(2)鎌倉時代とは、どんな時代?
まず前記の大思想家たちを生み出した鎌倉時代とは、どのような時代であったかを考えてみよう。
そのためには、武士階級が登場する初期段階から見るのではなく、逆に朝廷と幕府の権力が正面衝突して、鎌倉幕府の政治支配が確立した「承久の乱」から話すほうが分りやすいと考える。
●「承久の乱」の歴史的意味
正治元(1199)年1月、征夷大将軍・源頼朝が死去した。この将軍の死により、幕府の権力は大きな危機を迎えた。
これを契機にして、守護・地頭の人事権をもつ幕府権力と、古代からの朝廷を中心にした所領の管理権をもつ公家・貴族の勢力が、武力による正面衝突をした大事件が、承久3(1221)年5月の「承久の乱」である。
この事件の直接の発端は、白拍子亀菊の事件から起こった。それは後鳥羽上皇が、白拍子亀菊の申請に基づき、所領の摂津国長江、倉橋両庄の地頭職を廃止すべき旨の院宣を2度にわたって下された。それを幕府の執権・北条義時が拒否したことがこの事件の発端となった。
義時による拒否の言い分は、勲功により将軍・頼朝により任ぜられた者を、執権であっても勝手に解任することはできないということにある。
つまり守護・地頭の人事権は幕府にあり、天皇家にあるものではない。
そこで義時は、守護・地頭の人事権に対する天皇家の干渉を拒否した。このことから史上初の幕府と天皇家による全面戦争という大事件に発展した。
その結果は、倒幕軍つまり朝廷側の大敗北に終わり、鎌倉幕府の武家を中心にした権力が確立した。そしてさらに、朝廷・公家を中心にした古代的な国家権力が、事実上、既に衰退していたことを白日の下に晒すことになった。
鎌倉期の思想革命のうらには、このような政治的な大変革が隠れていた。その古代から中世への移行の境目となった「承久の乱」から話を始めることにする。
源頼朝の死後、幕府の政治は、一応、頼朝の子の頼家が家督を継承した。しかし、頼朝の妻で「尼将軍」と呼ばれた北条政子は、頼家による親裁政治をやめ、北条時政以下13人の御家人による合議裁決の体制をとることにした。
頼家は建仁2(1202)年に第2代将軍の地位を得たが、幕府の政治の実権は、執権・北条時政に移り、元久2(1205)年に時政が引退するとともに、実権はその後を受けた北条義時に移っていた。
承久元(1219)年正月夜、3代将軍・源実朝が、鶴岡八幡宮の社頭で兄頼家の遺児で別当をつとめる公暁に殺害された。そして、その公暁も、北条一族に謀殺され、源氏の正統は完全に絶えてしまった。
この実朝暗殺は朝廷と幕府の双方に大きな衝撃を与えたが、頼朝の死により権力が衰えていた幕府は、その回復を狙って次の将軍に後鳥羽上皇の皇子を迎えようと朝廷に願い出た。しかしこの願いは、朝廷の権力回復を目指す上皇に拒否された。
その上、上皇は愛妾伊賀局(=白拍子亀菊)の所領の地頭の解任を要求してきた。これが承久の乱を引き起こす原因となったことは既に述べた。
そこで幕府はやむなく皇族出身の将軍任命をあきらめ、代わりに頼朝の妹の血を引く藤原道家の子で、2歳になる九条頼経(よりつね)を将軍として迎えることにした。
わずか2歳の公家の幼児に、「将軍職」つまり征夷大将軍が勤まるわけはない。このことから見ても朝廷が、将軍職をいかに形骸化しようと考えていたかが分る。
そのため、事実上の将軍職の実権は執権・北条義時にうつり、義時は執権の名で将軍の実務を兼ねるようになっていた。
それは朝廷側からすれば、鎌倉幕府から朝廷に政治権力を回復するチャンスと考えられた。そこで承久3(1221)年5月、後鳥羽上皇が北条義時を追討する兵を挙げた。これが「承久の乱」である。
5月19日に、この報を聞いた頼朝の妻で幕府の後見役を勤め「尼将軍」と呼ばれた北条政子は、義時らと軍議を開き、まず21日に北条泰時の軍が出発した。
北条泰時の軍勢は最初、わずか18騎にすぎなかった。しかし「吾妻鏡」25日条によると、その後に東海道は時房,泰時を大将に10万余騎、東山道は武田信光を大将に5万余騎、北陸道は北条朝時を大将に4万余騎、総勢20万という大軍に膨れ上がった。
東軍の大軍進発の報は、5月26日に京都に達し、6月2日には東軍が遠江国府に入ったとする報が伝えられて、官軍のほうは殆ど一戦も交えず逃走した。
6月14日になり、朝廷側の山法師数千人が東軍を迎え撃ち、宇治において大激戦になった。しかし15日には官軍は完全に敗れ、時房、義時は京都六波羅の屋敷に入って乱は終結した。
7月9日、幕府は仲恭天皇を廃し、10歳の後堀河天皇を皇位につけた。そして13日に後鳥羽法皇(敗戦により落飾)を隠岐に、20日に順徳上皇を佐渡に、24日に六条宮雅成親王を但馬に、24日に冷泉宮頼仁親王を備前児島に移した。
土御門上皇は倒幕に直接関与しなかったが、10月に土佐に移した。しかし、それは余りにも遠隔地であるため貞応元年5月に阿波にうつすなど、幕府による前代未聞の処分が、乱に加担した朝廷、貴族、武士に対して行なわれた。
この事件の特異性は、それまではかならず朝廷による令旨、綸旨、院旨などの命令により行動してきた鎌倉幕府の最高指導者である将軍が、承久の乱においては後鳥羽上皇の院宣に逆らい、関東17カ国の武士が結束して執権・義時、泰時の指揮の下で、後鳥羽上皇の軍に対抗して戦ったことにある。
その結果は、仲恭天皇の退位、後堀河天皇の擁立となった。それは、まさに天皇に代わり、幕府による全国支配が確立したことを天下に表明することとなったといえる。
この「承久の乱」により、朝廷・貴族と幕府の勢力関係は完全に逆転し、古代から続いてきた天皇を中心にした政治勢力は、鎌倉幕府の勢力下に入ることになった。そしてそれ以降、日本において象徴天皇制が確立する画期となった大事件である。
●武士が朝廷にそむいてよいのか? ―悩む執権・北条泰時
承久の乱は、武力をもって天皇に仕える武士が、天皇に弓引いた事件である。
しかもその結果は、幕府側が勝利を収めて、法王、上皇、親王などが流刑にされるという前代未聞の大事件となった。
これは一見すると、幕府が朝廷に対して武士の政治権力を確立する「革命」ともいえる軍事行動であった。
このような「革命」が、果たして日本において許されるものなのか?そのことは当事者である北条義時,泰時親子にとって深刻な問題であった。
この問題に対する儒教的な見解は、「孟子」の巻第2 梁恵王章句八にある。そこには次のように書かれている。
斉の宣王が孟子に、殷の湯王は夏の桀王を、周の武王は殷の紂王を討伐したといわれるが、家臣の身で主君をあやめる事が許されるものなのか?とたずねた。
これに対する孟子の答えは、「主君」であっても、「仁」をそこねた者は「賊」であり、「義」をそこなう者は「残」である。
そのような「残賊の人」はもはや「主君」ではなく、「普通の男」である。したがって、このような「残賊の人」は殺しても非とはならない、というのが孟子の見解であった。
この孟子の答えは、大変問題を呼ぶ見解である。斉の宣王はそのときはもっともな見解として納得したものの、あとで大変悔しがったという説がある。
また孟子のこの見解は、「革命」を許容するものとして、孟子の書は日本では江戸時代まで「禁書」の取り扱いになったほどである。
吉田松陰は、松陰自身による孟子の解説書の「講孟箚記」(こうもうさつき)の中で、中国では、億兆の民衆のうちから傑出した人物を選んで指導者にするからこのようなことになるのであり、権力交代の対象となる「主君」は、わが国では「征夷大将軍」の地位がそれに当たると述べている。
従って松陰において、日本の「天皇」はここでいう「主君」には該当しないことになる。とすれば日本において、この問題から孟子の書を長い間、禁書としてきた理由が存在しないことになる。
松陰は、四書の中で特に「孟子」が日本において差別されてきた歴史を、あまり知らなかったようである。
この承久の乱の問題については、山本七平氏が「日本的革命の哲学」(PHP)の中で詳述されている。それによると北条泰時は、日本の国土はすべて天皇のものであり、その下にいる自分たちはいかに無理無体なことをいわれようとも、絶対に天皇に叛乱をおこすべきではないといったと書かれている。
これに対して、父の義時は、周の武王が暴君であった殷の紂王を倒し、漢の高祖が暴政を行なった秦の二世の皇帝を倒した例を挙げて、中国の先例を説明したとされる。ここでの義時の思想は、まさに孟子の「残賊の一夫」による革命の正当化であり、承久の乱では孟子(=義時)の思想がその背景になっていることが分る。
山本七平氏は、この泰時、義時の論争の出典を「明恵上人伝記」におかれている。しかし明恵上人伝記は多種類のものが存在しており、山本氏の典拠とされる資料は、伝記類を集めた「高山寺資料叢書」の中に該当するものが見当たらない。
山本氏の著書では、北条義時,泰時親子が承久の乱の前に論争したことになっている。しかし上記の叢書に掲載されている別?の「明恵上人伝記」によると、承久の乱のあとで泰時がこの問題を、山城高山寺の明恵上人に相談したことになっている。そして義時の言葉とされる孟子の見解は、実は明恵上人の見解であったとも見られるのである。
山本氏の「明恵上人伝記」に該当する資料は正確には分らないが、類似の資料に「梅尾明恵上人伝記巻下 残缺」(高山寺蔵)がある。その巻首には「明恵上人伝記」とあり、山本氏と同じ書名が記載されている。しかし、その内容は山本氏のものとは大きく異なる。
その史料によると、承久の乱の後に北条泰時が高山寺へ来て、明恵上人に相談した。泰時は、この問題でかなり悩んだ上、明恵上人に相談にきたと思われる。
上記の資料には、そこでの生なましいやりとりの内容が記載されているので、興味のある人は直接、見ていただくと良い。(「明恵上人資料第一」東京大学出版会、429頁―)
|