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(3)インドにおける計画経済の系譜
 インドは独立と同時にパキスタンが分離され、重要な農業地域がパキスタン側に移った。そのため、独立直後のインドは深刻な食糧不足に悩まされることになった
 そこで1951年から始まった第1次5ヵ年計画は農業中心に実施されることになり、工業化については、その基礎つくりから着手された。

 この5ヵ年計画は、51年の第1次5ヵ年計画から始まり、90年代の第7次5ヵ年計画に至るまで半世紀にわたり実施された。
 その結果、食糧穀物は自給できるようになり、広範な工業製品の国産化が達成され、一定の成果が達成された。しかしその一方で、経済統制色の強いい開発はハイコストの経済構造を作り出し、製品の生産性や国際競争力の面で大きな問題を作りだした。また、貧困の撲滅まではいたらず、社会的公正の面では際立った成果を生み出すことができなかった。

 さらに、恒常的な財政赤字や国際収支の赤字によるマクロ経済の不均衡が、1990年前後から拡大した。それが91年の外貨危機を生み出し、これを契機にして独立以来の経済政策や開発方式は、90年代以降、根本的な見直しを迫られることになった。その結果、経済統制の大幅な緩和、市場競争原理の導入によるインド経済の構造改革、リストラ(再構築)にせまられることになった。
 この半世紀の経過を振り返ってみよう。

●マハラノビス型開発戦略の採用―インド経済開発の基本思想
 56年4月からの第2次、61年4月からの第3次5ヵ年計画において、体系的な開発モデルが展開され、インドの経済計画は黄金時代を迎えた。

 この本格的な5ヵ年計画の理論的基礎には、インドが生んだ世界的な統計学者で物理学者でもあるP.C.マハラノビスによる成長モデルが利用された
 このモデルの思想は、閉鎖体系の条件下で、全経済を投資財(生産財)生産部門と消費財生産部門に分け、生産財への投資配分を大きくすればするほど長期的には経済成長率を加速するとしたマハラノビスの考え方に依存していた。

 そのためマハラノビスの成長モデルは、大規模な公共投資に依存した輸入代替的な重工業化の推進に、理論的な基礎を与えるものとなった。インド政府は、この考え方に沿って、1951年制定の産業(開発・規制)法を使い、この方向へ民間企業を誘導した。

 その結果、(1)新工場の設立,(2)既存工場における生産の能力の大幅な増大,(3)既存工場における新製品の製造、(4)立地の変更、などの事業には、政府からのライセンスの取得が義務付けられることになった。
 さらに、第2次5ヵ年計画に合わせて発表された産業政策決議において、全産業は次の3部門に分けられた。

 第1の産業部門は、企業の新設に国家が責任を負う分野である。その内容は、兵器、原子力、鉄道運輸、石炭、鉱油等の鉱業、鉄鋼、重鋳鍛造、航空機、造船、電話・電信器製造の製造業の8分野、航空運輸、発電、配電業が割り当てられた。
 第2の産業部門は、国家が次第に参加していくが、民間企業も活動できる産業分野である。その内容は、アルミニウム、工作機械、特殊鋼、化学工業、鉱物、道路・海上運送業が割り当てられた。
 第3の産業部門は、民間の主導により開発する産業分野であり、「その他すべての産業」が割り当てられた。

 この考え方からも明らかなごとく、インドのネルー首相が目指したものは「社会主義型社会」であった。この考え方に沿って、自立的な国民経済を建設するためには、自国の生産財産業をもつことが必要であり、しかもその中心をなすものは公共企業と考えられた。マハラノビスの成長モデルは、まさにこの思想に基本的枠組みを与えるものであり、59年にはビライ、ルールケラ、ドウルガプールの国営3大製鉄所が建設された。

●60年代の経済危機―マハラノビス型計画経済の挫折
 1960年代のインドは、食糧危機(1959,66,67)、パキスタンとの紛争(1965,71)、ゴアの武力奪還(61)、中国との国境紛争(62)など、独立後の最悪の政治経済的危機に次々に見舞われた。
 そのためマハラノビス型計画経済にも大きな転機が訪れ、1969年から73年にかけて大きな変容に迫られることになった。しかも独立後の国家建設の象徴であったネルー首相が64年5月に急死し、シャストリ首相をへて66年1月にインディラ・ガンジーが首相に就任するという政治的変動が加わった。

 ネルー時代に公企業に期待されていた経済発展のテコとしての役割は、政治的統制の強化に置き換えられ、政治の介入が増大して、公企業は消費財生産部門からサービス部門に至るまで進出した。またあらゆる部門にライセンス制度がはびこり、貿易、価格、金融、流通などの統制が強化された。

 まず61年からの第3次5ヵ年計画は、基本的に第2次計画を更に押し進めるかたちで進められ、食糧・穀物の自給、農業生産の拡大、鉄鋼など基礎産業の拡大、工作機械の育成などが加えられた。つまり生産財、資本財産業への重点投資を志向した「マハラノビス・モデル」を更に進めるものになった。

 この第1次から第3次にいたる15年間の5ヵ年計画を通じて、工業部門は年6.4%という実質成長率を実現した。しかし農業部門は、最初は良かったものの第3次計画では成長率はマイナスに落ち込んだ。
 そのため15年間の実質成長率は年3.5%にとどまった。
 このことから経済計画の目標である生活水準の向上の実現は困難になったのみか、食糧価格の上昇、賃金の上昇圧力の増加、利子率の上昇、経常収支・財政収支の悪化という結果を招いた。
 そのため61年からの第3次5ヵ年計画終了後も、第4次計画の見通しが立たず、3年間にわたり年次計画で急場をしのがざるをえなくなった。

 このためインド経済は、1970年代の中ごろまで、10年にわたる長い停滞期間を経験することになった。この60年代の政治経済危機は、公共部門主導、重化学工業投資偏重、輸入代替中心という従来型政策体系の破綻を告げるものであり、その破綻は工業停滞、食糧不足、外貨不足、インフレの昂進となって現れた。
 インド政府はこの政治経済危機を、世界銀行からの借款により乗り切ろうとした。この借款要求に対して世界銀行は、借款の見返りとして経済自由化を要求した

 この世界銀行の要求に対して、インド政府は、66年6月に1ドル=4.5ルピーから7.5ルピーへ57.5%という大幅な切り下げを行ない、同時に製造ライセンス品目の規制緩和、輸入補助金の削減、輸入関税の引き下げを含む一連の自由化措置を発表した。
 世界銀行は第4次5ヵ年計画の終了までに、年間15億ドルの援助の供与を非公式に約束していたが、パキスタンとの関係悪化を理由に、アメリカはインドへの援助を打ち切ってしまった。その結果、世界銀行との約束の援助額は、大幅に減額され、一連の自由化による経済再建はほとんど成果を上げることができなくなった

 このアメリカの裏切りにより、インディラ・ガンジー政権下のインドでは、一挙に反米、反世界銀行のムードが高まり、69年から73年にかけて「社会主義路線」の強化に経済戦略が再転換され、民族主義的な開発計画が全面に出てきた

 69年に第4次5ヵ年計画がようやくスタートしたが、この年、国民会議派は分裂し、インディラ・ガンジー首相は経済自由化路線から180度転換して、再び社会主義的政策を採用した。第4次5ヵ年計画においては、外国から自立するために食糧自給を不可欠として、高収穫品種の導入による「緑の革命」戦略が導入され、さらに「貧困の追放」が旗印となり、外に向かっては反米強硬路線が鮮明になった

●70年代の経済停滞―統制的経済から経済自由化へ
 70年代に入ってもインド経済は停滞から抜け出すことができなかった。
 「スタグフレーションに特徴づけられる1972-74年の危機」とインドの「経済白書」が認めるように、不順なモンスーンに第1次石油危機が重なり、独立後最悪の20%を超える狂乱インフレが発生し、J.P.ナラヤンを中心にした反政府大衆運動が展開された。

 1977年の総選挙では、インディラ・ガンジーの国民会議派が大敗を喫して、史上初めて国民会議派ではない野党連合のジャナタ党政権が誕生した。すでにガンジー政権下において行過ぎた統制経済に対する規制緩和は始まっていたが、1977年以来、ジャナタ党政権は富農優遇策、小規模工業優遇策に加えて、規制緩和を進めた。
 しかし70年代の長期にわたる経済停滞と閉鎖的な国内市場の開発計画のため、インドは既に進み始めていた「エレクトロニクス革命」の波にも無縁で、世界市場から大きく取り残されていた。

●80年代の経済自由化への離陸
 80年代にはアジアNIESの経済離陸が決定的なものになり、東南アジア諸国、中国の1部で「経済のNIES化、グローバル化」が進展し、ダイナミックなアジア経済圏が形成され始めた。これを受けてインドの80年代は激動の時代になった

 この10年の間にインドでは、共に国民会議派で政権を担当したインディラ・ガンジー、ラジーブ・ガンジーが相次いで暗殺され、政権は4度も交代するという社会的動乱を経験した。
 まず79年から始まった経済危機の中でジャナタ政権が自己崩壊し、80年1月の選挙におけるインディラ・ガンジー率いる国民会議派政権が復活して80年代は始まった。

 79年のイラン革命に端を発した第2次石油危機は、丁度、同じ時期にインドを襲った旱魃とともに、インド経済を再び危機に陥らせた。第6次5ヵ年計画に移行できず単年度計画となった79-80年の単年度計画では、第1次産業が12.3%、第2次産業が3.3%のマイナスの成長率となり、実質GDPは-5.2%の成長率を記録した

 そのため80年に政権復帰を果たしていたインディラ・ガンジー首相は、81年にこの危機を乗り切るべくIMFから50億SDRという、当時最大規模の借款をうけることを決意し、他方では財閥資本に対する規制を緩和することにより経済危機の乗り切りを図った。
 この際のIMFのコンディショナリティにより、構造調整プログラムの受け入れ、産業政策、貿易政策の自由化、公企業改革など、いくつかの経済自由化政策を導入することになった

 70年代に穀物自給がほぼ達成されたことから、80年代には再び経済政策の重点は工業に移った。82年10月には、日本の鈴木自動車工業(現在のスズキ)が国営のマルチ・ウドヨーグ社と合弁契約を締結し、従来,外資の参入ができなかった自動車業界にも外資の参入が認められたが、全体としてインドは依然として外資に扉を閉ざし続けた。

 インドの経済自由化が本格的に進み始めたのはこのときからである。この自由化のなかで、産業政策と貿易面でいろいろな規制緩和措置がとられ始めた。そうした中、インディラ・ガンジー政権による第6次5ヵ年計画(80-)と、インディラ暗殺後のラジブ・ガンジー政権による第7次5ヵ年計画(85-)において、従来の貧困の是正と経済的自立という目標に加えて、新しく生産性の向上、科学技術の振興、近代社会の建設という目標を立てて開始された。
 この2つの5ヵ年計画の結果、第6次においてはGDP成長率5.7%、第7次においては6%という高い成長率を実現することに成功した。

 84年に行なわれたインディラ・ガンジー暗殺後の選挙では、同情票により国民会議派が圧勝した。この選挙において国民の期待を集めて政権を担当したラジーブ・ガンジーは、母親の自由化路線をさらにおし進めた
 政権の目玉を民生用電子産業における近代化の推進におき、その分野での外国技術の導入をはかるために外資導入の許可に踏み切った。それと同時に、電子製品の輸入に当たって大幅な自由化を行い、産業政策の面でもいろいろな規制緩和を進めた。

 しかしこれらの「大胆な」規制緩和措置は、統制的経済システムの原理の放棄にはつながらなかった。ライセンスの発給による産業規制を定めた従来の規定の根本的改正には至らず、民間企業に対するライセンス制度による経済運営システムは、依然として踏襲され続けた。
 そのため、これらの拡張路線がマクロ・バランスの悪化に拍車をかけ、自由化の効果も急速にしぼんでいった。

 89年11月の下院選挙においては、与党・国民会議派は大敗を喫し、ジャナダ・ダル党のV.P.シンが率いる国民戦線政権が誕生した。しかしこの政権も経済的混乱を収拾できず、政権基盤が弱いために1年もたたずに総辞職した。
 シン政権に代わり、90年11月にジャナダ・ダル党世俗派のチャンドラ・シェーカル政権が誕生した。しかしこれもわずか4ヶ月で総辞職に追い込まれてしまった。

●90年代の開放体系への移行
 90年度から始まった第8次計画は、開始が2年遅れて92年度から始まった。
 91年5月の下院選挙中に、ラジーブ・ガンジー元首相がスリランカの過激派のテロにより暗殺される悲劇的事件が起こり、政治的混乱はその極に達した。さらにこのように内政が不安定な中で、1月には湾岸戦争が勃発した。
 この悪条件の中、91年6月の選挙において国民会議派は善戦し、少数与党の国民会議派のナラシマ・ラオを首相、蔵相をマンモハン・シンとする新政権が発足した

 既に80年代を通じて財政状態は悪化してきており、経常、財政収支のマクロ・バランスは最悪の水準に達していた。また91年1月の外貨準備高は年間輸入額の2週間分まで落ち込み、インドの政治経済危機は一挙に深刻化していた

 この頃のインドの債務残高は、91年3月現在で既に700億ドルに達し、ブラジル、メキシコに次ぐ世界第3位の債務国になっていた。IMFと世界銀行からの借款導入交渉は、既にV.P.シンの政権のときから行なわれており、インドへの借款供与の前提条件は、安定政権の樹立であるといわれてきていた。
 それがラジーブ・ガンジー暗殺という不幸な事件により、IMFからの追加融資は困難となり、毎年6月にパリで開催される対印援助会議も延期されることになった。

 ラオ新内閣の緊急課題は、インドの債務危機対策であり、IMFからの借款を確保することであった。そこでラオ首相は、シン蔵相の指揮の下で精力的に一連の経済改革に踏み切った。当面の課題は、財政赤字の削減、物価の安定、経常収支赤字の削減というマクロ経済不均衡の是正であった。

 通常、IMFがコンディショナリティとして借入国に要求する経済安定化の政策は、財政支出の削減、金利の引き下げ、為替レートの引き下げであるが、インド政府はこれらの措置をすばやく実施に移した。ラオ首相はネルーの一族とは関係がなく、「ネルー王朝」における過去のしがらみから自由であったことも、今回の経済政策を成功させた原因といわれる。

 90年度の財政赤字は、GDPの8.4%と推計されている。91年度予算では、IMFはGDP比で6.5%まで削減することを要求していた。ラオ政権はこの要求をクリアーするとともに、92年度予算もGDP5%まで財政赤字を抑制する政策を打ち出した。さらに金利の引き上げ、為替レートの20%切り下げも実施された。

 為替レートの引き下げと同時に、貿易自由化の政策が発表された。これによって従来のライセンス政策は廃止され、資本財の輸入規制も緩和され、輸入補助金の廃止、重要物資の輸出入に対する独占的窓口の制限の縮小など、貿易自由化が大幅に進んだ。外貨送金もかなり自由になり、96年度には資本勘定でのルピー取引の完全自由化が予測されるまでになった。

 91年7月に発表された産業政策においても、画期的な自由化政策が盛り込まれた。これにより外貨による出資が自由化され、大企業の拡大規制も廃止された。国家安全保障にかかわる産業や戦略産業など、特定産業を除いて産業ライセンス制・登録制が原則的に廃止されるなど、多くの画期的な自由化が進んだ

●ラオ―BJP―シン政権に継承されたインド経済再生への道
 90年代初期のラオ政権による経済安定化、自由化政策は功を奏し、インド経済は1年半で最悪の状態から抜け出すことに成功した。GNPは91年度の0.6%から92年度4.2%、93年度4.6%に上昇した。その後の経済成長は、図表-1からも明らかである。

 しかし財政赤字は、その後もかなり高い水準で推移している。(図表-2)

図表-2 財政赤字の年度推移(対GDP比、%)

        (出典:伊藤正二、絵所秀紀「立ち上がるインド経済」日本経済新聞社、90頁から作図)

 インド政府は、財政赤字を前提にして、高度成長政策を推進した。そのため90年代の後半期には、一度収まっていたインフレが再燃し始め、貧困層を中心にして国民会議派への支持は凋落していった。そのため政権は、めまぐるしく変わった。
 97年6月には13党連立のゴウダ政権が成立、しかし改革はそのまま継続され、翌98年2月にはインド人民党(BJP)のバジパイ政権が誕生したが、1年後の4月には辞職。さらに10月にはBJPの連合政権が成立し、バジパイは再度、首相の座についた。このような政権のめまぐるしい交代にも拘わらず、幸いにして高度成長政策と経済自由化政策は継承され推進された。

 90年代の後半、国民会議派に代わって第1党になったインド人民党(BJP)のバジパイ政権は、ヒンズー・ナショナリズムを思想的基盤としており、1980年に創設された政党である。BJPの支持者は、北インドの上層カースト、都市部の中小自営業者に多いとされ、官僚、軍部、財界などのエリート層にも支持者を持つといわれる政権である。

 2004年5月の選挙においては、優勢と見られていたBJPに率いられた与党連合が、貧困層の反発を受けて敗北。再び国民会議派が第1党に復活して同派のマンモハン・シンを首相とする新政権が発足した。
 シン首相は、蔵相として90年代前半の経済改革を推進した中心人物であり、90年代からのインドの経済改革路線は確実に継承されているといえる。
 しかし貧困層へ配慮し、左派政党の閣外協力を得て改革を進める必要があり、国営企業の民営化など反対が多い政策は先送りの可能性が高くなっている。 




 
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