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  (3)アメリカの軍事支出増大によるドル危機
 第2次世界大戦後のアメリカの一人勝ちの状況は、皮肉なことにアメリカ自身が東西冷戦の中で、直接戦争に関与することによる軍事支出の増大によって変化し、挙句は「ドル危機」を引き起こすまでになった。その戦争の最初が1950年の朝鮮戦争であり、次がベトナム戦争であった。

 まず1950年の朝鮮戦争以後、アメリカの国際収支は、軍事支出や資材輸入の増加などにより赤字が継続するようになり、「ドル不足」は解消していった。1960年代へ入ると、東西冷戦に加えて、ベトナム戦争による軍事支出と資本収支の赤字の増加により、アメリカの金保有高は1957年の229億ドルから、1962年には162億ドルに減少し、ドル危機の不安が出てきた。

 1960年11月、アイゼンハワー大統領は、「国際収支緊急令」を出してドル防衛に乗り出し、更に1961年1月に大統領に就任したケネディは、更にドル防衛策を強化した。
 民主党ケネディ、共和党ニクソンにより戦われた1960年秋の大統領選挙は、国内の不況と国際収支の赤字に直面していた。このアイゼンハワーからケネディへの政権交代は、ロンドン金市場の挑戦を受けて、超党派的なドル防衛策が講じられた。

 1961年2月、ケネディ大統領は、1オンス=35ドルの公的金価格維持の意向を明確にし、そのためロンドンの金価格も低下し、ドルの信認もかなり回復した。そしてその年の秋に、アメリカと西ヨーロッパ主要国の中央銀行は、金価格の安定を目的にした金プール制を協定して、金投機は一応収まったが、翌年秋にはキューバ危機で再び激しい金流出が起こった。

 ケネディは、いま一つのドル防衛策として、1962年からアメリカのFRB(連邦準備銀行)が、主要国の中央銀行と自国通貨を預けあうスワップ取り決めを行った。このドル防衛策によりアメリカの国際収支の赤字は漸減し、ドル不安も沈静化したが、1963年に入ると、アメリカの長期資本の流出が異常な高まりを見せ、7月には再度、公定歩合の引き上げを含む新しいドル防衛策を講じることになった。

 アメリカは、国際収支の赤字が増え始めた1958年から1971年に金-ドルの交換性を放棄するまでに、金準備を126億ドル失い、公的債務は45億ドル増加した。そのため1960年代には、ドル不安が深刻化し、そのたびに金本位制の1オンス=35ドルの法定金平価を防衛しなければならなかった。国際通貨危機の頻発は、アメリカ1国の限界を超えて、国際協調体制をとる必要が出てきていた。

 国際協調体制の最初が、1960年10月に米英両国がIMFと協議して、金価格の高騰を抑えるためにとった金プール協定である。この操作は、その時は功を奏したが、翌年10月に再度高騰したため、8カ国の中央銀行間の協定に拡大された。しかし金価格の高騰に太刀打ち出来ず、1968年3月に金プール制は停止し、それ以後は、金の法定価格と市場価格が乖離した2重価格制がとられるようになった。
 1960年代には、その他にもいろいろな先進諸国間の金融協力がとられるようになり、これらの協力なしにブレトン・ウッズ体制の維持はもはや困難になっていた。

(4)ニクソンによる金・ドル交換性の停止―ブレトン・ウッズ体制の崩壊。
 1969年1月に成立したニクソン政権は、大幅な財政拡大政策をとって、ドルの対外価値を根底から危うくした。連邦予算は69年の30億ドルの黒字から、71年には230億ドルの赤字を出すまでに膨張した。この間、全く所得政策を導入しなかったため、物価と賃金の悪循環は加速されて、アメリカの国際競争力は低下を続けた。

 1971年春には、猛烈な投機により外国中央銀行にはドルがあふれ、アメリカの金準備は大量に外国に流出した。そのため、その年の8月15日、大統領ニクソンは、金・ドル交換性停止という世界を震撼させる衝撃的な経済政策に踏み切った。
 この頃、アメリカの金準備は、110億ドルに落ち込む一方で、公的債務は250億ドルに増大しており、実質的な金準備はマイナスとなり、ドルへの信任は急速に低下していた。

 アメリカの金・ドル交換停止は「ニクソン・ショック」と呼ばれて世界に衝撃を与えた。日本の場合、戦後の1ドル=360円という固定レートは、ほとんど不動のものと考えていただけに、当初は時の宰相・佐藤栄作は、その意味も事態も理解できなかったといわれる。 

 日本の銀行や金融機関も同様であった。そのため、世界中の金融市場が閉鎖された中で、日本だけ市場を閉鎖せず、なぜか莫大な損失を無視して40億ドルもの巨額のドルを買い続け、結果的に国民に多大な損害を与えた。この「戦後経済史最大のナゾ」(宮崎儀一)の事件?は、塩田潮の名著「霞ヶ関が震えた日」に詳しい。
 この日を境に世界は変動相場制の時代に入った。

 1971年12月に10カ国蔵相会議が開かれて、再度、固定相場制への合意がなされ(スミソニアン合意)、体制も確立したが、この新政策にもかかわらず、アメリカのドルは大量に流出し、貿易収支は赤字に転落して、スミソニアン体制は崩壊した。
 1973年春、主要国はそろって変動相場制に移行し、IMFの協定も1978年4月に改定されて、戦後のブレトン・ウッズ体制は崩壊した。

 1970-1980年代、世界経済は2度にわたって「石油ショック」に見舞われた。その間、国際間の資本移動がかなり激しく行われた。これが固定相場制であれば、投機的な資本移動は、更に激しく行われたと思われ、その意味では、変動相場制がかなりうまく機能したともいえる。しかし財の移動は、固定相場制のほうが良かったことはいうまでもない。




 
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