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  (9)あふれ出した円と日米衝突
 日本国内のバブルは、当然、外国へまで溢れ出した。特にアメリカへ投資されたジャパン・マネーは、毎年500-600億ドル、約9兆円にのぼり、アメリカ人の反日感情を刺激するまでになった。日本の対米投資を下にあげる。

日本の対米投資(億ドル)
年次 不動産 直接 証券投資 対米投資計 対日貿易収支
1986 75.3 79.7 493.9 648.9 -550
1987 127.7 96.4 373.8 597.9 -564
1988 165.4 189.7 382.1 737.2 -518
1989 147.7 212.4 266.6 626.7 -491
  (出典)対米投資:NHK取材班「ドキュメント構造協議」、日本放送出版協会、11頁
      対日貿易収支:アメリカ商務省統計

 上表で面白いことは、アメリカの対日貿易赤字よりも少し多い額が、毎年、日本からアメリカに投資されていることである。つまり対日貿易赤字に相当する額は、日本から投資によってアメリカに還流しており、資金は全く日本に流出していないことが分かる。
 この日本を含む外国からの投資が、1990年代にアメリカの株高を作り出し、投資信託などを通じて、アメリカの市民の所得水準を引き上げ、90年代のアメリカの繁栄の基礎となるが、80年代末から90年代初頭にかけては、非常に悲観的な見方が多く出てきていた。

 80年代にレーガン大統領が強いアメリカを演出した政策は、経済政策としてはほとんど成功しなかった。その反面で膨大な財政赤字、貿易赤字を出し、日本経済の将来に過大な楽観論が現れる反面で、アメリカ経済の先行きには非常な悲観論がではじめていた。

 たとえば1982年にレーガン大統領の諮問機関である「グレース委員会」に参加した実業家のH・フイギー・Jrは、1992年に、「1995年合衆国破産」(邦訳、クレスト社)という本を書いた。その内容は、その委員会の資料となった国家債務と赤字のデータから、アメリカの累積債務を予想すると2000年には、債務残高は12兆ドルを超えるというものであった。このことからフイギーは、1995年に債務残高が6兆ドルになったときを「最後の審判の日」として財政赤字の責任を追及した。

 平成5年に出た同書の邦訳の腰巻には、「「超インフレ」か「大恐慌」か!」と書かれたが、実際には、そのどちらも起こらず、アメリカ経済は予想に反して好況になった。しかし本書の予想は、ブッシュ大統領が2期目を勤めていたら、十分に現実になる可能性のあるものであった。
 幸いアメリカは、大統領がクリントンに代わったことから、後述するように事態は大きく変わり、アメリカの財政赤字は90年代の末には黒字になるまで改善された。

 ジャーナリストのヘインズ・ジョンソンは、1991年にレーガンからブッシュの前半にいたる約10年の歴史を、「崩壊帝国アメリカ」(邦訳、徳間書店)にまとめた。
 本署の原題は、「歴史の中の夢遊―レーガン時代のアメリカ」である。著者は、「強いアメリカ」を標榜するレーガン政権が、「弱いカーター」に代わって颯爽とワシントンに登場した80年代の状況を、20年代のアメリカをえがいたF.R.アレンの古典的名著「オンリー・イエスターデイ」に匹敵する筆致で描きだした。

 レーガンは、F.ルーズベルトのニューディール政策以来、巨大化し続けた政府の役割を逆転させ、「規制緩和」、「小さい政府」を標榜したが、一方ではアメリカを世界最強の軍事国家に作り上げ、国内では金持ち優遇の減税政策により貧富の差を一層激しくした。
 このヤッピーとLBO(借金による企業買収)の帝王たち、詐欺師とあぶく銭先導者が活躍する「新しい金箔の時代」を、ジョンソンは、ジャーナリストの目で厳しく描き出した。
 そして後半は2期目の政権基盤を揺るがせた「イラン・コントラ事件」から87年のブラック・マンデー、借金による企業買収ブームの惨澹たる結末などアメリカ経済の暗部をリアルに描き出した。これの状況はブッシュ政権に引き継がれて、ブッシュ大統領の就任式が行われる頃には、首都ワシントンは、麻薬関係に暴力沙汰により「殺人都市」と化しており、就任式の参加者には、特別の護衛が必要なほどになっていた。
 ブッシュは、多くの点でレーガン的過去からの決別を示そうとした。しかし結果的には、レーガン時代に作り出した膨大な財政赤字を更に拡大しただけであった。

(10)80年代の日米経済関係―いらだつアメリカ、戸惑う日本
 80年代を通じて、アメリカの貿易赤字が拡大していく反面で、日本の貿易黒字は拡大し、両者はまさに鏡像のような関係になった。従来、アメリカは自由貿易体制を維持することが、自国の発展にとっても有利であったものの、80年代になると、議会を中心に日本の市場開放や保護貿易への圧力が非常に強くなっていった。
 そのため日本においては、市場開放のための「対外経済対策」が何度も発表され、アメリカとのたびたびの経済交渉に明け暮れる10年となった。最後にアメリカは、日本に対してほとんど内政干渉に近い「日米構造協議」までを要求するまでになった。

 日本側から見ると、80年代の前半、まず81年12月に輸入検査手続き、輸入制限品目のレビュー、関税率の引き下げを含む「対外経済対策」を発表して以来、84年12月までに市場開放の対策を6回も発表した。その頻度は毎年2回になり、日本政府としてはその都度、相当思い切った政治的決断を必要とするものであった。
 しかしこれの対策は、アメリカ、ECなどからはほとんど評価されず、実際にもほとんど効果がなく、対米貿易黒字は増える一方であり、アメリカ議会などによる対日批判は激しさを増すばかりであった。

 1985年4月、日本政府は深刻化したアメリカとの経済摩擦を緩和するため、包括的な「対外経済政策」を発表した。この対策は、日本市場を開放するための通信機器の技術基準の緩和と関税引き下げの「行動プログラム」の策定を柱としていた。そして、7月には、市場開放の行動プログラムが発表された。

 また日米の金融問題では、すでに1983年11月から日米ドル委員会が行われて、従来、極めて閉鎖的であった日本の金融市場を開放する日米協議がすすめられてきており、84年5月には日本の金融の自由化・国際化の協定がローマで結ばれていた。そして85年9月には、既に述べた「プラザ合意」がなされて、日米の金融関係は80年代後半には従来と全く異なる局面を迎えようとしていた。

★スーパー301条
 1980年代の中期には巨額の貿易赤字を背景に保護主義への動きが強くなり、アメリカでは通商問題が30年代以来で最大の関心を集めるようになった。その結果、1988年には、スムート・ホーレイ法以来、初めて議会主導により、「スーパー301条」で知られる「包括通商・協力法」が制定された。
 この法律の特徴は、国内市場の保護手段を強化することにあり、そのために相互主義条項を強化し、その権限を大統領に委譲する点にあり、特に日本にねらいをおいたものだった。

 すでに1974年の通商法の中に、301条の規定はあり、「外国の不公正あるいは不合理な貿易慣行」に対して「報復措置をとること」を行政府に求めていた。この条項は、運用の如何でGATT違反になる問題の多い規定であり、実際には「伝家の宝刀」ともいえるものであったが、すでにレーガン政権は85年から業界の提訴を受けて利用し始めていた。レーガン政権中、全部で8件の自主的発動を行い、制裁の発動や脅しも多くなった。
 301条調査件数(佐々木隆雄、「アメリカの通商政策」、岩波新書、169頁)を見ると、1985-89年に、全体で31件中、日本は7件で第一位を占めている。ちなみに1990-94年の日本は、1件でほとんど問題になっていない。

 アメリカは、日本に対するスーパー301条の対象として、スーパー・コンピュータ、人工衛星、林産物の3件に決定し、89年9月以降の日米貿易委員会で一応のフォローアップの協議が行われ、301条の認定は行われなかった。

★日米構造協議
 1989年、ブッシュ政権が誕生した年の7月にフランスで行われたサミットにおいて、宇野首相とブッシュ大統領が日米間で構造協議を行うことで合意した。それは、日本の場合には、その異質論を背景にして構造障壁をスーパー301条の対象とすべきであるという強硬な主張によるものであった。

 当時、アメリカの側には、財政、貿易の赤字体質や設備投資を怠る企業体質など、自国の構造問題を協議の対象にするつもりはなかったが、日本から「双方通行」を主張されて、双方の公共投資、土地政策、流通問題、独禁法などの国内問題を協議するという奇妙な国際協議が日米間で行われることになった。
 アメリカは、日本側の指摘に答えて、1990年1月に、過少貯蓄の批判に応えて大統領教書の中で、日本のマル優に似た制度の創設をうたったり、財政赤字削減のためにグラム・ラドマン法の強化を盛り込んだりしたが、日本側は多数の官庁がからむため、具体的な行動への取り組みは進まず、アメリカはいらだっていた。

 構造協議の第3回が終わった90年3月、ブッシュ大統領から海部首相への申し入れでパームスプリングスで日米首脳会談が開かれた。アメリカ国内では、日本バッシングの声が騒然としており、対日不満は議会周辺からアメリカ全土に広がりつつあった。
 この時のアメリカの状況は、N.J.グリッドマン、D.P.ウッドワードの「新しい競争者達―外国の投資家達は、米国経済を変えつつある」、1989(邦訳:「Yes or No?買われる米・買う日本」、日本経済新聞社、1990)に冷静に、かつ詳細に書かれている。

 会談の結果は、日米両国が最大の懸案である構造協議の大幅な前進をはかり、スーパー・コンピュータなどの個別問題の解決が不可欠であることで意見が一致した。海部首相は、帰国後、構造協議と個別貿易問題の解決を内閣の最重要課題に位置づけ、トップ・ダウン方式で作業を進めた。その結果、今後10年間の公共投資計画、トイザラスの日本進出で象徴される大店法の改正、日米で非常に思想の異なる独禁法改正問題などを含む中間報告が4月にまとまった。

 この結果の評価は、日米共に「経済協議の成功」を伝えていたが、6月になり最終報告作成の段階で、アメリカ側が中間報告からの進行状況を具体的に明らかにすることを要求して、また雲行きがあやしくなった。最終的に問題になったのは、10ヵ年の公共投資の総額と特許の審査期間の問題であった。公共投資は過去10年間の総額260兆円であったものを、今後の10年間は430兆円とし、特許審査期間は5年の間に24ヶ月以内にする努力をすることで決着した。

 この構造協議は、もともと内政問題を国際協議のテーマにするという変則的なものであった。それはアメリカの巨額の貿易赤字と日本の貿易黒字、そして80年代における債権国の日米逆転にいらだつ議会と国民に対するブッシュ政権のパフォーマンスともいえるものであった。

 日本に対して攻撃的経済交渉を続ける過程で、ブッシュ政権は国際的に更に激しいパフォーマンスを用意していた。日本の政府も国民も、この構造協議が終わってやれやれと思った1ヵ月後の8月2日、アメリカが突如としてイラクにハイテック技術を駆使した軍事攻撃をしかけて驚かされた。「湾岸戦争」の開始である。この戦争によりブッシュは最強の大統領といわれるまでになり、逆に構造協議や経済摩擦は急速に霞んでしまった。

 日米経済摩擦で明け暮れた1980年代を通じて、皮肉なことに日米両国は、互いに輸出依存度を高め、両者の経済的関係は、より緊密化していった。日米の輸出依存度の推移を次にあげる。
日米の輸出依存度(%)
年次 アメリカの対日依存度* 日本の対米依存度**
1981 9.1 25.4
1982 9.8 26.2
1983 10.8 29.1
1984 10.8 35.2
1985 10.6 37.2
1986 12.3 38.5
1987 11.1 36.5
1988 11.6 33.8
1989 12.2 33.9
1990 12.3 31.4
            *商務省統計
            **大蔵省通関統計
 そして更に皮肉なことには、レーガン、ブッシュの赤字政策と強いアメリカが世界中の投資資金をアメリカに集中させ、クリントンの時代に、経済政策はすっかり変わったものの、かつてないほどの繁栄をアメリカに作り出した。それは財政赤字を黒字にするほどの大きな状況変化であった。



 
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