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日本人の思想とこころ
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  (3)明恵上人と北条泰時

●明恵上人
 ▲出自
 明恵(みょうえ)上人(1173−1232)とは、栂尾(とがのお)高山寺の開祖であり、古い南都佛教である華厳宗中興の祖でもあり、かつ後述する法然上人と同時代の高僧である。父は紀州湯浅の武士団に所属する平重国という武士。母も同じく湯浅の武士の娘であったが、治承4年に両親がともに亡くなり、明恵はわずか7歳で孤児になった。

 その翌年、明恵は京都郊外の高雄の神護寺に母方の叔父をたよって入寺した。建永7(1206)年、明恵は、法皇・後鳥羽院から栂尾の高山寺を下賜され、それを華厳宗(=奈良時代からの古い宗派)の寺として再興した。

 ▲徒然草、古今著聞集、能における逸話
 明恵上人は、いろいろな奇行をもって知られている。その一つが「徒然草」にある。あるとき明恵が道を歩いていると、道の畔の小川で馬を洗っている人がいた。馬を洗う際に、馬の足を持ち上げるごとに、「あじあじ」というのを聞いて上人は驚いた。「あじ」とは、真言宗において「あ(阿)」の字は、「阿字観」といって非常に大事な文字である。

 明恵上人は、馬の足を洗っている男にどなたの馬ですか?と尋ねると、「府正殿」(ふしょうどの:近衛府の官人)の馬ですと答えた。
 明恵上人は、それを聞いてさらに驚いた。「これぞ阿字本不生(あじほんぶしょう)ではないか!」といって、その場に膝まずき馬方と馬に手を合わせて礼拝された。そのため、こんどは周りのものたちの方が驚愕した。

 「阿字本不生」とは、阿字こそが一切言語の根源であると共に、一切万有の根源であり、それは真言密教の教義の根源でもある。
 このような大変な宇宙の真理を、馬方が馬を相手に説いているということに明恵上人は驚き、馬方に手を合わせて礼拝された、と徒然草は語っており、まるで落語の「豆腐問答」を聞くような話しである。

 明恵上人の逸話は、数限りなくある。「古今著聞集」によると、上人は釈迦の遺跡巡礼のために、弟子千人以上をつれてインドへ渡ろうとされたという。
 千人もの僧たちがインドに渡るということは、当時としてあまりにも大変なことなので、みんなが困り、はては春日明神のご託宣ということにして中止になった。

 この話は、能における「春日竜神」のテーマにもなっており、白州正子氏の「明恵上人」(講談社文芸文庫)は、その話から明恵上人の解説が始まる。
 春日大社は、藤原氏の祖神・天児屋根命を氏神として祀る神社である。この春日明神のご託宣では、釈迦ご在世の内なればインドへわたるのも良いが、春日明神も仏法守護のためにこの国にいるほどであり、上人も国内にいて衆生を済度すべきである、というものであった。
 春日明神は、ご託宣の正当性を証明するために、いろいろなフシギをみせた。
 そこで上人は納得し、「涕泣随喜して、渡海のことも思いとどまり給いけり」と記されている。
 上人の驚くべき純粋性とまわりの人々の困惑が見え隠れして実に面白い話である。

 ▲承久の乱に関する逸話
 承久の乱の際には、朝廷側の敗残兵が栂尾の山中に多数隠れているとする風評が立った。そこで安達景盛が山狩りを行い、意識的に軍兵をかくまったと思われる多数の僧侶を逮捕した。彼らを泰時の面前につれてくると、驚いたことに、その中に明恵上人がいた、という逸話がある。

 驚愕した泰時は、上人を上座にすえて、その非礼をどのように詫びたらよいか困惑していると、それを見て上人はいった。
 栂尾の山は三宝寄進の地であり、殺生禁断の地である。鷹に追われる鳥も、猟師に追われる獣も、みなここに隠れて助かる。
 敵に追われた軍兵が、かろうじて命が助かり、木や岩の間に隠れているのを、わが身への後の咎を恐れて、情け容赦なく追い出し、敵に捉えられて命を奪われるのを平然としておられようか?

 私の本師である釈迦如来は、鳩に代わって全身を鷹の餌となし、飢えた虎に身を投げたという話がある。これほどの大慈悲には及ばないが、隠しうるならば、袖の下にも袈裟のしたにも隠してやりたいと思う。これからも助けようと思う。もしそれが政治のために困るというのであれば、即座に私の首を刎ねたらよいであろう、と明恵上人は言った。

 泰時は、その言葉に深く感動して、武士の狼藉を詫び、上人を駕籠で高山寺に送り届けた。泰時はそれ以来、明恵上人を非常に尊敬するようになったともいわれる。
 このことをみても明恵上人の仏教思想は、徹底した純粋の「仏教原理主義」というべきものであり、そのことは能の「春日竜神」の話しからも分る。
 泰時も立派な思想を持った武将であり、明恵上人の思想に心酔したことは理解できる。
 このことからすると、泰時が教えられた孟子の思想も、それを教えたのは義時ではなく、実は明恵上人であったとする説もありうることである。

●北条泰時と「貞永式目」
 北条泰時(1183―1242)は、義時の後を受けた鎌倉幕府の第3代執権である。承久の乱後、幕府軍の将として上京して、六波羅を拠点として事件の事後処理にあたった。これが「六波羅探題」のはじまりである。
 六波羅探題の職務は2つあった。その第一は鎌倉幕府の京都における代行機関の役割であり、主たる任務は朝廷の動きを監視と武士階級の利益確保である。
 第二は「洛中警固」であり、京都における反幕分子を抑圧する警察機能を、朝廷に代わって行なうことであった。

 乱後の3年目にあたる元仁元(1224)年に、北条義時がコレラで急死した。
 そのため泰時は六波羅から鎌倉に帰り、将軍の後見役として武家の事を執行することになった。その翌年の嘉禄元(1225)年には、尼将軍といわれた北条政子も亡くなり、泰時の幕府の中での役割はさらに大きくなった。
 そこで泰時は、頼朝以来の幕府の勢力を拡大する大方針に着手した。それは次のようなものである。
 (1) 幕府奉行の任免権を執権の手におさめる。
 (2) 新しく評定制度を新設する。(11人を評定衆とする)
 (3) 大倉幕府の所在地を宇都宮辻へ移転する。
 (4) 鎌倉大番制を新設する。
 (5) 九条頼経の将軍任命と上洛。

 泰時は、これら幕府の制度的整備を行なった上で、幕府の裁判の成文法といえる「関東御成敗式目」(=貞永式目)の制定に着手して、貞永元(1232)年に完成させた。
 貞永式目は、51条からなり、その内容は次のものからなっていた。
 (1) 社寺関係
 (2) 公武関係
 (3) 所領関係
 (4) 訴訟制度
 (5) 刑法
 貞永式目により、武家の法制は公家の法制から独立した画期的なものになり、武家階級の血族的団結の強化やその地位の向上に大きく貢献することになった。

 この泰時の貞永式目の制定への思想の基礎は、明恵上人との話の中から出てきている可能性が高いのである。
 それは山本七平氏の引用されている「明恵上人伝記」の中の「秋田城介入道大蓮房覚知の談話」(120頁)にも語られており、私の「明恵上人資料」にも内容は異なるが、同じ趣旨のことが語られている。
 それによると泰時と上人は、共に国家秩序や社会秩序を、基本的には「人体内の秩序」のような自然秩序として考えており、極めて類似した思想であったと思われる。そしてそれが「貞永式目」の形で完成し、日本は法治国家として整備された






 
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