(4)橋本内閣の諸改革―客観情勢を無視した大改革(96.1.11-97.7.13)
★住専問題―不良債権処理の最初のつまずき
「住専」とは、住宅金融専門会社の総称である。民間会社ではあるが、実際には主として大蔵省直系のノンバンクである。1971年から79年にかけて大蔵系の7社、農協系の1社、合わせて8社が設立された。
70年代には、まだ銀行が個人向けの住宅ローンに力を入れていなかったので、個人の住宅ローンを扱う会社として設立され、業績を伸ばした。しかし80年代に入ると、銀行が個人の住宅ローンに力を入れ始めたため、住専の融資対象は不動産業に拡大され、更にバブル期には不動産業、建設業、ノンバンクへ領域を広めた。
住専の経営トップには、大蔵省のOBが社長、会長として天下り、農協系を除く7社に対してその数は12人に及んだ。当初、住専の貸出額の中心は個人住宅であり、81年には個人向け貸し出しが96%を占めていたが、90年代には事業向け融資が増加し、90年には個人向け融資は24%まで低落していた。
この段階でバブルが崩壊し地価が暴落したため、住専の経営危機は91年に入ると、もはや覆い隠せないほど深刻化した。驚いた大蔵省は、91年秋から92年夏にかけて相次いで住専に立ち入り調査を行った。既にその段階で債務超過に陥っていたといわれるが、この内容が公開されたのは、5年後の96年1月ことであった。
91年に第一次再建計画、93年に第二次再建計画が作られたが、もはや住専の再建は不可能であり、更に当事者間で処理コストの負担配分の調整がつかず、事態は混迷して不良債権の額は更に増え続けた。
95年6月末の第二次調査の段階で、住専7社の貸付金残高は、10兆7千億円、不良債権はその内の7割を占める8兆1千億円という巨額に上ると推測された。
この住専の不良債権の処理をするために、95年12月19日、住専の不良債権に対して母体行3兆5千億円、一般行1兆7千億円、農協系5千3百億円、そして財政支出6,850億円というコスト配分で処理を行うことが閣議で決定した。
この時の閣議の主催者は、社会党の村山首相である。この財政支出は、春の国会で予算承認を受けなければならない。それにも拘らず、村山首相は、1月早々、辞意を表明し、住専問題の国会承認は、96年1月11日に発足した橋本内閣の最初の仕事になった。
大蔵省直轄の民間金融機関である「住専」の不良債権の処理に、初めて公的資金が投入されることになった。しかし、それに関わる政治家、官僚、財界人の責任は、全く明確にされず、ただ財政資金が投入されることに国民は激しく反発した。
そのため、3月の予算審議の国会は「住専国会」と呼ばれ、激しく荒れた。5月までかかってようやく予算案は成立したが、このことがその後、不良債権処理に公的資金を使うことに対する大きな障害になった。
住専の不良債権処理で出鼻をくじかれて橋本内閣は、バブル後の日本経済の復興のために最も優先度が高い不良債権問題を後回しにして、日本の大改革に着手した。
★橋本内閣による日本大改革―広げすぎた大風呂敷
橋本首相は、自民党政権復活の日には、首相の最有力候補と目された「保守の本命」の政治家である。政界きっての政策通といわれ、「久しぶりの本格政権」という期待を担って、1996年1月11日に颯爽と政治の舞台へ登場した。
橋本は既に政権獲得の1年前から中央省庁の統廃合を含む行政改革に積極的に取り組み始めており、政権を獲得するや,財政構造改革、金融システム改革、経済構造改革、社会保障構造改革、教育改革を合わせて、「六大改革」という大風呂敷を広げて走り始めた。
90年代に入り、日本の旧来の政治・経済のシステムは到るところでしくみの劣化が目立ち始めていた。しかしすべての部門で改革が必要になってきていたとはいえ、この「六大改革」は、あまりにも間口を広げすぎており、その間の優先度も不明確であった。いわば橋本改革には、戦略の基本が全く欠如していたように見える。
更に、経済政策においては、日本の景気が回復期に入ったという全く誤った経済認識をしていた。このことが、財政構造改革を実行に移そうとした段階で、国民の消費を更に冷え込ませて、97年の大金融危機を惹き起こした。そしてその結果、政策転換を余儀なくされてしまった。
橋本内閣において、国民は97年4月の消費税の引き上げに加えて、特別減税の廃止により巨額の負担増を強いられることになった。このような消費の足を引っ張る経済政策に踏み切った背景には、その年の7月の「経済白書」が「バブル後遺症の清算から自律回復へ」と述べているように、日本経済は自律回復に向かっており、秋口には景気回復に向かうという誤った現状認識があった。
しかし実体経済は、予想以上に悪化していた。97年4-6月期の実質成長率が年率換算でマイナス11.2%という第一次石油ショック以来、23年ぶりの落ち込みになっており、この状況が分かったのは9月であるが、橋本首相はこのことに関心を示した形跡は全くない。
2-8月、2万円前後で推移していた株価は、9月に1万8千円台をつけ、10月には1万7千円台に下落した。
97年7-9月には、アジア通貨危機が始まっており、東南アジアに融資総額の大きい日本の銀行の不良債権問題が外国の投資家には、非常に懸念されるようになった。このため8月以降、外人投資家は日本の円の売り越しに向かい、円安が進行し、円安がアジア通貨危機を更に深刻化させるという悪循環に落ち込んだ。
9-10月にかけて日本円の売りこし額は増加した。円レートは下がり始め、98年6月には1ドル-148円という7年10ヶ月ぶりの安値まで下がった。この円安により日本からアジアへの民間の資本輸出は止まり、アジア危機は、更に深刻化していくことになった。
7月にタイの通貨バーツの暴落に端を発したアジア通貨危機は、10月に入って世界金融危機の様相を呈してきた。10月27日、ニューヨーク証券市場での株価の暴落は、翌28日には、東京、ロンドン、フランクフルトの証券市場における株価の暴落をひきおこした。つまり秋口にいたって、アジア通貨危機は、世界恐慌に発展する気配を見せ始めていた。
日本では、11月3日に三洋証券が破綻、17日には北海道拓殖銀行が破綻、24日には4大証券の一つである山一證券が破綻した。11月14日には、日経平均株価は14,966円まで急落し、国際ヘッジファンドは、日本を標的にして動き始めていた。このようになっても橋本政権は、まだ財政改革に固執しており、世界的金融危機の中、11月28日に「財政構造改革法」が成立した。
11月6日には、平成15年までの歳出削減目標を盛り込んだ財政構造改革法案が衆議院を通過し、行政改革会議は省庁統合に向けた最終報告にむけた審議が行われていた。11月22日、山一證券・破綻の衝撃的ニュースが伝わった日、橋本首相は記者団に、「報告を受けていない。事実関係を掌握していないからコメントできない」といった。これはまるで官僚の言葉であり、ほとんど恐慌に突入している段階で、行政のトップがいう言葉ではない。
11月24日、カナダのAPECに出席した時、外国首脳から「日本は大丈夫か?」といわれて、初めて日本経済の悪化を深刻に受け止めるお粗末ぶりであった。
1965年5月28日、山一証券の倒産をその寸前で救い、未曾有の証券危機に発展するのを食い止めた田中角栄大蔵大臣と比較してみるとよい。日本が経験する最大級の金融危機に際して、橋本首相はあまりにも危機意識が乏しく、鈍感であった。
景気失速に金融危機が重なり、経済危機は深刻さを増し、外国でも「ハシモト・リセッシヨン」と呼ばれ、政権交代の情報が流れると株価が上昇するまでになった。
98年4月になり、「3月危機」が襲うかどうか、日本中が息を詰めて見守る中で、財政構造改革法の範囲内での総合経済対策が行われた。アメリカからは、内需拡大から財革法の改正まで注文がつけられており、4月9日、橋本首相は、特別減税4兆円、11年度も2兆円減税継続、財政出動10兆円、財革法改正は今国会で実現するとして、ようやく政策転換を明言した。党執行部は、減税よりも公共事業優先を唱えていた。
98年6月、自民党の支持率は30%をわり、株価は14,000円台に急落、前年秋につづく大型危機の予感がただよい始めた。円相場は146円をつけて、東京市場は、6月12日前後からトリプル安の日本売りが進行を始め、日本の金融危機は濃厚になってきていた。7月12日の参議院選挙で自民党は大敗し、橋本首相は辞意を表明した。
それから後、小渕、森と自民党政権が続いたが、構造改革も景気回復も不良債権処理もすべて先送りされたまま、日本は21世紀に突入した。
次ぎに、橋本政権がやろうとした財政構造改革と金融改革、そしてアジア通貨危機に端を発した日本の金融危機について述べる。
★財政構造改革
「財政構造改革法」は、97年11月28日、北拓、山一が経営破綻し、日本中が経済恐慌の足音に怯える中で成立した。そのために、2003年を目途に赤字国債を減らしてくという計画は、最初から完全に出鼻をくじかれ、98年3月には生みの親の橋本首相自身が、成立したばかりの法律の改正と減税に言及する羽目になった。
大蔵省は、95年に「財政危機宣言」を出して後、従来はあまり公表してこなかった政府債務の状況を公表するようになった。
97年2月6日、衆議院予算委員会で小村主計局長(6月、事務次官)が明らかにしたところでは、97年末における日本の借金の状況はつぎのようになる。
国の長期債務 |
344兆円 |
地方の債務 |
147兆円 |
国の「隠れ借金」 |
45兆円 |
国と地方の債務の重複部分 |
15兆円 |
差引き合計(97年末) |
521兆円 |
97年の名目GDP(国内総生産)は516兆円であるから、日本の広義の国家債務は、既に97年末の時点で、GDPを越える容易ならざる事態になっていた。
国家の借金だけでなく、財政状態も諸外国に比べて非常に悪化していた。
OECD(経済協力開発機構)の「エコノミック・アウトルック」(97年6月)によると、国、地方、年金基金を総合した「一般政府」の財政赤字が、GDPに占める比率は次ぎのようになる。
アメリカ |
1.6% |
ドイツ |
3.8% |
フランス |
4.2% |
イギリス |
4.4% |
カナダ |
1.8% |
イタリア |
6.7% |
これに対して、日本の96年実績は4.4%であり、先進国で日本より悪いのはイタリアだけである。(小此木潔「財政構造改革」、岩波新書、14-16頁)
このような日本の財政の危機的な状況を背景にして、98年から3年間を「集中改革期間」として、一般歳出の伸びを前年度比でマイナスとし、2003年度までに、国・地方の財政赤字をGDPの3%以内に抑えることにより、赤字国債依存から脱却し、国債依存度(歳入に占める国債の割合)を引下げるようにする。
更に、98年度予算から、主要経費ごとに削減幅を設定する、というのが財政構造改革法の趣旨であった。
かって、第2次石油危機の後、1980年を「財政再建元年」として、82年度には、概算要求の段階で一律ゼロシーリングの設定による歳出抑制が行われた。更に83年度以降には、マイナスシーリングの設定が行われて、85年度予算において公債依存度を22.2%まで落とすことが出来たことがある。今回は、これを財革法という法律により、多年度にわたる歳出抑制を狙ったものである。
橋本内閣は、日本経済が回復軌道に乗ったという認識の下、大蔵省の描いた路線に従って、財政構造改革を6大改革の先頭にたてて、改革を推進しようとした。これが戦略的な躓きの最初になった。まず97年は、アジア通貨危機から世界恐慌の寸前までいった年である。このような経済環境下での経済改革は、非常に難しい。
本来、ダイナミックな経済政策の発動が必要であった時期に、視野の狭い官僚的な予算削減を中心にした改革は、必要な経済政策の手足を縛ってしまった。
山一や北拓が破綻するという金融危機の最も重要な段階で、橋本首相は「財政構造改革」の呪縛の中にあり、その対応は極めて鈍かった。
98年が明けて、1月12日、金融経済演説を行い、「日本発の金融恐慌はおこさない」といったが、株価は14,664円という低水準に落ち込んだ。そして巨額の不良債権を抱えたまま、財革法により財政出動も出来なくなった橋本内閣のもとで、経済界は「3月危機」に脅え始めた。
年が改まると、政府首脳の口先介入が始まった。1月、橋本首相は国会で特別減税の継続に含みを持たせる答弁を行った。加藤幹事長は、財革法の目標年次の先送りを示唆し、山崎幹事長は法人税率引下げを示唆した。
このような口先介入を繰り返して、ようやく株価は1月26日に17,000円を越えた。橋本政権は、もはや政策を転換する以外に道がない状態に追い込まれていた。3月には、日本経済の97年の成長率はマイナスになる見通しが強くなっていた。
4月23日、財革法の改正がきまり、翌日、4兆円の特別減税、7兆円の公共投資を含む16兆6500億円の財政出動が決まり、大きく政策転換をして7月の参議院選に臨むことになった。参議院選挙の結果は、宇野内閣に次ぐ、史上2番目という自民党の大敗北に終わり、橋本首相は辞意を表明した。
次の小渕内閣は、「財政構造改革法」を棚上げにすることを表明した。
★金融改革―日本版「ビッグバン」
日本の金融システムは、1920年代末に勃発した「昭和恐慌」に対応する銀行制度の再構築に端を発し、40年代の戦時経済体制の下で強化され、第2次大戦後の経済復興政策によって仕上げられたものが基礎になっている。
金融産業、特に銀行に対しては、民間企業でありながら、経営の末端まで大蔵省の指導によって行われたことから「護送船団方式」と呼ばれる超保護主義的な集団的経営方式がとられてきた。
このような金融産業の経営方式は、1980年代以降の世界的な金融自由化の流れに全く合わなくなってきていた。日本でも1980年の外国為替取引の自由化以来、日本の資本市場も国際資本市場との接点を広げてきていたが、この流れを21世紀に東京を国債資本市場として再生しようというのが橋本首相の「日本版ビッグバン」である。
「ビッグバン」とは、宇宙が生まれた時の大爆発の意味で、1986年にサッチャー政権によるイギリスの金融システム改革の際に用いられた言葉である。アメリカでも、1960年代にニューヨーク証券取引所で手数料の完全自由化の改革が行われたが、ここでは5月1日からそれが実施されたことから「メイデー」と呼ばれた。
その改革の内容は、日本の金融改革が最も包括的なものとなっている。
1996年11月11日、第2次橋本内閣の発足の日、橋本首相は、三塚大蔵大臣と松浦法務大臣に「2001年東京市場の再生に向けて」という副題のついた文書を渡して、日本の金融システムの抜本的な再構築にかかることを指示した。
橋本首相のこの着想は、ドイツのコール首相が東京をアジアの金融の中心にするためには、日本の金融システムの徹底的な改革が必要であることを進言したのに端を発して、大蔵省から派遣された首相秘書官が草案にまとめたといわれる。(星・ヒュー・パトリック編「日本金融システムの危機と変貌」,日本経済新聞社、292頁)
その金融システム改革の構想は、次のものである。
1.2001年までに、東京市場を、ニューヨーク、ロンドンに匹敵する国際金融市場に
することを目標にする。
2.この目標を達成するために、政府・与党を挙げて、「金融改革」と「不良債権
処理」の課題の検討に取り組み、今後5年間で完了する。
3.改革は、次の3原則に従う。
Free(市場原理が働く自由な市場に)−参入・商品・価格等の自由化
Fair(透明で信頼できる市場に)−ルールの明確化・透明化、投資家保護
Global(国際的で時代を先取りする市場に)−グローバル化に対応した法制度、
会計制度,監督制度の整備)
そして3原則に対応した具体的な検討項目が例示されていた。
この段階で、経済審議会行動計画委員会金融ワーキンググループ(座長池尾和人慶応大学教授)は、「わが国金融システムの活性化のために」という詳細な報告書をまとめていた。
この報告書は、3つのパートからなる。
まず、第1のパートは、金融機関における「幅広い競争の実現」である。金融機関同士の相互参入のみか、他業種からの参入を認めようというものである。
第2のパートは、「資産取引の自由化」であり、「今後のわが国の高齢化・ストック化の進行にともない、高利回りでリスクの少ない資産運用を実現」するための、「自由な取引環境を整備する」ことがうたわれていた。
第3のパートは、「規制・監督体制の見直し」であり、わが国の金融システムが国際競争を生き抜くための新しい規制・監督体制の整備を指摘した。
ビッグバンの実現に当たって「ウィンブルドン方式」(東京市場の場は提供するが、活躍するのは外人選手)、「Jリーグ方式」(監督に外人を起用するが、日本勢も活躍する)、「ニッポン柔道方式」(国際ルールを取り入れ、日本の国際競争力は維持する)など、どの方式を取るかが問題となった。
ただこの報告書も、日本における郵便貯金、簡易保険などの巨大化し、問題となっている公的金融を除外した点に大きな問題を残した。
96年11月に金融ビッグバン構想が発表された後、政府はいくつかの分野で具体的な制度改革に着手した。それを次にまとめる。
●資産運用サービスの合理化
日本には、個人部門が保有する膨大な金融資産がある。その額は、1965年末には323億円であったが、1996年1兆2091億円になったが、その半分以上の53.4%が現金・預金の形で保有されている。このことは日本では、資産運用サービスが非常に弱体であることを示しており、資産管理業の質を高め、証券市場などで資金運用を行う機運を作り出すことが求められている。
従来の資産管理業務は、主として信託銀行と生命保険会社の領域であった。しかしこれらの金融機関の戦略は、個人の家計や利益と全く整合してこなかった。
ビッグバンの流れを受けて、資産管理業務への新規参入が自由化された。また政府は、投資信託分野における競争の促進にものりだした。98年6月に投資信託法が改正されて、私的投資信託(少数の投資家から集めた資金を運用するファンド)が解禁された。これによって日本でも、ヘッジファンドをつくることが可能になった。
98年6月以降、銀行や生命保険会社は、窓口で投資信託商品を販売することが認められた。99年5月時点で銀行と生命保険会社が売却した投資信託商品の残高は1兆1千億円になった。これは投資信託算高の2.2%にすぎないが、1年足らずの期間であったことを考えると伸びは急速であったといえる。(「金融財政事情」99.6.23調査)。
更に、98年6月に成立した「金融システム改革法」により、証券市場における投資家や生命保険加入者の利益を、業者の倒産から保護する特別な組織が設立された。
●企業金融の改革
1954年以来、日本企業が国内で社債を発行することを制限してきた「適債基準」が゙96年1月に撤廃された。更に、金融ビッグバン構想が発表されて以来、国内企業金融の分野における規制緩和が非常に進んだ。たとえばパーペチュアル債券(発行時点で償還期限が特定されていない社債)、ミディアム・ターム・ノート(資金調達企業が証券会社と契約して、予め定めた上限額の範囲で、伸縮的に発行できる社債)など、新しい資金調達手段が導入された。
これらの新しい資金調達手段は、企業金融に高い伸縮性を与えることが期待されている。更に政府は、小規模・零細企業の資金調達を支援するために、株式店舗市場や未上場企業の株式取引を発達させようと努力した。また99年5月の法改正によって、非銀行金融会社が、自ら社債ないしコマーシャル・ペーパーの発行によって調達した資金を企業に貸し付けることが出来るようになった。
しかしこれらの改革は、海外では既に普及している資金調達方法を後追いしたに過ぎず、日本の優良企業の多くは過去20年にわたり国際資本市場で調達してきたものを、国内市場で可能にしたものであり、いかにも遅い改革であった。
この改革で特に注目すべきは、中小企業向けの資本市場の促進策である。これが最近の銀行の貸し渋りの中で、どれほどの効果を齎すかがカギになっている。
●資本市場の効率化に向けての改革
80年の外国為替取引の自由化以来、日本の資本市場も徐々に国際資本市場との接点を広げてきた。日本の資本市場にとって特に重要なことは、公正で透明な取引を保証するルールの確立である。これが従来の大蔵省主導による日本の資本市場に最も欠如していた。
政府は、情報開示制度を次の2点で改善した。
第一は、連結決算制度を徹底させることによる企業の透明の確保であった。これにより親会社・子会社間での経理操作による粉飾を排除しようとした。98年に銀行・金融機関にかかわる連結決算ルールが改正され、それにより都市銀行の不良債権は13兆円増えたといわれる。(日経新聞、99年5月22日)。このルールは、2000年4月以降、非金融事業会社にも適用される。
第二に、キャッシュ・フロー会計が、2003年3月から導入された。これにより株主の立場からの企業評価がより可能になった。
また、企業経営と情報開示への責任追及をしやすくした。93年の商法改正により株主代表訴訟の費用が大幅に引き下げられた。これにより91年以降、日本でも株主代表訴訟が急増し、経営者は株主に対する責任を重視するようになった。
●市場競争を高める改革
日本の金融サービス業の機能を高めるためには、この産業のすべての分野に新規参入を認めることである。従来、政府は既存の金融機関、業者を保護するために、新規参入を阻止し、業務領域を固定化してきた。これが98年の金融システム改革関連法によって、業務分野間の相互参入の制限を取り払う措置が講じられた。
このことにより金融業以外からの参入が活発化した。99年3月、オリックス・コーポレーションが、オリックス信託銀行を設立し、電話やインターネットを利用した預金業務を開始した。また三菱商事が゙、99年4月に証券業務に参入した。
業務分野規制で重要なのは、独禁法が従来、禁じてきた持ち株会社の設立に関するものである。97年7月、独禁法が改正されて、「純粋形態」の持ち株会社が認められた。これにより銀行グループが、持ち株会社により統合・編成されるようになった。
●経営健全規制の強化
90年代後半になって、深刻な金融システム危機の中で政府はようやく経営健全規制の重要性を認識するようになり、更にセーフティ・ネットの再構築のための緊急措置を講ぜざるを得なくなった。この流れの中で、最も重要なことは、98年6月の、金融監督庁の設立である。
金融監督庁は、大蔵省から切り離され、内閣に直属する総理府の外局として設立され、金融機関の経営監督機能は大蔵省からここに移された。そして2000年7月に、金融庁に格上げされ、金融システムにかかわる幅広い監督権限が付与された。
これに対して旧大蔵省は、2001年の省庁再編により、財務省と変わり、主として予算、財政、税制を管轄することになった。
金融監督庁が大蔵省から十分に独立していないという批判を受けて、98年10月に金融再生委員会設置法が制定され、同法に基づき金融再生委員会が、総理府の外局として設置された。そして、この委員会が、金融監督庁の上位にあって金融機能の早期再生を目指す危機管理的施策を実行する役割をになうことになった。
「早期是正措置」と称する規制措置が、98年4月から、金融監督庁によって発動されることになった。この措置は、自己資本比率が予め指定された水準以下に達した銀行に対して、金融監督庁が経営の再構築、あるいは営業の(一部)停止を命令できるものである。この措置は、金融監督庁に対して明示されたルールに従い、不良債権の増加などで財務状況が劣化した銀行などに対して、早期に経営改善を指示する手段を与えた。
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