(4)中国の財政・金融政策の変貌
★マルクスも驚く「社会主義市場経済」
1992年秋の中国共産党第14回大会(14全大会)において、「社会主義市場経済」という言葉が登場し、それを実施することが決まった。
この「社会主義市場経済」という言葉は、本来のマルクス経済学からいえば全く異質の概念である。本来、資本主義経済の本質は、「交換価値」と「使用価値」が分離していることにあり、そのための矛盾が経済恐慌を引き起こし、資本主義を崩壊へ導く原因になっていた筈である。
つまり「市場」という概念は、資本主義においては、まさに両者が分離し、矛盾することから生じるものなのである。交換価値が、使用価値から離れ独立して機能し始めることから、資本主義の矛盾がいろいろ生じてくることを理論的に詳細に立証したのがマルクスの「資本論」であった。社会主義経済は、この矛盾に満ちた「市場」を否定することによって成立するはずのものである。
これほど本質的に相容れない2つの概念が、1992年に中国では見事に、統一し、止揚(auf-hebeben)された。このことは、マルクス経済学からいっても、画期的?なことである。ところが、それほど重要な革命的理論の内容は、さっぱり分からないのである。
1985年10月、ケ小平はアメリカの実業家代表団との会見において、「社会主義と市場経済の間には根本的な矛盾は存在しない。問題は、どんな方法が社会の生産力を力強く発展させるかである」、と述べている。
ここで彼が言う社会主義は「計画経済」である。ケ小平の言葉を借りれば、「計画経済と市場経済を結合させれば、生産力は更に開放し、経済発展を加速できる。では市場経済は、社会主義の原則に反しないか?反しない。なぜなら、改革の中で、2つのことを堅持しているからである。1つは、公有制経済がつねに主体的地位を占めること、もう1つは、経済発展は常に豊かになる道を歩み、たえず両極分化を避けることである。」(文選」第3巻、48ページ)
「白猫であろうと、黒猫であろうと、ネズミをとる猫は良い猫である」、とよく言われるケ小平の思想の特徴がここでもよくでている。ケ小平によれば、計画経済であろうと、市場経済であろうと生産力を高める経済が良い経済である。ここでは、経済の本質は置いておいて、その方法だけが同一次元で取り上げられている。
資本主義における「市場」の矛盾が問題になるのは、生産力がある段階に達して、生産と消費のバランスが崩れ始めたときである。中国は、21世紀のはじめにその段階を経験するであろう。毛沢東に指導された中国は、思想(=理論)過剰で問題を起こしたが、ケ小平思想に指導された現代中国は思想過少で問題を起こすであろう。
中国は、93年に憲法を改正して、「計画経済」、「国営企業」、「人民公社」という言葉をそこから取り除き、それらを「社会主義市場経済」、「国有企業」、「農業部門における請負制」という言葉に置き換えた。
ケ小平思想下の現代中国は、中国共産党によって指導された資本主義の国家といえる。この国家を「資本主義国」と呼ぶべきか、「社会主義国」と呼ぶべきか?それは人それぞれであるが、ただ資本主義の矛盾と社会主義の矛盾を共に内包していることは事実であり、近い将来、その清算に迫られるのは必至であろう。
★中国の財政改革
78年以前の計画経済の下では、国家財政が重要な位置を占めていた。そこでは国家財政が国民経済の主要な資金源であり、経済運営の主要な手段になっていた。そのため国家財政の比重が、国民経済の4割以上をしめていた。
この段階での国家財政の特徴は、「統収統支」(国家が集中的に財政収入と支出を管理すること)であり、中央と地方の関係は、「統一領導、分級管理」(中央の指令による指導、部門別管理)であった。国有企業は、常に利益上納の形で余剰製品を国家に提供した。
78年以降の第1回目の改革は、80年に実施された「劃(画)分収支、分級包乾」(中央と地方の財政収支を分けて、それぞれが執行を請け負う)体制である。
つまり予算収入の側は、中央と地方に帰属する種目(固定部分)を決め、残りの財源は中央に上納する部分と地方に留保する部分に分ける。
また支出側は、まず企業や非営利事業団体の種類に応じて、経常支出を中央、地方に区分する。中央に属する場合は中央が、また地方に属する場合は地方が費用を負担する。
この区分方法に基づき、79年の地方財政の見込み額を基準として、地方財政収支のバランスをとるための調整比率や定額補助が決められた。このことにより、地方は収入が多ければ支出も多くすることが出来、少なければ逆に収支均衡を自ら追求しなければならなかった。
第2回目の改革は、85年に行われた。そこでは「画分税種、核定収支、分級包乾」(税種に基づいて、中央と地方の財政収支を区分し、それぞれがその財政執行を請け負う)体制である。そこでは予算収入を中央固定収入、地方固定収入、中央地方共通収入の3種類に分けるもので、基本的には第一次改定の場合と同じであるが、異なるのは、第一次改定において、国営企業の利潤が財政収入として分配されていたが、83-84年にかけて利潤上納方式から「利改税」という納税方式にかわり、中央・地方の配分が明確化された。
第3回目の改革は88年以降に始まったもので、多様な財政請負方式が導入されている。
これらの改革は、地方組織の財政収入と地方財政管理者の積極性を大きく変えるもので、
90年には地方と中央の収入比率が拮抗するまでになった。92年には、9つの省市で中央・地方の税収を明確に分離する「分税制」が試験実施されるようになった。
★中国の金融改革
79年以前の中国の銀行制度は、経済体制と同様にソ連を模倣した中央集権型の単一銀行制度であり、中国人民銀行と人民建設銀行だけしかなかった。
中国人民銀行は、通貨供給を行うとともに、工業、商業、流通企業の定額流動資金の超過部分と季節的、臨時的な流動資金、そして農業への融資を行う中心的な銀行として存在していた。資本主義国の中央銀行に比べると、都市銀行を兼ねる幅広い機能を持っていた。
これに対して人民建設銀行は、財政資金による基本建設投資資金の管理を行っていた。
この時代の2つの銀行は、行政によって管理され、収益の一括上納と費用等の一括支給、与信と受信の面では、預金の統一収集上納と、貸出金の統一割り振りの資金管理が実施されてきた。つまり計画経済に対応した資金の総供給を行うための銀行制度であった。
これに対して、79年から工業・農業、重工業・軽工業間のアンバランスを調整するために人民銀行と人民建設銀行の機能を分割する金融改革が始まった。まず79年に国家専門銀行として、2月に農業銀行が人民銀行の農業信貸部門から分離独立、3月に、中国銀行が人民銀行の国際業務部から分離独立した。更に、81年12月に中国投資銀行が人民建設銀行から分離独立するなど、中国人民銀行の機能を通常の資本主義国家における「中央銀行」に位置づける改革が行われた。
この基本線に沿って、79年以降、その下に農業、工・商業、投資、交通、実業の銀行を設立し、更に、保険、国際信託の「公司」を設立、その他、都市信用合作社、その他銀行、証券・信託・リース等の公司、外資・合弁銀行を配置する改革も合わせて行われた。
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