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(2)現代インドのなりたち
●日本人にとってのインド
 日本人は仏教を通じて、インドに対しては子供のころから親しみを持っている。ところが不思議なことに、そのインドはいまや仏教国ではない上に、その国の実態については、専門家を除いてほとんど知識をもっていない。
 そのくせ、なにげなく「インド」という名称を使った言葉は我々の周りに氾濫している。たとえば、「インド・リンゴ」、「インド・カレー」など、しかしその意味をきかれるとよく分らない不思議な国である

 それは日本では、「インド」を「天竺」といっていた時代から始まっていた。辛すぎるカレーのことをインド・カレーというように、辛い味噌のことを日本では「天竺みそ」といっていた。
 中国は「唐(から)」と呼んで遠い国であるが、それより更に遠い国が「天竺」である。そのために遠い国の不思議なものには「天竺」つまり「インド」という言葉が付けられた、と私は思う

 たとえば「天竺ねずみ」「天竺木綿」「天竺あおい」などがそれである。更に、外国貿易の商人にも「天竺徳兵衛」という不思議な人物が現われた。あげくのはてに、ホームレスの浪人は「天竺浪人」と呼ばれるようになった。

 つまり「天竺=インド」とは、日本人にとって古来、身近で遠い不思議な国であり、その状況は、21世紀まで続いている。そこでここでは、現代のインドの成り立ちから簡単に解説する。

●現代インドの成立
 イギリスは、1600年に東インド会社を作ってインドに進出した。
 1757年プラッシーの戦いにより、イギリスはインドを全面的に自国の支配下に入れ、18世紀後半からイギリスは積極的にインド経営に着手した。
 そして1857年までにはフランスの勢力を駆逐して西インドを略取し、1877年にエリザベス女王がインド女帝となり、インドは完全にイギリスの領土となった

 イギリスはインドの土着工業を破壊し、重税と束縛により民衆を苦しめたため、インドにおいて反英運動が盛んになり、1885年には独立運動の中心的組織としてインド国民会議派が設立された。
 そして1905年の日本の日露戦争における勝利が、インド民族の独立運動に大きな刺激を与え、最終的にガンジー、ネルーなどが主導する完全独立運動に発展していった。

 第2次世界大戦においてインドの協力を必要としたイギリスは、戦後の独立を約束し、1947年8月15日にインドの独立が認められた。1950年1月に新憲法が公布され、インド連邦共和国が成立し、大統領制をとって国民会議派のネルーが初代首相に就任した。
 この最初のインド憲法では、その前文でインドを「主権的・社会主義的・政教分離の民主国家」と規定した。この規定は76年の改正により、単純に「主権的民主国家」に改められたが、インドでは独立国家創生の初期には「社会主義・政教分離」という意識が強かったことが分かる。

 インド独立に際してイスラム教徒の多い地域が分離独立し、パキスタン回教共和国を建設し、1970年にはさらにパキスタンの一部がバングラデッシュとして分離、独立した。
 インドの初代ネルー政権は、内政では国民会議派を支持基盤として社会主義的経済政策を推進するとともに、対外的には東西冷戦の流れに抗して非同盟主義外交を展開し、朝鮮戦争・インドシナ戦争の休戦を調停し、54年には中国の周恩来首相とともに平和5原則の共同声明を出し、さらにアジア・アフリカ会議の主催国の1つになるなど、戦後の国際政治に大きな指導力を発揮した

 インド経済英国の植民地時代には、英国の支配のもと、英国に原料を供給し、工業製品を輸入する植民地経済が行なわれてきたが、19世紀の後半以降、緩慢ながら黄麻の繊維工業が発展し、20世紀に2度の大戦をへて鉄鋼業を中心とした若干の重化学工業も発展した。
 独立当時のインド経済は、世界的規模の黄麻、綿業の産業に加えて、かなり発達した製鉄,精糖産業を持ち、工業生産高においては世界の8大工業国の1つに数えられるほどであったが、経済全体としては、農業人口が75%を占める圧倒的な農業国であった

 これに対し独立後のインド経済においてネルー首相の目指したものは、国家主導の混合経済体制を基盤とした社会主義型社会であった。「混合経済体制」とは、経済開発を行うに当たり、政府が主導する公共部門、民間部門、および両者が混在する共通部門からなる経済体制のことである。ただし経済開発の主役は、公共部門の公企業に置かれる国家主導型の体制であった

 インドはこの「混合経済体制」の下で、鉱業、資本財、中間投入財などの基幹産業を公的セクターが担うことになった。しかし60-90年代を通じて、国内総生産における公共部門のシェアはせいぜい20%程度であり、国内総資本形成における公共部門のシェアも40%台で安定的に推移しており、常に50%以上の民間セクターが存在していた。

 その意味では、インドの経済体制は社会主義経済モデルとしては特異なものであり、政治面でも選挙制度による議会制民主主義制度をとっており、社会主義を前提としながらも、市場メカニズムを取り込んだ独自の経済モデルを採用していたといえる
 
●インド型社会主義・混合経済の特徴
 インド型混合経済は、4つの特徴を持つと言われている。(渡辺利夫編「アジア経済読本」東洋経済新報社)

 第1の特徴は、経済開発における公共部門の優先政策である。
 1948年と56年に出された2つの「産業政策決議」が経済開発の主役に位置づけたのは、民間企業の育成ではなく、公共部門の拡充であった。特に56年の「産業政策決議」では、戦略的基幹産業はすべて公共部門が担うことを明確に規定していた。
 国家が独占的に開発責任を負う部門として、兵器・軍需品・原子力・鉄道・運輸・石炭・鉱油・鉄鋼・重機器など16産業(後に17)が指定されていた。
 この公的セクターは、その後に、指定部門を越えて肥大化していき問題となった。さらにこれらの非能率的で費用がかかる基幹産業の維持は、財政赤字拡大の大きな原因となった

 第2の特徴は、産業許認可制度のような民間セクターに対する厳しい規制である。
 民間セクターは、公企業が独占する基幹産業に参入できないだけでなく、基幹産業以外の産業でもその活動が厳しく制限された。
 このような民間産業に対する厳しい規制が、インド経済全体の資源配分を非効率化し、経済的合理性の追求意欲を阻害してきた

 第3の特徴は、内向的な輸入代替化政策である。
 インドは長年にわたる植民地支配の経験をもとに、独立後の開発政策においては、外国の影響を排除して自助の理念を強く反映させる政策をとってきた。
 具体的には、国内産業において輸入代替による内向型の工業化を目指し、輸入に対して高率関税や事前免許制による数量制限などをとった。
 そのためインドの貿易依存度は極度に低くなり、経済的自立と国内産業保護には効果があったが、インド国内産業の非効率性や低生産性を助長することになった。
 つまり輸入の縮小は、国内市場の充足を最大の目標にするため、輸出産業が育たず、国際競争力もできないという悪循環に落ち込んだ

 第4の特徴は、経済開発の目標を、経済成長・優先主義ではなく、部門間のバランスを重視した開発を進めることもインドの経済政策の特徴であった。
 インドでは就業人口の3分の2が農業に従事しており、GDPの3割は第1次産業が占めている。そのため初期の工業優先の開発政策においても、生産の最大化のみに傾斜することはできず、農業とのバランスや小規模工業の保護、地域間の均衡発展など、いろいろなバランスをとった発展を考える必要があった。

 これらの特徴を踏まえながら、インド経済は幾多の危機を乗りきって現在に至った。その過程で、これらの特徴や重みも現在では、大幅に変化してきている。




 
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