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彷徨える国と人々
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  (2)朝鮮半島の現代史 −南北統一を模索する北朝鮮と韓国!(その2)

●第2段階(70-90) −デタント下の北朝鮮と対韓活動の変貌
 69年頃から東西の緊張緩和の動きが世界的に顕著になり、北朝鮮の金日成政権も、60年代以来の軍事優先の対韓開放路線の見直しを迫られることになった。
 69年1月に発足したアメリカのニクソン政権は、ソ連との緊張緩和、中国との関係改善、南ベトナムからの撤退など、画期的な緊張緩和政策を掲げており、これに対してソ連も好意的な反応を見せた。
 このことによりデタントの流れは世界を蔽いつくそうとしていた

 金日成はこの世界的な流れを受けて、69年1月に軍内部の対韓強硬派の将軍たちを更迭し、在来の武力南進論から、工作機関を利用した日本を迂回する間接的南進政策に方向を変えざるをえなくなった。これが今日の「拉致問題」の出発点になる。つまり拉致問題は、デタントによる北朝鮮の迂回作戦の中から戦略的に登場してきたものである。

 ▲金日成指令 −日本人を包摂・拉致せよ!(69.11.3)
 1969年11月3日、金日成は3号庁舎と呼ばれる対韓工作機関の本拠地で、工作機関の幹部会を開催した。その席上、「必要なら日本人を対象に包摂工作や拉致工作も出来るではないか」という奇妙な「教示」を与えた。(金賛汀「拉致 ―国家犯罪の構図」ちくま新書、89頁)

 さらに、具体的には、(1)新潟に入航する帰国船を最大限に利用して対韓工作にあたること。(2)必要に応じて日本人を包摂、拉致して対韓工作に当たること、などを指示した。これは非常に注目すべき政策転換であり、在来の武力的南進政策から、工作機関を使って日本を迂回する間接的な南進政策へ政策転換した事を示している

 その後の日本人の利用方法を見ると、次のような手が使われていることが分かる。
  (1) 日本の過激派を使った対韓工作の推進。
  (2) 在日朝鮮人を使った対韓工作。
  (3) 工作員が、実在の日本人を名乗る対韓工作。
  (4) 工作員が、実在の日本人に成り代わる対韓工作。
  (5) 工作員が、日本人のふりをして対韓工作を行なう。
 
 ▲日本の過激派を使った対韓工作の推進 −よど号犯の利用
 1970年3月に発生した赤軍派による日航よど号のハイジャック事件は、北朝鮮にとっては「鴨がねぎを背負ってきた」といえるほど時宜を得た事件になった。そのため、もし、よど号が108人の人質を乗せてピョンヤン入りを果たしていたとしたら、その人質は不法入国者としてそのまま北朝鮮に逮捕され、その後の拉致事件は一変していたと思われる。しかしそれは北朝鮮の思惑どおりにいかなかった。
 
 70年代に日本の国内における活動の場を奪われた日本赤軍は、70-80年代にかけて、海外に拠点を作る必要に迫られていた。従って北朝鮮が行ないたいと考えている対韓工作を日本赤軍が実行してくれれば、北朝鮮は国家としての責任を追及されることもなく、対韓工作の実績をあげることができる。
 丁度、金日成がそのようなことを考えていた1972年5月26日、イスラエルのテル・アビブ空港において、日本赤軍のコマンド3人が自動小銃と手榴弾で攻撃するという事件が発生した。

 金日成は、それと同じ事件をソウルの金浦空港で起こすことを考えて、それに日本赤軍を使いたいと思った。ちなみにテル・アビブで逮捕された岡本公三は、北朝鮮にいったよど号犯の岡本武の実弟である。
 この事件に非常に関心をもった金日成は、ピョンヤンにいる日本赤軍の田宮高麿に対して、「日本のアラブ赤軍を北朝鮮の労働党工作部に取り込め!」と指令を出したといわれる。

 田宮高麿は、この「将軍さま」のアイデアを実現させるために、いくつも手紙を書いて実行を図ったが、結果的にはこの計画は実現できなかった。しかしこれを契機にして、よど号犯を労働党工作部の特殊工作に利用する試みが始まった

 ▲在日韓国人を使って対韓工作を行なう −文世光事件
 74年8月15日、在日韓国人2世の文世光が、ソウルの光復節記念式典の会場で朴大統領を狙撃し、夫人が流れ弾で死亡する事件が起こった。その事件で使用された拳銃は、日本の警察署で盗難にあったものであった。
 
 大統領の狙撃犯が在日韓国人であり、しかも拳銃の出所が日本の警察であることから、日本政府は非常に苦しい立場に置かれた。そのため、ただちに椎名特使を韓国に派遣し、さらに田中首相が大統領夫人の弔問を行い、韓国政府に謝罪の意を示した。そしてその事件のおかげで、金大中事件は現場からKCIAの書記官の指紋まで検出されていたのに、その書記官を取り調べることもしないで、政治決着するほどの大きな影響(=成果?)をもたらした。

 ところがこの事件は、後になって文世光が北朝鮮の指令によって行ったテロ行為であることが分かってきた。この事件の1ヵ月後、金日成は文世光事件と北朝鮮のかかわりを否定する会見をもっているが、それはまさに「語るに落ちる」といえる北朝鮮による対韓工作のテロ事件であった。
 この事件以降、韓国人による対韓工作が難しくなり、日本人ないしは日本人に見せかける対韓工作への転換に迫られるようになった。そして、それが日本人の拉致事件に拍車をかけることになった。

 ▲工作員が実在の日本人を名乗る対韓工作 −大韓航空機爆破事件
 1987年11月29日、バクダッドからソウルへ向かっていた大韓航空機が、ビルマ付近の海上で爆破され墜落する事件が起こった。テロの実行犯は、日本名、蜂谷真一、蜂谷真由美の父子の偽造旅券を所持していた。直後に、蜂谷真一は服毒自殺をとげ、生き残った蜂谷真由美を韓国治安当局は逮捕した。

 調べてみると蜂谷真一は日本に実在する人物であるが、事件に無関係で生存していた。そしてテロの実行犯は朝鮮労働党調査部所属の金勝一と金賢姫であり、88年に予定されていたソウル・オリンピックの開催を妨害するために、北朝鮮が行なったテロ活動であった。
 
 この場合、蜂谷真由美の服毒量が少なく、生き残ったため真相が明らかになったものの、もし2人共に死亡していれば、実在する日本人の偽造旅券だけが残されて、日本人の過激派によるテロと疑われた可能性があった。

 ▲工作員が、実在の日本人に成り代わった対韓工作 −辛光洙事件
 大阪の中華料理店のコックをしていた原敕晃が、80年6月20日、良い就職先を斡旋するといわれて宮崎県青島海岸に呼び出されて、4人の工作員により工作船に乗せられ北朝鮮に拉致された。
 この拉致により日本からいなくなった原敕晃に、そっくり入れ替わった人物が、朝鮮労働党調査部所属の工作員、辛光洙(しんがんす)である。

 辛光洙は、日本に生まれた静岡県出身の在日2世であり、日本名は立山富蔵という。戦後、親の出身地である韓国に渡り、朝鮮戦争で南進してきた北朝鮮軍に参加した。北朝鮮の工作員に抜擢された辛光洙は、73年に石川県の海岸から工作船で日本に入国した。日本語が流暢で土地勘もあったため、日本社会に溶け込むことができた。そこで在日朝鮮人を北朝鮮のスパイ網に取り込み、協力者に仕立てる仕事に従事した。

 76年、富山県の海岸から北朝鮮に帰り、労働党の工作員の養成所で再教育と訓練を受けた。そして80年4月に北朝鮮の南浦から工作船に乗り、宮崎県の海岸に再度潜入した。
 2度目の密入国を果たした辛光洙は、日本人としての合法的な身分を取得するために、北朝鮮に拉致された原敕晃と完全に入れ替わる学習を行なった。本人の履歴や身分事項などを暗記し、コックとして怪しまれないように料理の訓練を受けた。

 80年11月、辛は原敕晃の名義でアパートを借り、戸籍抄本、国民健康保険証、免許証、旅券を取得し、完全に原敕晃になった。そして82年5月には「原敕晃」として正規の旅券を取得して、成田空港からモスクワへ飛び、北朝鮮に戻り、7ヶ月後に日本に「帰国」した。
 つまり日本人としての合法的身分を取得して、本格的な対韓工作に従事したわけである。このことから82年の金日成生誕70周年祝賀の際には、国旗勲章1級という高位の勲章を授与された。

 85年、スパイ活動により韓国で逮捕され、反共法違反で死刑判決が確定した。しかしその後、無期懲役に減刑され、さらに金大中大統領による太陽政策の「ミレニアム恩赦」で2000年9月2日、北朝鮮に送還された。
 しかし原敕晃の拉致事件はそのままに放置されており、2002年8月、警視庁は旅券法違反容疑で辛光洙を国際手配した。
 
 ▲工作員が日本人のふりをして行なう対韓工作
 日本、韓国などで、国籍を明確にしないで行なわれる最も多いものは、日本人に見せかけた対韓工作であると思われる。しかし日本人と思わせるためには、ある程度、日本語をしゃべり、日本の風習に沿ったものであることが必要である。
 そのために工作員の養成所では、日本語や日本の風俗習慣を教える事が不可欠になった。そしてそれらを教えるために、70-80年代にかけて、日本中からその教師となるべき人々が拉致された。

 それらの人々の多くを北朝鮮が日本に返さない理由は、彼らの仕事が特殊工作員の養成であるために、もし帰せば対韓工作の闇の部分が明らかにされることにある。そこが拉致問題の解決の難しい点であり、それらについては改めて後述する。

●第3段階(90-07) −社会主義崩壊後の南北体制
 88年9月9日、北朝鮮国家は建国40周年を迎えた。金日成は、君主制を除いて独裁政権の権力が維持された年数の世界最長記録を達成した。そして北朝鮮の社会主義社会でははじめての、世襲による金正日体制に移ろうとしていた。
 ところが金日成の40年間で、住民を強制的に動員して推進してきた経済の近代化は、その頃、大きな転機を迎えていた。北朝鮮の経済は、80年代から停滞に向い始め、90年代に入るとGNPは、毎年、2-8%のマイナス成長が続くようになった。
 さらに88年夏にソウル・オリンピックに対抗してピョンヤンで開かれた「世界青年学生祝典」は、北朝鮮の1年分の貿易額にあたる40億ドルをかけたといわれ、90年代初頭には北朝鮮経済は殆ど破綻していた

 経済破綻の原因の第1は社会主義の官僚制体質であり、虚偽報告や事実の隠蔽が横行し、経済計画の「目標100%達成」とか「超過達成」とかいう報告が、すべて虚構となり、実体経済が把握できなくなった。そのため北朝鮮経済は、羅針盤のない船のような状態になった。

 第2はエネルギー不足であり、燃料と電力の不足は深刻になった。もともと北朝鮮は日本の植民地時代に近代工業の開発につとめており、94年時点で製油能力は年350万トンあるのに、原油の輸入量が136万トンしかない。
 石炭は年5,200万トン必要なのに、生産量は2,700万トンにすぎない。電力は年710万KWHの供給能力があるのに、石炭と重油が不足しているため、稼働率は35%に落ちて、250万KWHしか供給できない。
 つまり北朝鮮の社会主義的経済は、90年代初頭には保有施設の稼動率まで大幅に落ちていた

 第3は、それらの結果としての食糧不足である。さらに93年には肥料不足、天候不順が重なり、米生産量は388万トンに落ちた。需要量は最低に見積もっても年660万トンは必要であり、そのため87年からピョンヤンを除くすべての地域で「1日2食運動」が実施されるようになった。

 韓国経済も、97年のアジア通貨危機の深刻な影響を受けて、90年代に大変な状況になったが、それにも拘らず、南北のGNPを比較してみると、90年代には、図表-3のように南北間では1人当たり10倍を越える大きな格差がついてしまった
 これを見ると、北朝鮮の現在の経済状況は、ニセ・ドルの製造や麻薬取引などに手を染めなければやっていけなくなっており、いまや完全に国家経済が破綻している事が分かる。

図表-3 80-90年代のGNP比較(単位:1人当たりドル)





 
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