深刻化させ、満州事変以降の軍部台頭の原因をつくった状況と極めて似ている。今回は、その規模と深刻さにおいて昭和恐慌よりひどいと私は思う。 

 日本の国民も、80年代の終わりに、既に自民党政権では日本が21世紀に生き残ることは難しいことを予感し始めていた。そのため、1989年7月24日、自民党は参議院選挙で大敗し、保革逆転するという事態がおこっていた。

 本来は、そこで自民党による55年体制と決別し、新しい時代への一歩を始めるべきであった。それなのに10年以上を経ても、日本国民は依然として古い自民党支配の下で呻吟している。それは最早、自民党が悪いというより、国民が悪いとしかいいようがない昨今である。

★宮沢内閣の失政
 1991年10月27日、海部首相に代わり政権の座についた宮沢喜一首相は、政治経験も豊富で、特に経済に詳しい政治家といわれていた。
 既にこの時点で、日本では世界でも類を見ない大規模なバブルが崩壊して、土地、証券の価格が暴落して、既に1000兆円を超える国民の資産が失われていた
 しかし驚くべきことに、このことが経済政策に精通しているはずの宮沢首相には、分からなかったようである
   
 既に、バブルが崩壊して2年近く経過していた。ちょっと眺めただけでも、日本中の企業が満身創痍の状態にあり、不良債権が巷にあふれているのが分かったはずである。現に、大蔵省自身が創立に深くかかわり、バブル後の最初に問題となった「住専」(住宅専門金融会社)の巨大な不良債権に対して、火がつきかかっていた

 大蔵省は、91-92年にかけて、住専に対する「第1次立入調査」を実施していた。そして住専8社中、7社で不良債権が貸出総額の37.8%、4兆6479億円という巨額になるという容易ならざる事態になっていることが分かっていた。

 しかしこのような日本経済の状況に、宮沢首相は全く違う認識を持っていた。
 つまり経済に明るい宮沢首相の目から見ると、90年代の日本経済では、新産業が日本の経済社会と産業構造を急激に変えつつあり、その潜在成長力は昭和30-40年代に匹敵するものであったのである。更に、この観点から、宮沢首相の90年代は、日本が21世紀へ向かうための、高度成長期に次ぐ第2の飛躍の年であったのである。(弘中喜通「宮沢政権・644日」、25頁)。

 宮沢首相が自民党の総裁選で述べた政権構想は、なんと高度成長の生みの親、池田首相の「所得倍増計画」にならう「資産倍増論」であった。
 そこには土地と株の価格を暴騰させた「資産バブル」の反省など全くないどころか、もう一度、資産バブルに挑戦しようとしか思えない経済政策であった。

 宮沢首相の所信表明を見ると、「公正な社会」、「生活大国」、「品格ある国」という社会科の教科書のような抽象的な言葉が並んでおり、日本が未曾有の危機に突入した危機感は全く感じられない。それどころか、この観点にたった92-96年度の長期経済計画は、「生活大国5ヵ年計画」と名づけられ、労働時間の短縮と年収の5倍程度での住宅を整備するというなんとも時代離れした政策が提案されていた。

 この驚くべき新経済計画は、首相の諮問機関である経済審議会で、大蔵省の反対を押し切って、6月25日に発表された。7月6日に予定されているミュンヘン・サミットにおける宮沢経済政策の目玉にしたかったものといわれる(塩田潮「政権盗り」)。不幸にして、首相の経済政策とは無関係に日本経済の状況は悪化していた。
 92年3月には、日銀短観が景気の悪化を指摘し、4月7日には、東証株価は16,598円をつけた。

 92年8月10日には、とうとう東証株価は15,000円を割り込み、6年4ヶ月ぶりの安値をつけた。この段階で宮沢首相は、積極財政論者の本領を発揮して、財政危機におびえる大蔵官僚を叱咤して、積極政策に乗り出し、8月28日に10兆7千億円の総合経済対策を閣議決定した。これによって一気に景気回復を狙ったが、一時的に回復した株価も、年末には再び17,000円を割り込んだ。
 " too late, too small " といわれ、92年度の日本経済はゼロ成長に落ち込んだ

 バブル期の過剰投資、過剰雇用の調整や不良債権の処理には全く手を触れない景気政策は、宮沢内閣の時から始まり、結局は、「この強い日本をつぶしたのは、官僚と政治家であるといわれる」(京大教授・吉田和男―日本経済新聞96.1.25)ようになった。宮沢喜一氏は、日本に大バブルを発生させた最大の責任者である中曽根内閣、竹下内閣を通しての大蔵大臣であり、日本にバブルを発生させたいわば「A級戦犯」である。この宮沢内閣に日本のバブル期の清算を行い、日本経済を回復基調にのせることを期待することは、所詮、無理であった

 当然のことながら、宮沢内閣の支持率は発足当初には54%と高かったものの、92年9月には32.6%まで下落した。そして最後には、佐川急便事件に端を発した金丸副総裁の脱税事件、さらには副総裁の逮捕という政治不信の中で、内閣支持率は10.4%まで急落した。そして93年6月17日に内閣不信任案が国会を通過し、自民党は結党以来、始めて野党に転落することになった

 宮沢首相は55年体制における自民党単独政権の最後の首相になった。戦前の日本の政治の失敗は、軍部の独走のみが強調されるが、本当は昭和恐慌における浜口内閣と井上財政の失敗により大きな責任があったと私は考えている。
 つまり昭和初年の浜口内閣の失政は、平成の宮沢内閣の経済失政と私には2重写しになって見える。浜口内閣が、金本位制復帰による失政で不況をより深刻化させたように、宮沢内閣は、日本経済建て直しのための最初の重要な時間(91-93年)を無為に見送り、そのチャンスを棒にふってしまった




 
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