アラキ ラボ
どこへ行く、世界
Home > どこへ行く、世界1  <<  15  16  17  18  19  20  >> 
  前ページ次ページ
 

(3)80年代からの諸改革
★変貌する農村経済
 上表から見られるように、80年代初頭に「人民公社」の呪縛から解放された農業生産は、工業に比べると伸びは小さいが、10年の間に4倍近い伸びを示した。しかし農村経済という農業を取り巻く周辺への影響を見ると、更に大きな変化があったことが分かる。
 1990年現在、農村には総人口の70%を超える約9億人が居住していた。この人々が今後の中国発展の鍵を握っているといえる。この農村経済が80年代にどのように変貌したかが、次表によって分かる。

(出典)「中国統計年鑑」*から再引)
年号 80年 85年 90年 実質伸び率
農村総生産額 2,792 6,340 16,619 12.0%
 農業生産額 1,922 3,619 7,662 7.6%
 農村工業 544 1,750 6,720 20.5%
 農村建築業 180 510 978 11.1%
 農村運輸業 47 190 580 20.5%
 商業飲食業 98 270 679 13.8%

 さて上表を見ると、実際の農業生産額の比率が80年代を通じて減少しており、代わって、
農村工業、農村運輸業という農業を取り巻く企業が、激しい勢いで成長していることが分かる。これが「郷鎮企業」であり、80年に企業数140万社、従業員数3000万人であったのが、91年の統計では企業数が千八百五十万社、従業員数は9300万人という大きな規模になっていた。

 これらの企業活動が農業生産を刺激している側面は大きい。しかし95年以降は、郷鎮企業の数も従業員数も急速に縮小しており、農・工業の発展格差は再び拡大して問題を生じている。

 ケ小平の時代になって、農村には生産の各戸請負制が導入され、ついで人民公社制度の廃止、84年の豊作により食料の統一買い付け(供出の強制)・統一販売(配給)の廃止が行われた。農産物の価格は原則として自由化された。請負制に実施によって生じた余剰人員の就職先として、町村営の「郷鎮企業」が発展した。

 毛沢東時代における農村の集団化路線からの転換の第一段階は、78年から84年までで、まず安徽省の各地で前年からは始まっていた集団耕作から個人耕作への転換を公認することと、農産物の政府買い上げ価格の引き上げ(平均24.8%)という生産刺激策として具体化した。4年後の83年末には、個人農は全体の95%を占めるまで増加し、84年には食料生産が史上初めて4億7百トンを記録するまで増えた。この豊作が食料統制撤廃を可能にした。

 第二段階は、85年から88年までで、この段階では農村での成功を都市に及ぼそうとする努力が始まり、同時に農村では人民公社時代の「社隊企業」を「郷鎮企業」と改称した村営・町営の企業が発展した。郷鎮企業は1億人の遊休労働力を吸収し、農村の所得を大幅に増やした。沿海地域では、対外開放政策ともあいまって、外資と提携したり、製品を輸出したりして、低迷する国有企業を尻目に大発展する企業も登場した。
 85年以降、食糧、綿花などの生産は停滞し、食糧は4億トンに達しない状態になったが、果樹栽培、養鶏、養魚などで富を築く「専業大戸」が出現した。

 第三段階は、89年以降である。ふたたび豊作が続くようになったが、88年後半からの経済の引締めや、89年6月の天安門事件以後の経済停滞により、郷鎮企業にも銀行貸出の引き締めをもたらし、不景気になった。
 92年春のケ小平の南巡以降、郷鎮企業は回復に向かったが、95年以降、郷鎮企業の雇用吸収も平均100万人を切り、経済全体への影響力は低下してきている。更に、市政府が農産物の購入価格を厳しく押さえ込む一方で、農家に必要な化学肥料やビニール膜など工業製品の価格は上がり続けたため、工農間格差は拡大した。

 中国の国家財政は毎年赤字であり、農村を政府の財政支出で発展させることは出来ない。それどころか、基本的には、工農間格差を通じて農村から吸い上げる原資で工業を発展させるという、建国以来の基本戦略がいまだに続いている。

★工業の飛躍的発展と国有企業の地盤沈下
 80年代の工業生産の伸びを下表に挙げる。(単位:億元)

(出典)「中国統計年鑑」。
年代 80年 85年 90年 伸び(80-85) 伸び(85-90)
工業総生産高 5,154 9,716 23,924 10.9% 19.7%
 軽工業 2,430 4,575 11,813 10.9% 20.9%
 重工業 2,724 5,141 12,111 10.9% 18.7%
 国営工業 3,916 6,302 13,064 10.0% 15.7%
 集団企業 1,213 3,117 8,523 20.8% 22.3%
 個人企業 1 180 1,290 48.3%
 その他  24 117 1,048 37.3% 57.1%

 上表を見ると、毛沢東は、鉄鋼生産など重工業に重点をおいたが、ここでは80年代の後半、特に軽工業の生産に重点を置いていることが分かる。

 80-90年における製品別の生産高の平均伸び率の大きいものを見ると、カラーTV(79.4%)、冷蔵庫(57.3%)、洗濯機(38.8%)、ビール(25.9%)、カメラ(19.1%)、腕時計(14.2%)など、過去の生産実績が少なかった耐久消費財分野の生産の伸びが目立つ。(出典:「中国統計年鑑」)

 また生産主体別では、80年以前にはなかった個人企業の伸びが目覚しい。生産額の構成比からいえば、90年においても、国営企業が50%以上を占めているが、集団企業(共同事業)に追い討ちされていることが分かる。

 地域的工業生産額をみると、90年における構成比では長江(41.3%)、華北(27.5%)、中部(18.4%)、西南(17.1%)、東北(13.7%)、華南(10.2%)、西北(4.4%)という順になっており、81-90年の伸び率でいくと、華南(7.33倍)、西南(5.66倍)、あとは東北(3.67倍)を除いて、
大体、4.4-4.6倍となっている。

 「華南地区」は、広東省と福建省であり、郷鎮企業の成長や架橋の協力による合弁企業の設立が目立つ地域である。また、「西南地区」は、広東省、広西自治区、海南島省、四川省、貴州省、雲南省であり、同様に対外開放の実験対象を含む地域である。
 中国の工業生産力の分布は、もともと「北高南低」であり、上記の構成比にはそれが明確に現れている。これに対して「華南」、「西南」地区は、80年代以降の新しい工業生産が拡大した地域と見ることが出来る。

 ただ上記の地区割りは、中国大陸の沿岸地域(東部)と内陸地域(西部)を同一地域の中に一緒にして集計しているため、東部地域の工業発展に対する西部地域の遅れが明確になっていない。多分、南北の工業の格差より、東西の格差の方が大きいことが予想される。



 
Home > どこへ行く、世界1  <<  15  16  17  18  19  20  >> 
  前ページ次ページ