(6)中国における政治改革は可能か?−第2次天安門事件の顛末
★中国における「民主、自由」
1949年10月1日、中華人民共和国の建国の日、毛沢東は北京の天安門において、中国が「平和と自由を愛する世界諸民族の大家庭の一員」となり、「中国の民主、平和、統一のために奮闘する」ことを宣言した。
中国憲法の第34条には、「中華人民共和国公民は言論、出版、集会、結社、行進、デモの自由を有する」と明確に規定されている。
中国における「民主、自由」は、公式には建国の時から、立派に存在していた。しかし実際には市民の「民主、自由」は存在しなかった。そのことを、ソ連でペレストロイカが始まり、ベルリンの壁が崩壊した1989年に、中国の市民も世界に直接訴えようとした。
これが第2次天安門事件である。
新しい中国の建国の父であった毛沢東自身、「百家斉放」とか「造反有理」とか口では良いことを言ったが、実際には、毛沢東思想に反する人々を全ての人々を「整風」の名の下に粛清してきた。その被害者の1人がケ小平である。しかしそのケ小平自身も権力の座についたとき、今度は、民主・自由を叫ぶ数千人の非武装の学生・市民の男女を無差別に射殺し、戦車でひき殺した。
それは中国4千年の歴史の中で、権力者が常に行ってきた日常的な事件?かもしれない。そのことを世界中に明らかにしたのが、1989年6月3,4日の第2次天安門事件である。中国はこの事件の責任を「内政問題」として国際的には不明確にしたまま、その後の中国の政治・経済を運営してきた。
しかし中国共産党による一党独裁と国際的な市場経済は、それ自体が矛盾する点が非常に多い。いずれ近い将来に清算を迫られることになるであろう。
田畑光永「ケ小平の遺産」(岩波新書)53頁によると、78年12月の中央工作会議において、ケ小平は今見ると驚くほど「民主的」なことを発言している。そこでは、「大衆の意見陳述は許すべきであり、いくらかの不満分子が民主を利用して騒ぎを起こしても、大衆の判断能力を信じるべきである。・・・大衆の特に過激な議論を「政治デマ」として事件にし、打撃を加えることは断固やめるべきである」。等々。
しかしこれらケ小平の発言は、その後の彼の発言とは全く矛盾し都合が悪いので、彼の「文選」には掲載されていない。しかし、文革の頃の市民の声が彼にとって心強い味方であった段階での発言であったというのでは、もはやほかの発言も信用できなくなる。
★周恩来の死去と第一次天安門事件
中国のデモや抗議運動は、惜しまれて亡くなった政治家の死や葬儀がきっかけとなることが多い。76年1月8日に、周恩来首相が亡くなったときにも、この前後から、亡き周恩来首相に対する追悼が進むとともに、毛沢東を先頭とする党中枢への批判が高まっていった。
周恩来を追悼する4月4日の清明節が近づくにつれ、天安門広場には献花と追悼文で埋まり始めた。すでに4月2日頃から数万の群集が天安門広場に集まり始め、4月3日には花輪を先頭にしたデモ隊が行進するようになった。清明節の当日には、数十万人の群集が天安門広場に集まり、亡き周恩来首相をしのび、その矛先は毛沢東を先頭とする党中枢の批判に向かった。
「第一次天安門事件」は、清明節の夜から翌5日の朝の間に起こった。民兵や警察が人民英雄記念碑に捧げられた幾千万の花束を一斉に撤去してしまった。このことに怒った群集と官憲・民兵の間で小競り合いが起こり、ついに「反乱」にまで発展していった。激怒した毛沢東は、直ちにケ小平の職務を党籍のみ遺してすべて解任した。
★胡耀邦の死去と民衆化運動の始まり
それから12年たった89年4月15日、前党総書記・胡耀邦は、北京中医院で心筋梗塞のため亡くなった。第一次天安門事件の毛沢東は既に亡く、ケ小平が毛沢東に代わり、政権の頂点に君臨していた。
その3年前の86年12月、安徽省合肥市の中国科学技術大学において、地方人民代表者大会の選挙に候補者を選ぶ権利がないということに端を発した学生の抗議行動は、「自由」、「民主」の運動となり、上海から中国全土へ広がりをみせた。
この学生デモに激怒したケ小平は、取締りの弱腰を責めて、党総書記・胡耀邦を解任し、首相の趙紫陽を代わりに党総書記に任命した。胡耀邦は、若い指導者を登用して特権や情実を非難するなど、民主化運動とは別の問題で共産党の長老と反目していたが、基本的には政治の自由化や知的自由を指示したことが失脚の原因になった。86年の学生デモは、年が明けると収束した。
1989年は、中国の「自由」、「民主」を考える上で、春からいろいろなことが多い年であった。まず日本の天皇の葬儀に参列したアメリカ大統領ジョージ・ブッシュが、2月に訪中し、その際、アメリカ大使館が晩餐会に招待した民主運動の活動家で天文学者の方励之の出席を、中国側が妨害するという事件が起こった。そしてその月、方励之が中国指導部を激しく非難した論文が発表された。
4月には、胡耀邦前党総書記の死去を契機に、北京大学で壁新聞が民主運動を訴え始めた。これを皮切りに全国80都市での広範なデモ行進に展開していった。その胡耀邦の葬儀が、4月22日に天安門の人民大会堂で行われた。
更に5月には、ロシアでペレストロイカを進めているゴルバチョフ大統領が中国を訪問した。本来なら、天安門広場と人民大会堂で大歓迎会が開かれるはずであるが、そのとき天安門広場は学生や市民に占領された状態にあり、歓迎の場は北京空港に移された。
これらの全ての事件が、中国軍の戦車の突入による無差別殺戮にいたるまで、89年の4月から6月にかけて北京の天安門広場を中心にして展開し、世界中の人々の耳目をそこに集めることになった。
その発端は、前党総書記・胡耀邦の死去の日から始まった。4月15日午後1時過ぎ、北京中医病院に入院中の胡耀邦は廊下に倒れているところを発見された。心臓発作で既に息絶えていた。そしてそれから数時間後には、北京大学に追悼の壁新聞が現れ始めた。
そこには、「不誠実な者が生きながらえ、死んではならない者が死す」とか、更に激しく「胡耀邦の死去により、ケ小平にはもはや統治の権限なし」など、と書かれていた。
それから2日後には天安門広場の人民英雄の碑の袂には花束が捧げられ、「中国は民主主義へ移行する権利がある」とか、「中国に魂を!」という白い幕が掲げられた。そして広場の下では、学生が「胡耀邦・民主・自由万歳!汚職撲滅!官僚機構廃止!」などと叫んだ。
北京で始まった学生のデモは、上海、広州、天津から小規模な省都まで80都市に広がり、文革以来の大規模なデモ行進が展開された。そして北京の学生デモの矛先は、党の要人達が居住する中南海地区に向けられ、政府対学生という対立が明確になる中で、4月22日、人民大会堂で胡耀邦の葬儀が行われた。
その前夜、1,500人の学生が中南海に突入を図ったが警官隊に阻まれて、失敗した。葬儀の当日は、天安門広場には3万人の人が集まり、葬儀が終わった翌日には、更に群集は10万人に膨れ上がった。
胡耀邦の葬儀は終わったが、天安門広場は民主化運動の解放区に変わり、之を契機に民主化を志向する趙紫陽・党総書記を中心とする穏健派と民主化を「反動分子」として弾圧しようとするケ小平、李鵬一派の強硬派の衝突が激化していく。
次に中国の「民主化」が国際的に試される場は、5月15日に予定されていたゴルバチョフの訪中であった。
★ゴルバチョフ訪中
中国の「民主化運動」に対するケ小平や李鵬の態度は、初めから「ブルジョア的自由主義」として弾圧すること以外、一切考えないことで一貫していたように見える。
ケ小平は、既に86年12月の学生デモのとき、胡耀邦、趙紫陽=民主化の支持派、万里、李鵬=民主化の弾圧派らを召集して取り締まりの弱腰を責め、怒りを爆発させたことがある。しかし、このときは、翌年春に学生デモは沈静化していた。
今回の民主化運動についても、ケ小平は、胡耀邦の葬儀の4日後に、李鵬(首相)、楊尚昆(国家主席)と会談して、天安門広場で続いている抗議運動に激昂し、徹底的な「雑草刈り」を指示している。このとき強硬派の李鵬に対して、ケ小平は死者が出ても仕方ないといったと伝えられている。
その意味では、胡耀邦の葬儀後、ケ小平を頂点とする強硬派は民主化運動に対して軍隊をもって鎮圧するという方針を定めていたと思われる。事実、4月26日には、北京郊外に駐屯する38軍の内の2万人が、「下命後」数分以内に市内に移動できる体制を作るよう指示されている。そして翌日、38軍は、突撃銃で武装して市中心部に進出した。
ゴルバチョフの訪中は、5月15日に予定されていた。この訪中を、学生たちは天安門広場での「ハンスト」による「壮大な歓迎行事」で迎えることを計画した。そして、その頃、一方の政府指導部内の対立は、文化大革命以来、最も激しくなっていた。
天安門広場は、50万人の人で埋め尽くされ、5月12日からは、北京大学の50人の学生が、死をとしてハンストに突入した。そして2日後には、ハンスト参加者は2000人になり、数十人の医師が診療に当たった。
5月15日、ゴルバチョフ大統領が北京空港に到着した。天安門広場には、100万人の群集が集まったため、歓迎祝典は急遽、北京空港に変更されていた。天安門広場の群集は、ゴルバチョフに対してシュプリッヒコールを行っていた。「ゴルバチョフ同志よ!われらに民主主義を与えたまえ!われわれにペレストロイカを与えたまえ!」。
ゴルバチョフは、政府要人に対する挨拶で言った。「世代相互間の理にかなった均衡がなくして、いかなる社会も真の意味で存続してゆくことはできない。・・・必要なことは、若い世代の持つエネルギーと、保守主義に対して闘う彼等の権利を、われわれ誰もが容認することである」。
それから3時間後、中国公安の最高責任者・喬石が、天安門で言った。「どうか学園へ帰っていただきたい。もしそうしてくれるのなら、党と政府は、すべての理にかなった提案ならびに要求をもっとも周到に検討し、実施可能な方策を講じ、問題を解決するための措置をとることを確約する。」
この時点が、学生、労働者、市民の側からすれば、その代表が政府に対して明確な民主化要求を提示して交渉にはいるべき絶好の段階であった。しかしそのようなアクションが取られた形跡はなく、天安門広場の占拠が続いた。
5月16日には、天安門広場で政府の保安部隊の挑発行為が始まり、ハンストの参加者の方は危険な状態になり始める。ケ小平は、趙紫陽に対して激怒して戒厳令と軍の出動を決意し、19日に戒厳令が実施された。この時点でケ小平の勝利が明白になった。
5月27日、ケ小平は、趙紫陽を更迭・自宅に軟禁し、代りに江沢民・上海党第一書記を党総書記に任命する。5月末には、全国七大軍区のうちの六対軍区の司令員と29省のうちの27省長が戒厳令支持を表明した。兵力2000人を乗せた列車が北京に到着。72台の半無限軌道装置の車両と300台のトラックが北京郊外に進出。武力弾圧の体制が出来上がった。
5月30日、後にCNNテレビなどで、天安門事件のシンボルようになる高さ10メートルの自由の女神像が広場に出現した。しかしこの像の効果は不成功であった。当局により外国勢力に唆された証拠として宣伝され、利用されたからである。そして6月3日夜から4日にかけて、政府は10万人の兵力を動員して北京市内の武力弾圧に踏み切った。天安門広場には百万人の群集が集合して、学生に危害を及ぼすな!と兵隊に向かって絶叫したが、「人民解放軍」の部隊は武器を持たない市民を無差別に虐殺した。
この瞬間から、「中華人民共和国」は、「シナ」に戻り、解放戦争を戦った「人民解放軍」は、「シナ軍」に戻った。
★第2次天安門事件の後
天安門広場で虐殺が行われた翌日、アメリカのブッシュ大統領は、中国との軍事交流の凍結を発表した。その後、アメリカは、国際機関による中国への資金提供の停止の意思を同盟国に伝え、各国に同調を呼びかけた。更に世銀など国際金融機関による中国向け融資の停止を表明した。
一方、中国はこの事件を「内政問題」としてアメリカをはじめとする国外の反応を一切無視する姿勢を貫いた。そして国内では民主化運動の大掛かりな弾圧を行い、数千人を逮捕して中国全国土にわたって広がり始めた民主化への動きを封じた。
本稿は、イギリスのジャーナリスト・ゴードン・トーマスが、天安門事件を詳細に追いかけたドキュメント「北京の長い夜」(邦訳、並木書房)、そして中国の国際関係を特に米中を中心にまとめたジェームス・マンの「米中奔流」(邦訳、共同通信社)をもとに、私なりに事件を再構成したものである。
この事件で学生や市民が政府に要求したものは、詳細に調べてみても、単純な人民の自由・民主の要求以外の何者でもない。学生が、天安門広場で歌っていたのは「国歌」と「インターナシオナル」であり、抵抗のシンボルになったのは、「自由の女神」であった。
かつて夢想的な政治家・毛沢東は、「人民公社」(コンミューン)を通じて、人類で初めて、社会主義から共産主義への道を歩み始めた。しかし非情なまでに実務的な政治家・ケ小平は、政治的に人類の最先端を歩んでいたはずの「人民民主主義」は、実は「フランス革命」以前のレベルのものでしかなかったことを世界に表明してしまった。
中国共産党は、77年の新党規約に「4つの現代化」を明記した。その4つとは、「農業、工業、国防、科学技術」である。しかし本当は、もう一つ、もっとも重要なものとして、「政治体制」を入れるべきであった。これからの中国は、どうしてもチベット、香港、マカオ、台湾、チベット自治区、新疆ウイーグル自治区、内モンゴル自治区との関係など、国内的にも難しい問題をいくつも抱えている。
中国共産党を中心にした政治体制に対する本格的な改革は、21世紀を生き抜くためには不可避の課題であろう。
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