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  (5)バブルの遺産「不良債権」の行方
シャボン玉とんだ、屋根までとんだ、
屋根まで飛んで、こわれて消えた。
野口雨情「シャボン玉」より。 
★バブルは、なぜ発生したか?
 1980年頃から世界も日本も大きく変わり始めた。この頃から、第2次世界大戦に敗れた日本はドイツと並んで、世界の大国になって登場してきた。これに対してアメリカ経済の凋落は激しく、1981年1月に大統領に就任したレーガンは、その就任演説で「アメリカは大恐慌以来、最悪の経済的混乱にある」(2月5日、TV演説)と述べ、「経済再生政策」を発表した。しかしレーガンの政策も、インフレの抑制に効果が見られたものの、財政赤字も貿易赤字も拡大し、それが更に金利を上昇させる悪循環を生み出した。その結果、1985年には日本は世界一の債権国になり、アメリカは世界一の債務国になるという、それ以前にだれも想像しない事態がおこった。

 その日米逆転の年、1985年9月22日のG5で「プラザ合意」がなされ、その結果として日本は、「円高」と「内需拡大」という政策転換に踏み切らざるをえなくなった。円高による不況対策として日銀は公定歩合を戦後の最低水準に引き下げた。1986年9月に決定した公共投資を中心にした戦後最大規模の総合経済対策がとられた頃から、「バブル経済への兆候」は明確に現れ始めた。それは株と土地の異常な騰貴である。更にそれに輪をかけたのが、「民活」の名により行われた第三セクターによる投資である。またこれらの資金は、従来の間接金融から直接金融に移行する傾向に危機感をもっていた銀行によって担保された。
 
 従来、日本の経済繁栄は、笠信太郎氏により仲間うちの「花見酒経済」といわれていたが、まさに日本中が一斉に花見酒に浮かれたのが1987-1989年の「バブル」であった。つまり1980-1985年までに、すでに日本は赤字国債の依存度が増加して、国家財政は危機的状態にあった。そのためその5年間、緊縮財政がとられていたが、それもバブルの中で、吹き飛んでしまった。わずかこの2年間の「バブル」で日本が失つた損失は、土地で約700兆円、株で約300兆円、合計して1,000兆円と推定される。国内総生産の2年分がシャボン玉のように消えたわけである。そして「不良債権」が残された。

★バブルの事後処理も誤った!
 日本の為政者たちは、バブル発生により1,000兆円を泡とする失政を行ったのみでなく、バブルの事後処理でも大きな失政をした。そしてそれは長期にわたる日本経済の停滞をもたらし、21世紀への見通しも暗くする深刻なものとなった。それがこの「不良債権」問題である。政府は、驚くべきことに1990年代の最初の5年間、「不良債権」の処理にまったく手をつけずに放置していたのである。

 1995年6月になって、大蔵省は「金融システムの機能回復について」という報告書を発表して、95年3月現在で、都市銀行21行の不良債権を12.5兆円、金利減免等を入れても23兆円、これから推定して金融機関全体として40兆円前後とする推定値を発表した。
 8月には、「住専」への立ち入り調査で、住専7社の不良債権額は8.1兆円、ロス見込み7.5兆円と発表して、初めて財政資金を投入した不良債権の処理に着手した。ところがこのことにより、96年3月の国会が「住専国会」と呼ばれるほどの混乱が生じた。
 その結果、公的資金による不良債権処理はタブー視されて大幅に遅れることになった。

 1997年3月、ムーデイーズは「邦銀システム・アウトルック」という報告書を発表して、日本の不良債権は、公表数値の3倍以上あるとする推計値を発表した。この頃、日本の不況は一段と深刻化していたのに、当時の橋本内閣は、特別減税を廃止し、4月には消費税の引き上げを行い、9月には医療費負担の引き上げを行った。
 この日本の経済政策の度重なる過ちのつけは、1997-1998年にかけて劇的な形で現れた。97年11月北海道拓殖銀行、山一證券破綻つづいて徳用シテイ銀行、三洋証券破綻をはじめ、多数の建設会社が破綻し、日経平均株価は年末14,000円台に落ちた。

★不良債権の処理の拙劣さ
 不良債権の怖さは、時間がたつとどんどん増えていく蟻地獄のような性質を持つことにある。それは不況が長引き深刻化すると、正常債権までが不良債権化していくからである。1998年に入り、政府系の債券発行銀行である長期信用銀行と日本債券信用銀行が不良債権のため破綻した。そのため98年7月の参議院選で自民党は大敗北し、その責任をとって辞めた橋本内閣のあとを受けた小渕内閣は、「経済再建内閣」として、どうしても不良債権問題に取り組まざるを得なくなった。98年3月、金融システム安定化法に基づく公的資金1.8兆円が大手など21行に資本注入された。99年3月には、日銀は実質金利をゼロにする究極的な政策をとった。このように銀行に対するシステム整備は99年春の段階で終り、日本経済は21世紀を迎えた。しかし不良債権は、更に増え続けていた。

 2002年9月現在、金融庁の調べでも日本の金融機関の不良債権の総額は150兆円ある。それは国家歳入の3年分に匹敵する巨大な額である。1992-2002年にかけて銀行が処理した不良債権の総額は既に81.5兆円に達する。当初の見込みでは、とっくに無くなっているはずなのに、実際には処理額の倍近い額に膨れ上がっている。一方で、この10年の間に日本経済の体力は見る影もなく落ちてきている。

 小泉政府は2004年までに、日本の不良債権を処理するという国際公約を口にしているが、銀行を一時的にでも国有化するほどの政策をとらなければその処理は無理であろう。9月の内閣改造で柳沢金融相を更迭したが、不良債権を処理できる見通しは非常に暗い。しかも本当に不良債権の処理に取り組むとなると、倒産企業が増加して不況は更に深刻化する可能性がある。
 いま日経平均株価は、9,000円を割りこみ20年来の安値をつけているのに下げ止まる気配はない。それは89年12月につけた38,915円の4分の1以下の額である。昭和恐慌の時と比較すると、大正9年3月3日、550円という高値をつけた東株は、その年暴落して9月30日に100円50銭になった。その安値は昭和恐慌まで続き、昭和5年6月23日には、97円40銭になっている。今の状態は、ほとんどこれに近づいている。

 一方、為替レートは、89年には1ドル138円であったが、現在の為替レートは、1ドル120円台である。アメリカ経済の不振があるにしても、もはやこのレートは不当に高い。次は日本売りが始まることが懸念される。国家信用が失われた時、為替相場は暴落するであろう。それがすぐおこらないのは、日本は米国債の巨大な債権国であり、それが市場に売りに出された時、アメリカ国債の暴落となり、それは確実に世界恐慌の引き金をひくことになる。今、我々はその前夜にあるといえる。




 
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