(6)過去の日本国の借金を考える―外国からの借金で戦った日露戦争。
過去の日本国の借金について考えてみよう。そこには先人たちの、非常な苦労と知恵を見ることができる。まず、日露戦争は20世紀に入って最初に戦われた近代戦である。それは世界戦史でいえば、極東における局地戦にすぎなかったが、19世紀の戦争とは、質も量も大きく異なっていた。
★日露戦争の戦費は、6年分の国家予算を超えた。
例えば日本軍の戦死者数を見ると、日清戦争が1万4千人であったのが、日露戦争では一挙に9万人に増えた。ロシアの戦死者まで入れると、過去に類例がない激戦であった。
また戦費の面で見ると、日清戦争が10ヶ月で2億.3千万円であったのが、日露戦争では一挙に18億.3千万円に増えている。(「昭和財政史」、第4巻、臨時軍事費)
この日露戦争の軍事費は、当時の日本の一般会計の歳出が2.5-3.0億円程度であったことを考えると6年分以上の財政支出になり、当時の日本の経済力が負担できる費用規模を大きく超えていた。
当時の日本の産業は、生糸・繊維、雑貨などの軽工業が中心であり、鉄鋼・造船・機械などの重工業は未だ発達していず、資本主義もまだ帝国主義の段階にはほど遠い状態にあった。そのため戦争を行うには、まず外国から軍需物資を購入する必要があるのに、開戦当時の日銀の外貨保有量はわずか5千万円しかない。日清戦争で清国から賠償金として受領した3千8百万ポンド(約4億円)の外貨はとっくになくなっていた。新しく戦争を始めるためには、早急に年内に1億円を外国から借りる必要があった。
つまり18億円もかかる戦費にたいして、開戦時にわずか5千万円しかないという信じられない状態にあった。もし借金ができなければ開戦と同時に降服するしかなかったであろう。この外国からの借金を工面する役割を担ったのが日銀副総裁の高橋是清である。
当時、大国ロシアを相手に戦いを挑んだ小国日本が勝つと思った人はおそらく欧米にはいなかったであろう。その中を、日本公債を売るためにアメリカ、イギリスを奔走した高橋是清の苦労話は彼の「自伝」(昭和11)に詳しい。幸いロシア嫌いのユダヤ系アメリカ人が現われたり、緒戦において日本が勝利をしたことで、日本の公債の販売は順調な滑りだしを見せた。
しかし結果として総戦費は18億3千万円という巨額な費用となり、その費用のほとんど総てが、明治35年3月から39年8月までに発行された総額14億7千万円の公債、つまり借金によって補填されることになった。しかもその内、8億円が外国債として発行された。
もしこの外国債が売れなかったら日露戦争の勝利をおろか、開戦と同時に和平交渉を始めるしか方法がなかったであろう。
★日露戦争の借金は、第一次世界大戦の後まで残った。
当時の日本の人口は4千7百万人(総理府統計局)である。上記の日露戦争の戦費をこの人口1人当りで計算すると39円になる。この金額が当時どの程度の価値があったかを調べてみよう。明治30年における長野の製糸工場の女工の1日の平均賃金は14銭であり、年間の平均労働日は300日以下であった。これから計算すると女工が1年働いてもらえる賃金は、42円以下ということになる。
つまり日露戦争で日本人は、赤ん坊から老人まで含めて女工さんの1年分の給料に相当する金額を負担したことになる。しかもその借金の大部分は外国からの借金で賄われた。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」では、日露戦争の公債を日ならずして見事に返済したので、欧米人は驚いた、という話がでてきたと記憶する。日露戦争で調達された英貨公債は、第1回が明治37年6月に1千万ポンド、第2回が明治37年11月に1千2百万ポンド、第3回が明治38年3月に3千万ポンド、第4回が明治39年8月に3千万ポンド発行されている。
利率は、最初の2回が6分、後の2回が4.5分である。この最初の2回分を低利債に借り換え、償還するために、日本政府は明治38年11月に4分利付英貨公債5百万ポンドを発行、更に40年3月に5分利付き英貨公債を発行して、六分利付き英貨公債の借り換えを行った。つまり日本は借金の返済をしたのではなく、低利の資金に借り換えを行ったに過ぎない。
政府債務在高の推移を明治36年以降で見ると、次表のように明治末年まで減っていない。
年号
|
年度初残
|
発行高
|
償還額
|
年度末残
|
明治36 |
5.3
|
0.1
|
0.0
|
5.4
|
明治37 |
5.4
|
4.3
|
0.0
|
9.7
|
明治38 |
9.7
|
9.4
|
0.4
|
18.7
|
明治39 |
18.7
|
5.0
|
1.8
|
22.0
|
明治40 |
22.0
|
3.1
|
2.5
|
22.5
|
明治44 |
26.5
|
0.4
|
1.0
|
25.8
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(単位:1億円。出典:坂入長太郎「日本財政史」、パリエ社、昭和57.528頁)
★日本の産業の近代化は、日露戦争の借金から生まれた。
日清戦争の場合と異なり、日露戦争後の講和条約では、戦後の賠償金が一銭も入らなかった。そのため日露戦争の借金は、上表からも分かるように大正の第一次世界大戦まで背負っていくことになる。しかし日本はこの巨額の借金を背負ったが、一方では日露戦争を通じて産業の中心が軽工業から重工業に移り、鉄鋼、機械、鉱山、電力、輸送など多くの基幹産業がこの借金から生まれて育っていった。つまり日本経済の近代化は外国からの借金によって進められたともいえる。
★平成不況の借金から何が生まれるのか?
さて2002年の日本国の借金は700兆円あり、更に2005年には1,000兆円を超えると思われている。実は現在の日本国の借金は、日本経済の活性化にほとんど機能していないところに問題があるといえる。日露戦争の時の巨額な借金と平成の巨額な借金は、一体、どが違うのであろうか?その違いを次に考えて見たいと思う。
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