(5)変貌する資金需要とその流れ
★変わるマネー・フロー
79年以降の財政・金融改革により中国のマネー・フローは、大きく変わった。通常の資本主義国のように、経済成長に対する銀行の資金仲介機能が発揮され始めたのである。そのことにより投資、生産、分配、流通、生産財・消費財・サービス価格等、経済の各分野において従来は「指令制計画」によっていたものが、市場に依存して変動するようになり、マクロ介在の調整機能が中央銀行に要請されるようになった。
そして、86年から人民銀行は、「全国の金融事業を指導・管理する銀行」に位置づけられるようになった。
経済が高度に成長する場合にはどこでも見られる現象であるが、79年から84年にいたる中国の高度成長の中で、人民銀行は貸し出し超過の状態が続いた。その原因のひとつには銀行自身も実績を作りたいと思ったことがある。そのため人民銀行の各専門銀行に対する管理、ひいては通貨供給のコントロールが受動的になり、84年以降はこの貸し出し超過分の原因となって景気の過熱を引き起こし、インフレになった。
そのため85年以降は、各銀行が吸収できる預金の範囲で年度貸し出し計画を立て、人民銀行に提出し、許可をうるシステムになった。それも拘わらず、88年に経済の過熱から物価が急上昇し、その年の後半には人民銀行は引き締め政策に踏み切った。89年に入り各銀行本店の年度貸し出し増額の上限を規定し、「貸出限度額管理」を実施した。
84年に制定した中国の法定準備預金制度の特徴は、その準備率が非常に高いことにある。84年の準備率は、企業預金20%、貯蓄預金40%、農村預金25%と高く設定されていたが、85年に銀行資金の総供給制度の改定に際し、預金の区別なく10%に引き下げられた。
しかしその後、人民銀行が引き締め政策の一環として再び87年に10から12%、88年に12から13%に引き上げられ、更に89年からは人民銀行が「預金備付金」制度(各銀行が人民銀行に預ける超過準備金)が設けられ、各種預金の5-7%といわれる。
人民銀行は、高い率で各銀行から資金を吸収する準備預金制度により中央銀行に計画的な性格を持たせている。また各専門銀行の準備預金は人民銀行に、農村信用合作社は農業銀行に、都市信用合作社の準備預金は、専門銀行の普通預金として計上され、その額に対して専門銀行が更に人民銀行に準備預金を預けることになっている。
中国の特色をもつインフレ対策としては、89年9月から定期預金の金利の物価スライド制が導入され、全国的な貯蓄奨励キャンペーンにより、当時の旺盛な個人消費を銀行預金にシフトさせることに成功した。この「貸し出し総量規制」、準備預金率の操作、「預金備付金制度」の制定などにより、88年に18%を超えたインフレを、90年には2.1%と急速に収束させることに成功した。
★輸出拡大政策
79年の「改革・開放」政策以降、中国の貿易は急速に拡大した。輸出入貿易総額は、80年に381億ドルであったのが、92年には4倍以上の1,656億ドルとなり、2000年にはその3倍近い4,742億ドルにまで拡大した。
その内、輸出は、80年に181億ドルであったものが、92年には5倍近い850億ドル、2000年には、更に3倍近い2,492億ドルに拡大している。84-89年まで景気拡大にともなう消費財輸入の増加により貿易赤字を記録したが、基調としては輸出に重点をおいた貿易黒字を計上している。
輸出品目は、80年代の前半を通じて、石油、食品、繊維原料等が50%近くを占める1次産品輸出型の構造であったが、その後工業製品のシェアが徐々に拡大し、91年には一次産品のシェアが20%近くまで減少し、工業製品シェアが全体の80%近くを占めるに到った。
90年代には日本が生産基地をNIES,ASEANなどから中国に移す傾向が強まり、更に香港が中国の一部になったことなどから、中国は世界の工業生産の基地の性格を強くしてきている。
輸出構造を地域別に見ると、60年代半ば以降、香港が第一の輸出先であったが、1997年7月に香港が中国の特別行政区になったことから、対米貿易の比重が増加し、その貿易黒字は日本を上回る状況になってきている。
★国際金融改革
中国は、国際金融・外為取引についても70年代末から自由化を進めてきたが、90年代に入って更に大きく変わりつつある。96年4月に「中華人民共和国外貨管理条例」が実施され、経常取引(貿易とサービス取引)の決済、外貨の受入・支払について、基本的に制限を設けないことが盛り込まれた。更に12月にはIMF八条国になり、経常取引の完全自由化が実施された。
しかし外貨借入、対外投資などの資本取引については、資本市場が未整備であること、などから、引き続き厳しく管理された。そのため、中国の金融市場には、海外からの投機資金や逃げ足の速い短期資金が入り込む余地が少なく、大量の人民元の仕掛け売りとか株式の先物売買で利益を上げることが難しかった。また国内においても外貨と人民元の交換が規制されていたため、中国の企業や個人が一斉に人民元売り・ドル買いを行い、人民元に切り下げを余儀なくされるという可能性も少なかった。
97年に東アジア諸国は、次々と通貨・金融危機に襲われ、深刻な不況に突入した。その中で、中国はその影響を最小限に食い止めることができたのは、このように資本取引が厳しく規制され、金融・為替の自由化が限定的であったことが幸いした。それ以来、人民元の為替相場は1ドル=8.3元で現在(2003年春)においても大体、安定している。
中国は、2001年12月にWTOに加盟したが、アジアの通貨・金融危機がその以前であったことは中国にとって幸いしたといえる。
しかし中国の金融システムに対する不安は徐々に頭をもたげつつある。その一つは、国有商業銀行(中国工商銀行、中国建設銀行、中国銀行)の不良債権問題である。これらの銀行は、中国の商業融資総額の7割強をしめており、中国人民銀行によれば、その不良債権比率は25%以上に上っている。国有商業銀行の不良債権が増大したのは、政策的に継続されてきた赤字国有企業向けの融資が原因である。
90年代に入り国有企業に対する財政からの補助金が削減され、国有企業が金融機関からの融資への依存度を高めたことが、結果として不良債権の増加を招くことになった。
また中国人民銀行や国有商業銀行の地方支店は、人事、政策面で地方政府の影響を受け易く、それが赤字国有企業への融資や政府傘下のプロジェクトへの融資拡大を招く原因となった。そのため中国政府は、金融機関の不良債権問題が金融危機に発展することを避けるため、金融改革に積極的に取り組み始めた。
金融改革の第一は、98年8月に2700億元の国債を発行して、国有商業銀行の自己資本比率を引き上げ、財務内容の充実を図ったことである。
第二に、98年末には、全国に約2300あった中国人民銀行の支店を9つに集約し、他の支店は9つの支店の傘下に置くこととした。このことにより人民銀行の独立性と主体性が強化され、地方政府の干渉を排除した金融システムを目指している。
第三に、不良債権の分類方法を厳密化する方針が打ち出された。貸し出し債権は5段階に分類され、「不良」以下、3分類を不良債権とした。
第四に、国有商業銀行の不良債権処理に向けた第一段階として、米国の整理信託公社(RTC)を参考にした不良資産管理会社が設立された。その第一号が99年4月に設立された中国建設銀行の不良資産管理会社「中国信達資産管理公司」である。
中国の金融改革は、98年以降急ピッチで進展しているが、2つの大きな問題に直面している。その第一は、国有企業改革の遅れである。国有商業銀行の不良債権の大半は、国有企業向けであることから、金融改革には国有企業の経営改革が不可欠である。しかし経済成長のテンポが減速する中で、国有企業の経営改革は先送り、ないしはスローダウンの懸念が高まっている。
第二の問題は、国有商業銀行の不良債権が、中国の経済計画時代の負の遺産であり、その額も1兆元以上の巨額に上ることである。その処理に必要な資金は、中国の年間予算を超える規模であり、どのように捻出するかが問題となる。
また海外から資金調達をして国内の不動産やプロジェクトに投資を行ってきた国際信託投資公司(ITIC)の問題も、中国の金融システムに暗い影を落としている。98年10月、広東国際信託投資公司(GITIC)が、中国人民銀行によって、突然、清算宣告を受けた。中国国内には、省・市傘下の国際信託投資公司(ITIC)は、約240存在して、各地方政府の外資調達窓口の役割をはたしてきた。そのなかでも最大の資産規模を誇るGITICの経営が、景気減速の中で危機に陥ったわけである。99年1月現在、GITICの海外金融機関からの借入額は、159.5億人民元(約20億ドル)といわれ、今後も同じような問題の発生が懸念されている。
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