(2)「倭国」の時代―初代天皇は崇神天皇か?
●「倭」から「日本」へ−新日本国号考
いま「日本国」が外国から「ジャパン」と呼ばれるように、昔の日本は「倭」と呼ばれていた。しかし「倭」も「い」か「な」か「ヤマト」か、どうもよく分らない。いわんや古代に日本人自身が、「日本国」のことを「にほん」とは呼ばなかったとすると、日本は、まことにミステリーに溢れた国である。
720年に成立した日本の正史「日本書紀」は、今では、「ニホン書紀」と呼ばれているが、当時、その表題は「ニホン書紀」でも「ニッポン書紀」でもなく、「やまと ふみ」と呼ばれた。「倭」も「日本」も、音読では「やまと」になる。
▲「倭」と「倭人」―それは差別用語であった!
日本人は、昔、「倭人」と呼ばれていた。「倭人」とは背の低い人間を意味し、いわば差別用語である。
当時のアジアの中心は中国にあった。秦の始皇帝時代の土偶に見られる中国の兵士の体型は、実に立派である。彼らからは、古代の辺境の地である朝鮮や日本に住む人々は小さく、「倭人」に見えたことであろう。
当時の日本列島は、地理的には中国の東北部のそのまた先にある朝鮮半島の、そのまた先の大海の彼方にあり、もはや実感では捉えられない地の果てにあった。
「倭」の国といえば、我々は当然、現在の「日本」をさすものと思っているが、古代の中国人から見た「倭」の国は、朝鮮半島の南部から東に連なる日本列島の島々のすべてが「倭」の国であり、そのかなり広い範囲が「倭人」の活躍地域であった。
つまり「倭人」は、必ずしも現在いう「日本人」とは限らなかった。
「旧唐書列伝」の「東夷」の項を見ていたら面白い記事があった。そこでは、「日本国は、倭国の別種であり、その国は太陽の昇るほうにあるので、その名がある。一説には、倭国という名前がいやで日本と名前を変えたとも言われる。また一説には、日本はもともと小国なので倭国を合わせたともいわれる。・・・日本は日向国をさすようであり、倭国は実は大和国をさしていた。」云々。(『異称日本伝』巻上二、所収―原漢文)と書かれている。
この話は、中国では有名なようであり、いろいろな中国の史料に現われる。
日本についての最も古い記述は、後漢書・東夷列伝の中の西暦57年にある。
そこでは倭の奴国の使者が後漢に朝貢して、光武帝から印綬を賜わったとある。
福岡県糠屋郡志賀島村から「漢委奴国王」の金印が出土しており、史料の裏付けを持つ日本の歴史はここから始まる。
1960年代末?に、自然科学の専門誌「自然」に日本人の血液型の分布に関する興味ある論文が掲載された。
それによると、特に血液型でA型の頻度の多い地域は、南朝鮮、北九州、出雲、吉備と近畿地方であった。調査は現代であるが、統計の示した結果は、まさに古代史の世界である!
●ミステリアスな崇神天皇―日本の初代天皇か?
正史が語る日本の第10代崇神天皇は、いろいろと謎の多い天皇である。
ナゾの第一は、天皇の名前が日本の初代・神武天皇と同じ「ハツクニシラススメラミコト」と呼ばれることである。その名は「初めて日本国を治めた天皇」という意味であり、日本には初代天皇が2人いることになる。
しかし神武天皇は、業績の華々しさにくらべて実態の裏づけが乏しく、さらに、神武に続く9人の天皇は実態が殆どない。そのため「闕史時代」と呼ばれていることから、日本に実在した初代天皇を崇神天皇とする説すらある。
さらに不思議なことは、神武天皇の即位元年は「ハツクニシラススメラミコト」の第1年であるが、崇神天皇が「ハツクニシラススメラミコト」になるのは、なんと、12年9月になってからである。
しかし部族の王から統一ヤマト国家の天皇になったのが12年であったとすれば、逆に統一国家・大和政権の初代天皇を崇神天皇とする説のほうが、現実感が出てくるようにも思われる。
しかし崇神天皇は、神武天皇のように華々しい業績がある天皇ではない。
そこで私見から述べると、崇神天皇以前の大和の部族王朝は葛城王朝であった。それが崇神天皇の代に三輪王朝に代わった。
そして同時に三輪族=ミマ族?という部族国家の王から統一大和国家の初代天皇になったのがこの崇神天皇であった、と思われる。
三輪王朝は、出雲王朝と同じく朝鮮からの渡来王朝である。
三輪王朝は、大物主神(大国主神の和魂:ニギタマ)を祖神として、出雲の大国主神(アラタマ)を祖神とする出雲王朝と一線を画してきた勢力である。
それが崇神天皇になって、従来、大和国家の内部の2大勢力として鋭く対立してきたアマテラス系とイズモ系の神々を、分離して祭祀することに成功した。
その説話が、崇神天皇6-7年紀におけるアマテラス神とオオクニタマの神の祭祀分離の話である。この古代の2大勢力の分離の成功により、崇神天皇は大田田根子をして、はれて祖神・大三輪の神を祭ることができた。
このように大和国家の統合に成功した崇神天皇は、10年に4道将軍を派遣して全国の統一・制覇に乗り出した。それが終了したのが11年である。
そこで翌12年に、崇神天皇は大和国家が見事に治まったことを確認して「ハツクニシラススメラミコト」になった、とすると話のつじつまが大変合ってくる。
●崇神天皇と任那―日本の国際進出?のはじまり
崇神天皇のさらなるナゾは、朝鮮の任那にからむ国際問題にある。戦前・戦後を通じて、日本と朝鮮の歴史認識において最も鋭く対立した問題の一つは、「任那日本府」の存在であった。その最初のかかわりは崇神天皇から始まる。
まず南朝鮮にあった「任那国」と「日本府」について簡単に説明する。
私の手元にある角川・第二版「日本史辞典」高柳光寿・竹内理三編を見ると、「任那日本府」が次のように記されている。
「古代には、「ヤマトノミコトモチ」(倭宰)といった。「日本書紀」によると、5世紀−6世紀中ごろ朝鮮の任那におかれた日本の出先機関で、任那諸国のほか百済・新羅なども支配。562年に任那が新羅に併合されるまで存続したという。
明治以降、朝鮮総督府に近似するものとして理解する傾向が強かったが、日本府の語は「日本書紀」にしか見えず、その存在が疑問視されている。」
この解説を読むと「任那日本府」は、古代日本による朝鮮支配の出先機関であり、その機関を通じて古代日本は「任那諸国のほか百済・新羅まで支配」したことになる。しかし当時、まだ統一国家さえ出来上がっていなかった「日本」が、百済、新羅などを支配し、「日本府」という統治機関まで朝鮮にもつことは考え難い。
そのため「任那日本府」に関する日本と朝鮮の歴史学者の見解は、従来、真っ向から対立してきた。
この任那と日本の関わりの発端が崇神天皇にある。その初出は、日本書紀の崇神天皇65年秋7月の条である。そこでは「65年秋7月に、任那国が、王子・蘇那曷叱知(ソナカシチ)を遣して、朝貢してきた。任那国は筑紫を去ること2千余里、北の海をへだてて新羅の西南の隅にある」とある。
日本が「任那」と呼ぶ国は、朝鮮では「加羅」と呼ばれていた。
「加羅国」は、朝鮮慶尚道南端の洛東江付近に位置し、「魏志」などには「狗邪韓国」という名で登場する古い国である。高句麗の広開土王碑文には、両者を合わせて「任那加羅」と書かれており、その実在性は確認されている。
その任那国が崇神天皇のときに朝貢してきた。
その朝貢の後日談は、崇神に続く垂仁天皇2年の条にある。朝貢の使者を務めた加羅の王子・ソナカシチが、故郷の任那へ帰ると言い出した。彼は朝貢後、そのまま日本に滞在していたようである。
そこで日本国はソナカシチを厚く褒賞して、任那王への贈り物を持たせて帰した。ところが途中で新羅人がこれを奪ったため、新羅と任那の抗争が始まった、とされている。
任那国が日本に要請してきた内容については垂仁天皇の2年にある。
そこでは崇神天皇の時代に大加羅国の王子・都怒我阿羅斯等(つぬがあらひと)が崇神天皇をたよって帰化をすべく来日した。ところが途中、道を間違えて、到着したときに既に天皇は亡くなっていた。
垂仁天皇は、すでに崇神天皇が亡き今、ツヌガアラヒトに帰国意思の有無を尋ねると、帰国したいといった。そこで垂仁天皇は、帰国したら故帝の御名である「みまきの天皇」の名前を国の名とせよ、といって赤絹を土産に帰国させた。そこから大加羅国は、任那国となった、と国名の起源が記載されている。
さらに「新撰姓氏録」の「左京皇別下」の中に、「任那日本府」の内容についての話が記されている。それによると、崇神天皇の時代に任那国は新羅との抗争で国の統治がうまくできない。そこで日本の崇神天皇に軍を出してもらって、この地を治めてもらえたら、すぐに任那国は『貴国之部』になるという申し入れをした。
そこで天皇は喜んで、群卿に勅を出して、派遣する人を奏上させた。
その結果、勇猛果敢な塩乗津彦尊を鎮守に派遣することになった、という記事である。しかも後世の「続日本後記」の仁明天皇の条で塩乗津彦尊が実在していたことは確認されている。
これらの記事には、崇神天皇と任那を強引に説話で結び付けようとする作為が強く感じられる。また、そのことから崇神天皇が、逆にもともと任那=加羅に密接な関わりを持つ天皇ではなかったか、とも感じさせられるのである。
崇神天皇の正式な名前は、「御間城入彦」(ミマキイリヒコ)である。「ミマ」から入り「来」(イリキ)たった「ヒコ」(=貴人)である。
その上、崇神天皇の皇妃の名は、なんと御間城姫(ミマキヒメ)=ミマから来た姫君である。
つまり、この天皇・皇后の呼び名の「ミマキ」は「任来」であり、天皇も皇后も、「任那から入り来たった人」と読めるのである。
三輪王朝は、出雲王朝と並ぶ朝鮮に関わりのある渡来系の王朝である。このことから三輪王朝の朝鮮における出自が加羅=任那であったことが想像されるのである。「ミワ」と「ミマ」が似ていることも気になるし、朝鮮の正史である「三国史記」に「任那」という名前が殆ど出てこないことも気になる。そのくせ高句麗の広開土王碑文には「任那加羅」(=任那の加羅国)と記述されていることも気になる。
崇神天皇は、その後、治山、治水の事業を起こし、農業を盛んにし、その名声は朝鮮半島まで伝わった。それが朝鮮最南端の加羅国からの朝貢になったという説話が、日本書紀に記載されている。しかし実際は、全く逆の関係があったのではないかと思われるのである。
崇神天皇の時代(3世紀末?)から設営された「任那日本府」は、欽明天皇23(562)年、任那の国々で最後に残った10国が新羅の攻撃をうけて滅びた。
しかしその後も、日本の朝廷は、長い間、任那再興の努力を続ける。
それは失われた植民地の復活というよりは、先祖の聖地復活への執念のように私には感じられるのである! 日本の創世記は、ミステリーに溢れている!
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