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  (7)国家の借金は善か悪か?−国家財政の均衡の是非。
★国家が借金をする時。
 サラリーマンの家計は収入が決められているので、その収入に合わせて支出を行うしかない。この場合、基本的には収支均衡していないと家計は壊れてしまう。しかし車や自宅の購入、子供の進学費、医療費など、どうしても必要な高額な出費が必要な場合がある。
このような止むを得ない高額な支出は、金融機関のローンなどを利用して長い年月をかけて返済することになるが、その間の家計はかなり圧迫され、毎月の支出を切り詰める必要がある。従って、借金は毎月の支払い能力の限度内にする必要がある。つまり収入が一定している人々とっては、借金は基本的には悪であると言ってよい。

 一方、企業の場合に借金は一概に悪とは言えない。ここでは収入が一定しているわけではない。従って借金をしてもそれに見合う収入や収益があれば、借金も事業経営の一部と考えてよい。しかし企業も、人件費などの定例的な支出が支払えなくて借金をするようになればもうお仕舞である。つまり企業経営では借金があることをもって、その良し悪しを単純に言うことはできない。

 問題は国家の借金が、上記のどちらに属するか?ということである。国家の事業も基本的には毎年の予算の範囲内で行われる均衡予算であることが望ましい。しかし上記の日露戦争のように国家が勃興期にある場合の借金やアメリカが大恐慌から脱出するためにとったニューディール政策の財政支出など、同じ国家の借金でもその状況に応じて善悪が簡単に決められないことも少なくない。
 問題は現在の日本が抱えるようになった700兆円を超える巨額の借金をどう考えるか?ということである。もはや誰の目にもそれを「善」とは言えなくなってきている。しかし一挙にして700兆円になったのではなく、その時々の政策が積み上げられたものであり、そのよって来たる経過を調べてみる必要がある。そこでこの国債の発祥に遡ってみよう。

★戦後は国債の発行が禁止された。
 日本が敗戦から立ち直るため1946年に最初にとられた経済政策は、東大教授で石炭小委員会の委員長であった有沢広巳によって作られた有名な「傾斜生産方式」である。この政策は戦後産業の復興を石炭と鉄鋼を中心とする重点産業に絞って、石炭、鉄鋼等の基礎的部門の生産水準を早急に引上げようとするものであった。そしてこの政策を遂行するために1947年に復興金融公庫が作られた。この金融機関は、傾斜生産方式に基づく石炭、電力、肥料、鉄鋼などの重点産業に、政府資金と復金債による資金を利用して産業再建の特別融資を行った。復金融資は1千億円を超えて、日本の基幹産業の復興に大きく貢献したが、そのほとんどが日銀通貨の発行により調達されたために戦後インフレを一層促進するものになった。

 この日本の経済政策は、戦前からの統制経済の流れを汲むものであった。この日本の戦後インフレを一挙に収束させるために、アメリカはデトロイト銀行の頭取であったジョセフ・ドッジをマッカーサーの経済顧問として送り込んだ。
 このドッジによる経済政策は、「ドッジライン」と呼ばれて日本経済に大きな衝撃を与えたが、その第一が財政における「超均衡予算」の実施であった。そこでは一般会計は勿論、特別会計、政府関係機関の分を総計しても均衡する予算が要求され、昭和24(1949)年度の予算はそれに沿って作られた。更にドッジは、価格差補給金などの打ち切り、復興金融公庫による復金債の発行や新規支出の停止、従来の復金債の一般会計からの償還まで行ってそれまでの日本の戦後の経済政策を大きく転換させた。
 つまりドッジラインは日本政府が、戦前から戦後にかけて垂れ流してきた資金の出口を完全にふさぎ、財政と金融の健全化を一挙に実現する政策であったといえる。

 現在、日本の国の予算など財政の基本は、昭和22(1947)年に制定された「財政法」に基づいて行われている。同法の第4条は、「国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源にしなければならない」と規定して、戦後の日本国は総予算均衡主義をとることが明確に定められている。つまり国家が国債発行と借入金をおこなうことが、原則として禁止されているのである。
 ただし同条の但し書きは、「公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる」と規定しており、かなり含みを持たせてしまった。

★戦後の国債発行のはじまり。
 この財政法第4条の規定は、制定の当時は憲法の平和主義を担保するものと考えられていた。たとえば、平井平治「逐条財政法解説」によると、「公債のないところに戦争はないと断言しうる。したがって叉、憲法の戦争放棄の規定を裏書保証せんとするものである」と記されている。つまり公債を禁止すれば、日本は戦争ができないであろうということからきている。

 ところが上記の同条但し書きが、この規定を骨抜きにしてしまった。たとえば「公共事業」といっても、その定義がないため非投資的な歳出の財源としての「建設国債」の発行が可能になり、更に使途を限定しない出資金・貸付金の調達も出来るようになった。建設国債の発行対象範囲は一般会計の予算総則で定められているが、発行対象範囲の決定基準は明確化されていない。

 更に戦前の公債の日銀引受にこりて、財政法第5条は、公債の日銀による引き受けと日銀からの直接借り入れを禁止した。しかし日銀による市中からの国債買いオペレーションを利用した間接的な引き受けは可能となるほか、大蔵省理財局が管理する財政投融資・資金運用部による国債引受も可能となっている。
 つまり実質的には同法の規定はしり抜けであった。しかしそれでも1965(昭和40)年までは、国債は発行されなかった。

 戦後、所得倍増計画による高度成長政策をとったのは池田内閣であるが、首相池田勇人は国債の発行を最後まで厳に戒めていた。池田は戦前の大蔵官僚として国債発行の怖さを十分知っていたからである。それが1965(昭和40)年、次の佐藤内閣になると国債発行に始めて踏み切った。
 1965年は、戦後の日本経済の大きな転換期に入った年である。5月21日に山一證券の経営危機が報道され、翌日から多くの証券会社に客が殺到して昭和恐慌の再来を思わせる状況が起こった。経営不振は証券会社だけではなく、前年12月にはサンウエーブ、日本特殊鋼、当年3月に山陽特殊鋼、5月に山一證券と大型倒産が続出した。山一證券の場合は、時の大蔵大臣田中角栄の英断により日銀特融により救済されたが、この時の大不況の性格をめぐって2つの見解が対立した。1つは、戦後の高度成長の終わりを示す「構造不況」であるとする説と、今一つは、「高度成長のゆがみ」が出たものとする説であり、官庁エコノミストなど大方は前者の説を採った。

 山一證券の事件の翌6月、佐藤内閣の改造が行われ、大蔵大臣は田中角栄から福田赳夫に代わる。福田は大蔵官僚出身の政治家として、この昭和40年大不況を、昭和恐慌に匹敵する「構造不況」として捉えた。福田は、「回顧九十年」(岩波、1995)に書いているように、高橋是清の「救国国債」に倣って、昭和40年度の一般会計補正予算で戦後初の赤字国債2,600億円、昭和41年度7,400億円の建設国債の発行に踏み切った。

 一度借金の味をしめるとそれは麻薬のように作用し始める。本来は大不況を乗り切るための借金であったものが、1960年代後半の「イザナギ景気」の中でも発行されていく。佐藤栄作の2797日に及ぶ長期政権は、この借金財政によって作り出されたものであると私は思う。福田は上掲書に次のように書いている。
 公債発行は、「悪用すると大変な過誤を犯すことになる。正しくは高橋是清、福田赳夫の考え方でやっていけば、国力増進に大きな役割を果たすものである。私が「四十年不況」に直面して決断した国債発行策は、今顧みても評価されるべきものがあるのではないか。」(「上掲書」、170頁)。

 高橋是清と自分の名前を並べて書いた文字とおりの自画自賛の文章である。政治家でもなければ、このような文は書かないであろう。最後まで国債の発行を忌避した同じ大蔵官僚出身の池田勇人氏に読後評を聞いてみたいものである。

★国債発行の泥沼化。
 福田はそれから10年後に内閣総理大臣となって日本国の財政を決定的に破綻させる端緒をつくることになる。
 1976(昭和51)年12月24日、福田赳夫は三木武夫の後をついで首相になった。昭和49年度予算を蔵相として策定した時には、公共工事の実質3割カットという荒療治をやった本人が、わずか2年後に政権の座についた途端に方針を大転換して、赤字国債の発行を本格的に開始する。日本国債の残高が、100兆円を超えて財政危機が誰の目にも明らかになった昭和50年代末に出版された塩田潮「百兆円の背信」、講談社、昭和60.は、国家債務が百兆円を超えた責任を追及した本であるが、田中内閣に「飽食」、「暗雲」、三木内閣に「転落」、「混迷」、福田内閣に「泥沼」、大平内閣に「破綻」という表題をつけている。

 つまり日本の借金財政は、石油危機後の難しい時期であったとはいえ、「経済の福田」の時代に泥沼にはまった。国債残高の推移を次ぎにあげる。(単位:1兆円)
年度 国債残高 建設国債 赤字国債 首相 蔵相
1976 22 17 5 三木 大平
1977 32 22 10 福田
1978 43 28 15 福田 村山
1979 56 35 21 大平 金子
1980 71 42 28 大平 竹下
 この表を見ると、まさに福田内閣の時に、三木内閣の時の国債残高に比べて2年で倍増した。更に中曽根内閣の時に大平内閣に比べて倍増した。

 福田は、前掲書において、1977年の急激な円高の進行の中で、経済成長率を7%にする公約を掲げて、「建設国債、政府保証債、国庫債務負担行為を積極的に活用し、住宅建設および社会資本の大幅促進を図る」ために、世間が「15ヶ月予算」と呼んだ52年度の大型予算編成したことを記しているが、さすがに40年のときの様な自画自賛はない。  
   
 高橋是清は、昭和恐慌からの脱出をはかるため、公債発行による積極政策をとった後、すぐに公債漸減政策に転じている。福田は40年不況を公債発行によって乗り切ったことを、自画自賛したが、自分が首相になると更に公債依存政策を加速させて、現在の国家財政の危機的状況になる基礎を造った。たとえば53年度予算の政府原案では、一般会計34兆円に対して、国債発行額は11兆円に迫り、国債依存率は32%に上昇した。その結果、53年度の国債発行残高は43兆円にまで増えた。
 塩田潮の前掲書の言葉を借りると、「「やりすぎの福田」は、景気刺激も奏功しないまま、在任中の2年間で、・・・歳出を4割増やし、国債の発行残高を22兆円から93%増の42兆円へ急膨張させた」(179頁)。高橋是清とは全く異なる政策といえる。

★もう誰にも止められない!
 ヂュカという人の曲に、「魔法使いの弟子」というのがある。ディズニーの映画「ファンタジア」の中に取り上げられ、誰にも知られるようになった。魔法使いの留守中に、お風呂に水を入れることを頼まれた弟子が、魔法で箒に水汲みをさせることを思いついた。
 ところが止める術を知らなかったために、お風呂の水がどんどん溢れ出してしまうという話しである。

 日本の国債発行は、まさに「魔法使いの弟子」さながらの状態になった。大平内閣が、一般消費税の導入に失敗して以来、日本の国債発行はどんどん進み始めた。1980(昭和55)年7月、総理大臣になった鈴木善幸は、4年後の昭和59年度予算に赤字国債からの脱却を公約として表明し、翌年1月から「土光臨調」が始まった。しかしもはや魔法使いの弟子に箒の水汲みは止められなくなっていた。次に国債残高の続きを揚げる。(単位:1兆円)
年度 国債残高 建設国債 赤字国債
1980 71 42 28
1985 134 75 59
1995 211 148 63
2000      
2005      

 この国債残高に、その他の借入金をいれるとその残高は、前に述べたように現在600兆円を超えている。小泉内閣は、今年度の国債の発行額を30兆円以下に抑えることを公約していたが、それが無理であることが明確になってきている。既に来年度の国債発行は、30兆円をかなり大幅に超えると思われており、2005年における借入金の残高は1,000兆円を超えることはほぼ確実であろう。日本の借金財政は、行くとこまで行かないと、もはや誰にも止められない段階まできてしまった。



 
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