(3)欧州共同体の80年代
★80年代のヨーロッパ
欧州共同体にとって80年代は、苦難の10年であった。1980年代、アメリカでは81年にレーガン政権が誕生し、イギリスには欧州共同体の天敵とのいうべきサッチャー政権が79年5月に誕生していた。
当時、勃興する極東の日本などに比べて、80年代初頭のヨーロッパは全世界的なスタグフレーシヨンによる不況の中にあり、特にヨーロッパ諸国は、あたかも時代から取り残されたような状態にあった。その中、82年にはEC創立25周年を迎えていて、それを記念して発刊された「エコノミスト」の表紙には墓石の絵が描かれていた。
その墓碑銘には、「EEC(欧州経済共同体)1957年3月25日生まれ、1982年3月25日瀕死の状態」と書かれていたほどであった。
サッチャーが率いるイギリスの経済も同様に危機的状態にあった。10年間の平均インフレ率は12%を超え、石油・ガスを除く鉱工業生産は70年の水準をわずか4%上回るに過ぎない状態にあり、経常収支はほぼ全期間にわたり赤字で、79年の国家債務は約30億ポンドに達していた。サッチャーにしてみると、ヨーロッパ全体を考えるより、まずイギリス経済の再建で精一杯であったといえる。
サッチャーの保守政府は、前任のジェイムス・キャラハンが参加を拒んだERM(為替相場メカニズム)には参加せず、通貨安定にためのEMCF(欧州通貨安定基金)に参加した。このことにより英国対ECの関係は好転するかに見えたが、英国の対EC予算収支の赤字の還付を求めて、これが80年代前半のECの主要議題となっていた。
★EC中興の祖−ジャック・ドロール
このような中で81年1月、ジスカール・デスタンを破ってフランス大統領になったフランシス・ミッテランは、その後にEC中興の祖といわれるようになるドロールをECの委員長として送り込んだ。
1985年1月、ミッテラン政権の下で経済財政予算相(大蔵)を勤めたジャック・ドロールは、EC委員会の新委員長に就任した。非常に難しい課題をいくつも背負った欧州連合を、現在の巨大組織に仕上げたのは、ドロールの功績といえるほどである。
ドロールは、フランス中央銀行で18年勤務した。ドゴール派から74年に社会党に転じ、幅広い経済知識と政治力により、ミッテラン政権で次期の首相候補に目されていた。当時はまだ小さかった欧州連合の委員長になったとき、左遷と思われたほどである。しかしその後の欧州連合での業績は非常に大きく、現在ではEC生みの親といわれるジャン・モネに並び称される評価を得ている。
★ドロール報告書
ドロールは、欧州連合に明確なビジョンをもって取り組み、時代に適合した具体的提案にまとめて成果を挙げた。市場統合、通貨統合、欧州連合条約は、これらのビジョンと努力の成果である。この結果、基本的には共同市場に過ぎなかったECを、ドロールは政治統合、単一通貨をもつEUに発展させた。
1988年4月に、ドロールはその思想と筋道を明確にして委員会へ提出した。これが「ドロール報告書」(欧州共同体の経済・通貨同盟に関する報告書)である。その内容は、3つの部分からなる。
第一部では、これまでのECの通貨同盟(EMU)についての動きと現状分析、更にはEC市場統合と通貨・経済統合との関連を位置づけた。
第二部では、目指す同盟の姿を描いた。
第三部では、その目標に向かって3段階で進むことを提言した。
まず経済面では、次の3段階ですすむ。
(1) 域内市場の形成
(2) マクロ経済政策のガイドラインを多数決採択
(3) EC閣僚理事会が必要範囲において各国財政に制約を課す
経済通貨同盟(EMU)は、次の3段階ですすむ。
(1) 資本移動の自由化など単一金融地域の形成
(2) 欧州中銀の設立。中期的なマクロ経済政策の調整・統合を行う。
(3)各国の財政政策に一定の拘束と各国通貨の為替レートの固定化から単一通貨への移行、欧州中銀による統一金融政策の展開。(最終段階)
(4)欧州連合の90年代―欧州連合条約
★マーストリヒト条約
ドロール報告書に従い、85年から95年までEUが全力で進めた「市場統合」は予定通りに終了し、93年はじめには「EU単一市場」がスタートした。
そして92年2月に、オランダのマーストリヒト条約の調印によって欧州連合の政治路線として全加盟国によって合意された。
この条約により、80年代につくられたドロールの欧州連合の計画は、政治的な実現の路線にのり、欧州連合にとっての90年代は、それが政治的に実現されていく10年になった。
マーストリヒト条約により合意された日程計画は、次のようなものである。
欧州通貨連合(EMU)の第一段階(1990-93)は、サッチャーが、通貨主権の委譲に反対して、そのため欧州中銀設立宣言計画が流れたが、英国も90年10月に英貨ポンドをERM(為替相場メカニズム)に参加させることを決定した。そのため90年には予定通りEU全加盟国の通貨がERMに参加して、90年から93年にかけて行われた。
1993年1月には、市場統合が完成し、11月にはマーストリヒト条約が発効して第一段階は予定通り終了した。
第二段階(1994-98)は、欧州中央銀行(ESCB)の準備機関として欧州通貨機関(EMI)の設立である。EMIは、予定通り94年1月1日にフランクフルトに設置された。98年までに欧州中央銀行として発足することが計画された。そして予定通り、98年5月には通貨統合の参加国が決定し、7月に欧州中央銀行制度が設立され、99年スタートへ向かって準備・実験が始まった。
第三段階(1999-)。1999年は、「単一通貨ユーロの年」である。
1999年為替レートが「不可逆的に固定」され、欧州中央銀行(ECB)が共通通貨政策の実施を始める。最終的に単一の共同体通貨を発行して、通貨統合が完成する予定になっていた。
ジャック・ドロール委員長は、マーストリヒト条約が発効し、欧州通貨連合の第一段階が終了した1994年7月をもって、ルクセンブルグ首相のサンテールに2期勤めたEU委員長の座を引き渡した。
その後のEU計画は予定通り、99年1月に欧州通貨統合がスタート。5月に統一通貨参加国が決定(11カ国)。7月に欧州中央銀行制度が設立された。
またマーストリヒト条約により、財政赤字をGDP(国内総生産)の3%以内に抑えた国が、共通通貨ユーロを導入することにより、単一通貨圏が形成された。そして2002年1月から、ユーロ紙幣・硬貨の流通も開始された。便乗値上げや現金自動支払機の停止といった混乱もなく順調なスタートをきった。
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