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  (7)プラザ合意とレーガンの新通商政策
 1985年は、日米の金融・経済の大きな転換の年になった。その結果として、日本は大バブルに巻き込まれ、深刻な平成不況を引き起こすことになった。その年の5月、ローマで日米円・ドル協定が結ばれて、従来閉鎖されていた金融の自由化が始まった。
 その年の9月22日、ニューヨークのプラザ・ホテルで、G5(先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)が極秘裏に開催され、そこで各国が「ドル高」を是正するために協調介入することが合意された。これが「プラザ合意」である。すべてはここから始まった。
 1985年の日米円・ドル協議からプラザ合意に至る詳しい過程は、塩田潮著「大蔵省vs.アメリカ−仕組まれた円ドル戦争」(講談社文庫)に詳しい。

 プラザ合意に出席した日本側のスタッフは、竹下大蔵大臣、澄田日銀総裁などであった。彼らが当時、想定していた為替レートの上限は、1ドルが190-200円であったと思われる。しかし実際の為替レートは、1986年春から急激に上がり始めた。
 1986年1月には、1ドル200円であった円は、一旦、200円を割り込むと天井知らずに上がり始めた。2月184円、3月178円、4月175円となり、7-10月には150円台をつけるまでに円は上昇を続けた。この円高水準は、ほとんど誰も予想しなかったものであり、戦後、長い間、1ドル360円という円安で輸出を伸ばしてきた日本の政財官界のすべてを恐怖に陥れるに十分なものであった。

 1985年、アメリカの対日貿易赤字は、ほとんど500億ドル近い史上最高額を記録した。貿易赤字全体の4割近い割合を日本が占めている。アメリカの議会では保護貿易主義が台頭して、春には上下両院で「対日報復決議案」が採択されるまでになっていた。これに対してレーガンは、上記のドル高是正と時を同じくして、新通商政策を発表した。
 これはアメリカ議会を中心とした保護貿易主義を牽制する一方で、「1974年通商法」304条(不公正貿易の相手国に対する報復措置の規定)の発動宣言を行い、半導体、たばこ、皮革製品など個別協議を行うとともに、規制が多く閉鎖的な日本の国内市場の開放にせまるものであった。

 日本の景気は、すでに85年5月頃からゆるやかな下降を始めていた。これに加えて86年には円高による不況が深刻化したため、日本政府は86年秋頃から円高阻止の政策に大転換した。
 日銀は86年に入ると、為替相場への介入に加えて、公定歩合の引き下げに踏み切った。公定歩合1月の5%から、4ヶ月間に3度にわたって引き下げられ、4月21日には3.5%という戦後の最低水準まで落ちた。加えて円高不況に対して、政府は86年9月に公共投資を中心とする総額3兆6千億円の総合経済政策を発表した。

(8)膨れ上がった日本の国際的経済規模―日本のバブル(株価・地価の暴騰)
 実はこのとき、日本経済は、戦前・戦後を通じて、かって経験したことのない新しい段階に踏み込んだことを、政治家・財界人・官僚の誰も気づかなかったことが、日本の悲劇の始まりになった。

 1985年の日本の国内総生産は約320兆円である。これをその年の為替レートである1ドル238円で計算すると、1兆3千億ドルである。ところが翌86年の国内総生産の約340兆円を、その年の為替レートである1ドル168円で計算すると、なんと2兆ドルになる。つまり円で計算すると6.3%の成長率が、ドルで計算すると53.8%という驚異的な成長率となる。

 このようにしてドルで計算した日本の国内総生産の規模は、プラザ合意のおかげで、1980年代の後半期に一挙にアメリカに次ぐ世界第2位にのし上った。この経済規模の拡大に伴うドル資金の伸びが、日本の場合、健全な消費と投資の伸びにつながらず、不動産と証券市場に一挙になだれ込み、恐るべき見かけの好況を作り出した。
 しかもこの見かけの好況に幻惑されて、日本国民は世界一の経済大国になったような錯覚にとらわれた。これが「バブル」である。それは驚異的な株価と地価に現れた。

 日本の証券取引所が取り扱う株式の時価総額は、1985年にはニューヨークのほぼ半分にすぎない規模であった。それが1987-90年のわずか3年のあいだいにニューヨークを抜いて世界一の規模に拡大した。この間の日本の株価の上昇も驚嘆すべきものであった。1985年末に13,113円であった東証日経平均株価は、わずか4年後の89年末には約3倍の38,916円に高騰した。

 この株高を背景に、従来は銀行の融資を受ける間接金融の方式をとってきた日本の企業が、株式市場から資金を調達する直接金融の方式に転換をはじめた。このことが銀行の危機感を刺激して、銀行は高騰する地価を背景に土地の担保や好景気に沸くゼネコンの連帯保証などがあれば、あまり事業計画のリスクを検討せずに資金を貸し出すようになった。そしてこの次々に発表される事業計画が、また新しい企業の株高を演出した。

 日本の地価の上昇は、更に異常であった。日本が世界の金融センターになるという思惑から、列島改造論による上昇以降、横這いを続けてきた東京の商業地の地価は、1986年からその上昇率が2桁になり、87年には48.2%、88年には61.1%という異常な伸びを示した。 「平成」に入ると、東京の商業地の地価指数は83年の4倍近くまで上昇する事態となった。この東京から始まった地価暴騰は、大阪、名古屋、その他の地方各地に拡大し、全国的な地価暴騰となった。この地価の暴騰には、中曽根内閣が公共的プロジェクトへの民間活力の利用、いわゆる「民活」の名をもって進められた第三セクターによる巨大プロジェクトの推進が、そのムードを盛り上げるのに多大な貢献をした。




 
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