(5)レーガノミックスの登場
1980年代は、日本が債権国、アメリカが債務国になるという、かつて考えられたことのない逆転が起こる10年となった。
1981年1月、ロナルド・レーガンが、「大恐慌以来、最悪の経済的混乱の中」(2月8日のTV演説におけるレーガンの言葉)ジミー・カーターに代わってアメリカ大統領に就任した。
その前の大統領カーターが大統領に就任した1977年当時、既にアメリカ経済は深刻な不況から急速に回復しつつあった。失業率は低下傾向にあり、インフレ率も既に1974年の2桁の水準から大幅に低下していた。このような状況にもかかわらず、カーター政権はなお拡張的財政政策を推進した。カーター大統領は、失業問題を最優先に考え、公共事業による雇用の増大を図った。しかし失業対策としての公共事業はそれほどの効果を上げず、年率18%ものインフレが進行していた。
つまりレーガン以前の経済政策には、ほとんど方向性やビジョンがなく、場当たり的であったのに対して、レーガンは「レーガノミックス」と呼ばれる明確な経済政策を打ち出した。レーガノミックスは、1981-84年,1985-86年の2段階で行われた。
まず最初の政策は、次の4項目を柱としていた。
(1)連邦支出の伸び率を抑えるための予算改革と防衛費の増額
(2)個人所得税率の引き下げと税制改革
(3)FRBの協力により新しい金融政策に取組み、安定した通貨と健全な金融市場を回復
(4)広範囲な政府規制緩和の実現
レーガノミックスは、「サプライ・サイドの経済学」というウォールストリート・ジャーナルの論説委員などによって作られた非主流の理論を基礎にして作られていた。その内容は、小さな政府を目指し支出を削減するとしながら、一方では軍備を拡張して強いアメリカを実現するものであり、減税により税率を下げるとしながら、税収を上げて財政赤字を縮小するという不思議な理論である。そのため南米の不思議な呪術の名をとり「ブーヅー経済学」とも呼ばれていた。
上記の4本柱のレーガノミックスは、もともと矛盾に満ちたものであり、実際の政策が実施される過程で議員、官僚などの抵抗により後退を余儀なくされていった。その間の詳細なレポートは、レーガン政権の行政管理予算局(OMB)局長であったD.A.ストックマンによる「レーガノミックスの崩壊」、(サンケイ出版、昭62.)に詳しい。
たとえば減税において、税率を下げると税収が上がるというサプライ・サイドで有名な「ラッファー理論」に従って、従来は累進課税により最高70%であった所得税率を28%に下げた。しかし、減少する筈の連邦財政の赤字は逆に急激に増加して、対GNP比で1981年には3%をきっていた財政赤字額は、83年には6%を超えるまでになってしまった。
最高税率が引き下げられて高額所得者の消費が増加したため、世紀末のアメリカに「金ぴか時代」(新藤栄一「アメリカ 黄昏の帝国」、岩波新書)といわれる好景気がやってきた。事実、レーガノミックス下のアメリカでは、民間消費支出の伸びは、1983-88年に4%に上がり、1970-1980年代初頭に1.11%であった伸び率の4倍になり、G7の国々の中での最高位となった。
レーガノミックス初期段階の経済諸指標を次に挙げる。
年 |
実質経済成長率 |
消費者物価指数 |
失業率 |
資本形成増加率 |
1980年 |
-0.3% |
13.5% |
7.1% |
-7.9% |
81年 |
2.5% |
10.2% |
7.6% |
|
82年 |
-2.1% |
6.0% |
9.7% |
-9.6% |
83年 |
3.7% |
3.0% |
9.6% |
8.2% |
84年 |
6.8% |
4.3% |
7.6% |
16.8% |
(出典)「アメリカ経済白書」など。
上表を見ると、レーガノミックスによる減税や規制緩和は、ストックマンのいうようにうまく行かなかったが、減税や規制緩和による心理的ムードが民間消費の伸びに大きな影響をあたえ、それが成長率や資本形成に寄与した状況が分かる。
(6)レーガノミックスの結果―双子の赤字の増大
第2段階のレーガノミックス(1985-86)は、第一段階の政策による政治経済情勢の変化を踏まえたものになった。その情勢の変化とは、インフレ率の急落、財政赤字の急増、強いアメリカ=ドル高による巨額の貿易赤字などの「双子の赤字」である。
レーガノミックスの結果、税率の引き下げは税収の増加には結びつかず、財政支出の削減は議会や官僚の抵抗によりほとんど進まなかった。そのため好況の反面で財政赤字は驚異的な増加を示した。アメリカの財政赤字の状況を次に挙げる。
アメリカの財政赤字
年次 |
政権 |
赤字額 |
累積赤字額(期末) |
1977-80 |
カーター |
2,269億ドル |
9,085億ドル |
1981-88 |
レーガン |
13,387億ドル |
26,008億ドル |
1989-92 |
ブッシュ |
10,079億ドル |
40,788億ドル |
(出典)"Economic Report of the President"から作成。
上表を見ると、アメリカの財政赤字は、レーガンの時代に非常に拡大し、ブッシュの時代には湾岸戦争により、更に大幅に拡大したことが分かる。
レーガンの大胆な減税による財政赤字政策は、民間貯蓄率を低下させるとともに、ドル高、高金利の金融政策ともあいまって、貿易・経常収支が急速に悪化した。アメリカの貿易収支が悪化する過程で、日本は大幅な貿易黒字を伸ばし、80年代の後半は日米の経済・金融摩擦が激化していった。
80年代のアメリカの貿易・経常収支の赤字の推移を日本の貿易黒字との対応で下表に揚げる。
アメリカの貿易・経常赤字と日本の貿易黒字(億ドル)
年次 |
アメリカの貿易・経常収支 |
日本の貿易黒字 |
貿易収支 |
経常収支 |
1980 |
− |
15.2 |
− |
1981 |
-280 |
44.7 |
87 |
1982 |
-364 |
-112.1 |
69 |
1983 |
-620 |
-415.6 |
206 |
1984 |
-1,078 |
-1,016.5 |
336 |
1985 |
-1,321 |
|
461 |
1986 |
-1,527 |
|
827 |
1987 |
-1,607 |
|
965 |
上表を見ると、レーガン政権によるドル高の経済政策がいかに急激にアメリカの貿易・経常収支に巨額の赤字を作り出していったかが分かる。もしドルが国際取引における機軸通貨でなかったら、レーガンによる強いアメリカの経済政策にもかかわらず、すでに1980年代の前半に大幅なドル安が起こっていたであろう。
このドル高政策のおかげで、日本の貿易黒字は着実に増え続け、日本に巨大な貿易・経常黒字を作り出した。
その結果、1985年には、日本が世界一の債権国になり、アメリカは世界一の債務国になるという、かつて考えられなかった逆転現象が起こった。
このような状況が進行しているにもかかわらず、日本の金融は大蔵官僚の統制のもと自由化されていなかったし、日米の為替レートは、1980年に1ドル226円であったものが、1985年には238円という横ばいで推移していたのは、むしろ驚くべきことであったといえる。日本が正当な為替レートによる新しい経済構造の構築など、夢にも考えていなかったことも驚くべきことである。この異常なドル高と円安、そして日米の金融・通商関係は、早晩清算される運命にあった。
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