(2)朝鮮半島の現代史 −南北統一を模索する北朝鮮と韓国!(その1)
朝鮮半島は、歴史的にロシア、中国、日本、そしてアメリカの国家権益が地政的に激しくぶつかリ合う位置をしめてきた。それは、いわばアジアのバルカン半島ともいうべき要(かなめ)の位置にある。
その朝鮮半島が、第2次世界大戦の後、大韓民国(ここでは「韓国」という)と朝鮮民主主義人民共和国(ここでは「北朝鮮」という)の南北2国に分断された。
そのため、第2次世界大戦から5年後の1950年、民族統一を求めて再び「朝鮮戦争」を戦うことになった。そしてその結果は、南北分断の体制がさらに強化されて、「準戦争」状態のままで現在に至っている。
ここでは朝鮮半島の戦後史を、次の4つの段階に分けて考えてみる。
第0段階(1950-51) 朝鮮戦争
第1段階(1951-70) 南北2国が武力統一を模索した段階
第2段階(1970-90) 東西デタントによる南北対話と政治工作
第3段階(1990-07) 社会主義体制・崩壊後の南北共存
●第0段階(1950-51) 朝鮮戦争
朝鮮戦争は50年6月25日の早朝、北朝鮮軍の南下から始まり、3年1ヶ月(実質は1年)続いた。その戦争は、次の4つの段階に分けられる。
(1)開戦初期 ―北朝鮮軍の総攻撃で大邱と釜山の一部を除いた全国土
が占領された。北朝鮮軍は開戦4日でソウルを占領。
更に50年8月から9月までの間に慶州・永川・大邱・
昌寧・馬山を結ぶ慶尚南北道の一部を残した全国土を占
領した。
(2)国連軍反撃 ―国連軍が参加して大邱と釜山を根拠地として反撃戦を展
開、仁川上陸(50.9.15)を契機に戦況を挽回してソウル奪
還(9.28)、38度線を越えて、ピョンヤン占領(10.19)、韓
国軍の一部は鴨緑江沿岸まで進撃(10.26)して全国土を奪
い返した。
(3)中共軍介入 ―中共軍介入(10.25)、国連軍撤収、ピョンヤン(12.4)、ソ
ウル(51.1.4)、烏山まで後退後に反撃、ソウル修復(3.14)
38度線越え(3.24)、中部戦線の要地を確保して休戦交
渉に入る。
(4)休戦交渉 ―予備会談(51.7.8)、本会議(7.10)から以降。
朝鮮戦争は、上記の経過からも分かるように、最初の3ヶ月で北朝鮮軍がほぼ朝鮮半島の全土を占領し、次の2ヶ月で今度は国連軍が全土を奪い返した。
次に中共軍が参戦して、約半年の間に38度線の南まで押し戻したところで休戦交渉に入るという経過を辿った。
この間の実質1年にすぎない戦争により、南北2国の首都ソウルやピョンヤンなどの主要都市は、3度も占領される戦禍にさらされた。そのため韓国、北朝鮮ともに予想を超える大きな戦争被害を受けた。
人的被害だけでも、国連軍側が死傷、捕虜、行方不明を合わせて約百万人、中国軍約90万人、北朝鮮約52万人、合計240万人、民間人を合わせると500-1000万人にのぼる被害が出たと思われている。
朝鮮半島の人口は、南北合わせても3千数百万人程度である事から考えると、この戦禍がいかにひどいものであったかがわかる。
アメリカはこの朝鮮戦争を通じて、第2次朝鮮戦争が起これば、最早、核戦争以外にないとする教訓を得たといわれる。そのため在韓米軍の装備は、その後、通常兵器ではなく核戦争を前提にした装備に全面的に切り替えられた。
現在、北朝鮮の核兵器の開発が問題になっているが、その端緒は朝鮮戦争にあると私は思う。
●第1段階(51-70) ―北朝鮮の「武力開放」と韓国の「経済開発」
▲50年代には北朝鮮の経済力が韓国を圧倒していた!
今の北朝鮮の経済状況からすると意外な感じがすると思われるが、1950-70年段階の経済力を南北で比較すると、北朝鮮の経済力が韓国に比べて圧倒的に優位にあった。
そのためこの段階で「南北統一」といった場合には、北朝鮮が韓国を吸収することを意味していた。
それはもともと日本の植民地政策が、北朝鮮に近代工業を誘致して工業地帯として開発し、南朝鮮は農業地帯とする産業政策をとったことからきている。
1961年の南北朝鮮の経済力を比較すると図表-1のようになり、圧倒的に北朝鮮の経済力が優勢であったことが分かる。
図表-1 1961年における南北朝鮮の経済力比較
項目 |
単位 |
韓国 |
北朝鮮 |
人口 |
万人 |
2,499
|
1,078
|
面積 |
千平方キロ |
96
|
124
|
石炭生産量 |
万トン |
588.8
|
1,178.8
|
発電量 |
百万KWH |
1,770
|
10,418
|
鋼材 |
万トン |
4.6
|
77.6
|
セメント |
台 |
52.2
|
225.3
|
化学肥料 |
万トン |
6.4
|
66.2
|
自動車・トラクター |
台 |
-
|
3,996
|
綿織物 |
百万メートル |
133
|
256
|
主食糧 |
万トン |
453.4
|
483
|
水産漁獲高 |
万トン |
43.4
|
62
|
(出典)松本博一「激動する韓国」岩波新書、161頁
図表-1を見ると、60年代初頭における北朝鮮の人口は韓国の半分以下にも関わらず、石炭生産は韓国の2倍、発電量は6倍、自動車・トラクターの生産台数は年間4000台、しかも主食糧は人口が2倍以上ある韓国とほぼ同じであり、いかに北朝鮮の産業が韓国に比べて優位にあったかが分かる。
このような経済力を背景にして人口1人あたりのGNPを比較したものが、図表-2である。
図表-2 韓国と北朝鮮の1人当たりGNP比較(単位:ドル)
(出典、韓国国土統一院統計資料から作図)
図表-2を見ると、韓国の1人当たりGNPが北朝鮮に比べて大きく伸びるのは1980年以降のことであり、70年代の初めまでは、北朝鮮の経済の方が韓国より優勢であった。
▲経済成長政策を優先させた韓国の朴政権
このように優勢な経済力を背景にして、北朝鮮が主導して南北統一の活動が進められた。そこで、韓国はその劣勢を挽回するため、1961年に成立した韓国の朴正熙の軍事政権は、軍人の政権としては珍しく、日本からの外資を導入し、「財閥」を育成して「経済開発」に主眼をおいた政策をとった。
その韓国の経済効果は、1970年代の後半あたりから現われ始めた。
たとえば75年の韓国の1人あたりGNPは591ドルであったものが、5年後の80年には3倍近い1,605ドルになった。ちなみに北朝鮮の1人あたりGNPは、75年に571ドルであったのが、80年に758ドルであるから、韓国の経済力は70年代の後半に、北朝鮮を大幅に凌駕した事が分かる。
しかし50年代の経済力は、北朝鮮が韓国よりはるかに優位な状況にあった。例えば、1960年で比較してみると、1人当たりのGNPは、北朝鮮が173ドルに対して、韓国はその半分の79ドルに過ぎない。この経済力を背景にして、50年代の南北統一活動では北朝鮮が主導して進められていた。
▲「武力開放」の北朝鮮と「経済開発」の韓国
1955年4月1日、金日成は朝鮮労働党の中央委員会において、4月綱領を発表した。その中で南北朝鮮の統一独立と北朝鮮の社会主義建設を一体化させることを、北朝鮮の対韓工作の基本とした政策を発表した。
そして、この方針に基づき工作員を養成することを明確にした。これにより朝鮮戦争に引き続いて「武力開放」の路線をとった。
朝鮮半島の武力開放のためには、日本が対韓工作の大きな拠点になる。そのため翌月には、日本に所謂「朝鮮総連」(在日本朝鮮人総連合会)が結成され、朝鮮国内には対韓謀略のために工作員養成所が設立された(57.4)。
この養成所は、最初は朝鮮内務省の管轄の下につくられたが、60年代初頭には、労働党文化部の管轄となり、「695政治学校」と呼ばれて、より強力な対韓工作員の養成を目指した。
さらに、59年12月から日本で北朝鮮への帰還事業が開始された。朝鮮戦争以後、北朝鮮では経済3ヵ年計画と5ヵ年計画が無事終了し、61年からは野心的な7ヵ年計計画が始まろうとしていた。
このなかでの帰還事業は、経済計画達成のための労働力を確保するのみでなく、北朝鮮を社会主義のシャングリラ(楽園)であるという印象を韓国人や在日朝鮮人に普及する手段に利用された。
この帰還事業には在日の朝鮮総連の組織が参加して、10万人に上る人々が北朝鮮に送り込まれた。
一方の韓国では、50年代末、李承晩政権が腐敗・堕落の極に達していた。そのため60年4月にはソウルで李承晩の辞任を求める50万人のデモが行なわれていた。このソウルの大デモは、60年4月19日には死者119名を出す騒動に発展した。 この騒動を、北朝鮮の対韓工作員は全く把握していなかった。
そのため、この報道を韓国の放送で知った金日成は激怒して、上記の工作員の養成組織の再編になったといわれる。
60年夏、韓国では李承晩大統領から尹○善大統領に代わり、8月には張勉内閣が成立した。そして経済第一主義を唱えて軍備を縮小し、比較的自由な立場から南北統一問題が話し合われるようになった。この状況を受けて、北朝鮮の金日成は8月14日に南北朝鮮の連邦制を提案した。(○:さんずいに普)
連邦制による南北朝鮮の統一が行なわれれば、この段階では、圧倒的に経済的に優位な態勢にあった北朝鮮に韓国が吸収されることになる。これをおそれたアメリカは、61年5月16日にCIAを使って韓国に朴正熙少将らの軍事クーデターを起こさせることに成功した。そのことを、アレン・ダレスCIA長官は「米CIAの海外活動で一番成功したのがこの革命であった」と64年に語っている。
韓国に朴軍事政権が成立した事により、60年代の朝鮮半島は、第2次朝鮮戦争による武力統一が何時発生してもおかしくない緊張状態に置かれることになった。
60年代を通じて、北朝鮮と韓国の特殊工作機関が大活躍して、いろいろな事件が引き起こされているが、基本的に北朝鮮の金日成政権は「経済開発」より「武力解放」の路線を重視し、逆に韓国の朴政権は「武力開放」より「経済開発」の路線を重視した。 その結果が、70年代における韓国の優勢に繋がっていった。
▲60年代後半、第2次朝鮮戦争の危機にあった!
60年代の北朝鮮は、ベトナム戦争における北ベトナム、民族解放戦線の勝利に刺激されて、ひたすら軍備の増強にはしっていた。そのため経済建設7ヵ年計画(61-66年)は達成できず、3年間延長を余儀なくされるほどであった。
さらに、68年には1月に武装ゲリラ部隊による朴大統領襲撃が行なわれて全滅し、11月にはゲリラ特殊部隊による韓国潜入がはかられたが失敗するなど、武装南進の試みがたびたび行なわれたが失敗に終わっていた。
これはすべて第2次朝鮮戦争に波及してもフシギではない危険性をもっていた。
そのため、69年5月には、この危険な北朝鮮による挑発を懸念したソ連最高会議議長のボドグルヌイが訪朝し、金日成に会って米国との緊張緩和を力説し、第2次朝鮮戦争が勃発してもソ連は支援できないと述べている。
これにより、北朝鮮の武力挑発をようやく抑制したほど危険な状態にあった。
60年代末には、ベトナム戦争による北ベトナムの勝利を受けて、北朝鮮による第2次朝鮮戦争の危険性が非常に高まっていた。
しかし世界の情勢は、逆に南北ベトナムの統一と東西ドイツの平和共存により、東西の緊張緩和に向い大きく動きつつあった。
そのため分断されたまま残されている朝鮮半島も、71年から急速に対話交渉の段階に入らざるを得なくなってきた。
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