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  (1)日本にとっての湾岸戦争(1990.7−1991.7)

★日本にとっての湾岸戦争とは?
 日本は、他国との戦争は勿論、自衛のための戦争も禁じる憲法をもつ世界唯一の国である。憲法は国内法であるから、それをもって外国を規制することはできない。
 世界には他国を平気で侵略する国もあれば、多国間の戦争に心ならずも巻き込まれることもある。 そのような場合に、日本は実際にどう対処するのか? 太平洋戦争から50年間、朝鮮戦争やベトナム戦争など、近くにいくつも戦争がありながら、日本は国家として、これらの戦争への対応をほとんど考えてこなかった
 
 そのため、国際紛争や難民問題など、現代国家が直面する重要問題に対しても、日本は国家としてほとんど対応ができない状態にある。このような国家の姿勢を反映して、国際紛争などの実務にかかわる日本の総理府、防衛庁、外務省などの機関は、国際政治の窓口としての必要な機能をほとんど果たしてこなかった。

 その意味で、戦後の日本は独立した国家として機能的に重大な欠陥をもっていた。更にそのことについて全国民的な議論もないまま50年が過ぎてきた。
 このことを世界的規模で白日のもとに曝したのが、90年の湾岸戦争における日本の対応であった。しかもその際の場当たり的な対応は、10年をへた2003年3月のアメリカ・イラク戦争においてもほとんど変わらず、むしろ一層、悪化した。

 03年3月のアメリカ・イラク戦争において、小泉内閣は当初からひたすらブッシュ政権の方針に忠実に従うことにより対応した。そのことは、アメリカが、国連の方針に従わず、独自に行動しようとした時、それでもアメリカに従うと小泉首相が国会で宣言したときにきわまった。

 しかし、その方針が全国民的な論議を経たわけでもなくもなく、小泉首相の行き当たり的な言動からでてきているところに大きな問題がある
 
 アメリカは、今回のイラク戦争で軍事的には勝利したものの、戦争後の占領政策を通じて、アラブ諸国の反米思想は寧ろ高まってきている。今回のように国連を無視したブッシュ政権の軍事行動には、ヨーロッパ諸国、ロシア、中国など、全世界的に反感が高まってきているのが最近の国際的な動向である。
 
 その中で、国家としての主体性もなく、漂い続ける日本国の外交姿勢に、深刻な危惧を感じるのは、私だけではないだろう
 
★90年の湾岸戦争の発端
 1990年7月中旬、イラクの3万5千の兵員がクウェート国境の近くに展開しているのをアメリカの宇宙衛星はキャッチしていた。
 しかしアメリカ及び中東の首脳や専門家の意見の多くは、1980年9月から8年にわたるイラン・イラク戦争によりイラクは既に相当に疲弊しており、今回、イラクが戦争に突入することはまずないであろう、とする楽観論で一致していた

 一方、イラクのサダム・フセインは、7月25日にアメリカの駐イラク大使エイプリル・グラスピーと会い、アメリカはイラクとクウェートの国境問題には口を出さないという感触を得ていた。
 事実、ブッシュ政権はレーガン政権下の膨大な財政赤字、貿易赤字を引き継いでおり、中東で戦争を展開する財政的な余裕など全くない状態にあった。1995年にはアメリカは国家破産するというレポートが、出ていたほどである。

 アメリカ国防省とブッシュ政権は、90年7月30日から8月1日にかけて、10万を越えるイラクの機甲師団がクウェート国境に迫っているのを知っていたが、それでも、まだイラクが本当にクウェートに攻め込むとは考えていなかった。

 しかしアメリカの予想を裏切って、サダムの12万の機甲師団は、8月2日、本当にクウェートに侵攻した

 この湾岸戦争においても、アメリカの国内では、米国単独で作戦遂行を主張する派と国連が編成する「多国籍軍」による作戦を主張する派の対立があったが、後者が勝利し、国連を中心にして対イラクの戦略を展開することになった。
 8月2日、アメリカは即日、イラクの行動を非難すると共に、即時、無条件撤退の緊急声明を発表した。そして、その同日、国連安全保障理事会もイラクの侵攻を非難し、即時無条件撤退を決議した。

 8月はじめ、ブッシュ大統領はコロラド州アスペンの研究所でイギリスのサッチャー首相と共に、講演することになっていた。サッチャー首相は、サダムがクウェートに侵攻した場合、数日でペルシャ湾岸まで進み、サウジアラビアを攻撃して世界の石油の65%を手中に収めることを恐れていた。
 そこでイギリス自体、直ちに軍艦を中東に派遣すると共に、フォークランド紛争にならい、アメリカに対しても即刻、軍事行動をおこすことを提案した。

 イラク軍のサウジアラビア侵攻は、元テキサスの石油業者であったブッシュ大統領の最も恐れることでもあった。
 8月6日、サッチャーはホワイトハウスでブッシュと会談し、8月8日には、アメリカは、イラク軍のサウジ侵攻を阻止するための「砂漠の盾」作戦を決定した。 
 
 そこでアメリカは、第1陣として、F15戦闘機48機と空挺師団2,300人をサウジアラビアに派兵することを決定したが、この程度の兵力では、本当にフセインがサウジ攻撃に踏み切ったらひとたまりもない。アメリカ軍はイラクの先制攻撃におびえていた。

 イラクのサウジ攻撃におびえたブッシュ大統領は、「米軍が続々と、湾岸に到着しつつあり」というニュースを流してイラクを牽制していたが、実際には、アメリカの兵員輸送能力は、第2次世界大戦当時に比べて著しく失われていた
 このような状況を背景にして、8月14日、ブッシュ大統領は、掃海艇、給水艦、航空機・艦船、人的貢献、経済的支援を日本に要請してきた。

 日本の場合、多国籍軍に対する協力であっても、軍事的な協力は憲法に抵触する。
しかしアメリカからしてみれば、日本国憲法は国内法であり、日本国民の意思によって自国の都合のよいように改正が可能なものである。しかも日本の石油は中東に大きく依存しており、中東の軍事紛争には其れ相応の貢献が当然必要という見解をとっていた。

 日本は、戦後50年間、国家としてこのような重要な問題を考えることをなおざりにしたまま、アメリカの核の傘下にかくれて時を過ごしてきた。湾岸戦争では、このことが国際的に白日の下にさらされ、日本は政府も国民もうろたえた。

★湾岸戦争の戦費の分担
 湾岸戦争のおける日本の立場の難しさを曝したのが戦費の分担である。日本は、憲法の規定により戦争に参加することも出来ないが、戦争の費用を支出することもできない。

 しかし国連の加盟国として、国連軍による平和維持の活動に、日本だけその支出を拒否することもできない。この日本の特殊事情に加えて、日本の政治家の外交手腕の拙劣さ、官僚のセクショナリズム、更に事務手続き上の不手際が重なり、湾岸戦争において日本は、結果的に、大変な費用を支出させられることになった。
 しかもその分不相応に多額の費用を負担した結果は、ほとんど国際的に評価されず、ただ多額の金だけ出して、どうでもよい論議を繰り返す愚かな国としての印象を世界中に広めることになった

 この顛末は、NHKワシントン特派員であった手嶋龍一氏による「1991年日本の敗北」(新潮社)に詳しいが、ここではその要点を、他の資料も利用して述べる。

 湾岸戦争の戦費は、当初、450-500億ドル程度と考えられていたが、戦後にアメリカ国防省が発表した戦費は610億ドルとされる。
 
 イラクのクウェート侵攻後、アメリカがまずやったことは、湾岸戦争の戦費をサウジアラビア、クウェート、アラブ首長国連邦などペルシア湾岸の産油国を中心にした6カ国でつくる湾岸協力会議(GCC)に主として負担させる体制づくりであった
 その結果、610億ドルの戦費負担は、当然、GCCが多くなった。その負担額は、次のようになる。(田中宇「イラクとパレスチナ アメリカの戦略」光文社新書、43頁)
        

サウジアラビア 160億ドル
クウェート 160億ドル
UAE 40億ドル
   
アメリカ 70億ドル
ドイツ 70億ドル
日本 90億ドル

 
 この結果をみると、なんと湾岸戦争の戦費負担は、当事者のアメリカより日本のほうが多いことに驚かされる。おかしなことはそれだけではない。
 日本は、それまでに、8月30日に10億ドル、9月7日にブレディ財務官の要請で30億ドル、合わせて40億ドルの支援を決定し実行している。つまり日本が負担した実際の戦費は130億ドルというアメリカの2倍近い巨額なものなのである

 上記の90億ドルは、91年1月20日の橋本・ブレディ会談で要請されたものである。実際の日本の戦費負担は、130億ドル(日本円で1兆7千億円)という巨額にのぼり、その他にも、結果的には輸送船や掃海艇の派遣まで行っている。
 それが公式には90億ドルと記録され、そのほかにもいろいろ行われた日本の国際貢献がほとんど評価されなかったのは何故であろうか?

 実は、サウジアラビアも、上記の160億ドルとは別に、湾岸戦争の軍資金として800億ドルをアメリカに支払ったことを内務大臣が2002年9月に暴露している。(田中宇「前掲書」(光文社新書))。なお同書には、サウジアラビアの王室が自国をイラクの侵攻から守るため、湾岸戦争以前からアメリカに巨額な秘密資金を出していたことが詳述されている

 これらのサウジからアメリカへの巨額の軍資金の流れは、サウジの王家をイラクの侵攻から守り、国内での革命を抑えるためのものであり、このことがサウジ最大の建設業者の一族であるオサマ・ビンラディンとその組織、更には、2001.9.11の同時多発テロと密接な繋がりをもつことになる。
 
 上記の日本の戦費90億ドル自体も、日米双方の政治家・官僚による交渉のおそまつさから、日本国民は更にその上に、5億ドルの追加支払いをさせられるというおまけまでついているのである。
 その詳細は、手嶋氏の前掲書に詳しいが、ここではその概略を述べる。

★肝心の点が曖昧なまま終わった橋本・ブレディ会談
 湾岸戦争の戦費90億ドルをめぐる交渉は、1991年1月20日に、ニューヨークのスタンホープ・ホテルにおいて、日本の橋本大蔵大臣とアメリカのブレディ財務長官の間で「さし」で行われ、村田駐米大使さえその場に同席できなかった。

 そのためこの会談において、90億ドルという支援額が、「円建て」なのか「ドル建て」なのか、またその支払い先「アメリカ軍」なのか「多国籍軍」なのか、不明確のままになり、このことが後で日米双方に大変な問題を惹き起こした。

 中小企業でも契約を取り決める場合には、事後に文書で必ず確認する。このことが、重要な会談で全く行われていなかったということは、驚嘆に値する。
 90億ドルという金額は、1ドル130円として1兆1,700億円という大金であり、しかも中身はすべて日本国民の「血税」なのである。

 90億ドルの支払いが「円建て」か「ドル建て」か、国会において社会党の堂本議員から質問された海部総理は、明確に「円建て」であるむね答えており、外務省は2月15日の村田大使宛の公電で「円建て」としている。つまり日本側は、前の40億ドルが「円建て」で行われていることから、当然、「円建て」と思っていた。

 問題は、橋本・ブレディ会談の後から、ドルが高くなり円が安くなり始めた。そのため円建てであると、アメリカが受け取る額は90億ドルより少なくなる。そのことを3月12日に記者団に質問されたブレディは、「日本には、ドル建てで支払うよう話し合った」と述べたのである。一体、どちらの言い分が本当なのか?
 会談は、「指し」で行われており、結果の確認も行われていない。

 湾岸戦争のほとぼりも冷めた7月9日、日本政府は90億ドルの目減り分、5億ドル、日本円で700億円を平成3年度予算の予備費から支出することを国会で決めた。日本国民は、更に700億円という血税を負担させられた
 この結果責任が追求されたという話しは全く聞かない。

 今ひとつの問題点は、90億ドルの支出先である。日本にしてみれば、支出先がアメリカであろうと多国籍軍であろうと、どちらでもよい。しかし受け取る側は自国の軍事費の多少に関わる重大問題である。
 91年1月15日、ベーカーは、橋本・ブレディ会談の90億ドルはすべてアメリカの戦費に対するものであると主張した。結果は、どうやら全額、アメリカのものとなり、日本は軍事費を負担した上に、多国籍軍の他の国から恨まれることになった

★湾岸戦争の終焉
 1991年1月17日未明、アメリカ軍を中心とする多国籍軍は、イラクに対して空と海からの攻撃を開始した。最新の電子機器を搭載したアメリカの航空機やミサイルが空を飛びかい、その状況は世界中の人々の居間のTVに映し出された。そこに映し出されたものは、ベトナム戦争を含めて、かって我々が見たことのない新しい戦争であった。
  
 イラク軍は、これに対して効果的に応戦できなかった。イラクが購入していた多数の軍用機は、爆撃を逃れてイランに退避するという事態まで起こった。イラクは、イスラエルを戦争に巻き込むためにソ連製を改造した中距離ミサイルをサウジとイスラエルに打ちこんだが、イスラエルは応戦しなかった。このことにより湾岸戦争を「アラブ対イスラエルとアメリカの戦争」に発展させようとしたフセインのもくろみも外れた

 2月23日、ブッシュ大統領はイラクに対する地上戦を指令し、24日、多国籍軍50万の地上部隊は、サウジアラビアからイラクおよびクウェートの国境を越えて進撃した。24日には国際空港を制圧し、翌25日には、アメリカ第2海兵師団が、クウェート・シティ西端に迫った。27日には、イラク軍は地上戦で総崩れとなった。
 
 1週間とかからない短い戦争であった。28日にはブッシュ大統領は関係各国の首脳と協議して「多国籍軍」の攻撃停止を指令した。
 多国籍軍の戦死者は147人、多国籍軍の圧倒的な勝利で湾岸戦争は終わった。

 日本はこの戦争において130億ドルという巨額の戦費を負担しながら、3段階に分けて支出した上に、その支出先も確認せず、日本の湾岸戦争への貢献は国際的にほとんど評価されなかった。

 日本の国内では、自衛隊や艦艇の派遣の是非は大変な問題であったが、そのような論議に関心を持つ国は、日本を除いて世界中に一つもなかった。
 日本の掃海艇は、4月になってようやく派遣が決定したが、その頃には、湾岸戦争のほとぼりもほとんどさめていた。




 
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