アラキ ラボ
日本人の思想とこころ
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1.死の予感

11.仏教伝来のナゾ
12.インド仏教の成立

13.陽明学を体系的に理論化した?西田哲学
(1)西田哲学と陽明学
(2)西田幾多郎と西田哲学
(3)「日本文化の問題」―西田哲学の後期思想

14.明治の新思想 ―儒学からキリスト教へ
 
  13.陽明学を体系的に理論化した?西田哲学

(1)西田哲学と陽明学
●何故、「西田哲学」を取り上げるか?
 
前回の「インド仏教の成立」を書いていたある日の明け方、私は夢現の中でぼんやりと次のテーマを考えていた。そのとき、不意に難解な西田哲学の本を抱いて米艦に突入していった特攻隊員のことが、まざまざと思い出されてきた。
 後期・西田哲学における「絶対矛盾的自己同一」という言葉は、まさに特攻隊で代表される戦争末期の日本人にふさわしい言葉ではなかったのか?という考え方が急に私の心の中にこみ上げてきた。

 国家政策の「一」と国民の考えの「多」との間に、「絶対的矛盾」が存在するなどということは、当時の誰も口に出来る言葉ではない。しかし、実際には戦争の末期、国家と国民感情の間には、明らかに深刻な「絶対的な矛盾」が生じていた。
 しかしその矛盾は日本人である以上、軽々しく口にすることはできないし、それを自分の中で克服して黙々と戦争に協力するしかなかった。それがまさに西田哲学のいう「絶対矛盾的自己同一」そのものであったのではないか!

 太平洋戦争に突入した頃、このようなことを分かりやすい言葉で語ったら、それは只ではすまない重大事である。直ちに特高警察に逮捕されたであろう。
 しかしこの真実な言葉は、難解な西田哲学の中で純粋な理論として堂々と語られていた。そしてそれが世の中に共感を持って通用していたことに気がついた。
 戦前から戦後の初期に教育を受けた日本人は、中学、高校、大学を通じて、「善の研究」を始めとする西田幾多郎の著作のいくつかを読んでいない人はいないであろう。
 殆ど理解不能なほど難解な言葉が並ぶ西田幾多郎の著作が、それほど多くの人々に読まれたことは、考えてみればフシギなことである。その秘密は、実はこの矛盾への共感にあったのではないかと私は思った。

 特に当時の若者の西田哲学への傾倒は、文学における夏目漱石へのそれに似ていた。ちなみに、漱石の生年は1867年、西田の生年は1870年であり、漱石は西田より3歳年長の同世代人である。
 しかし漱石の「坊ちゃん」や「我輩は猫である」などの読みやすさに比べて、西田の「善の研究」に代表される著作は、その難解度において比較にならないほど難しい。
 そのような西田の作品が、漱石なみに学生に読まれたことは、考えてみれば異常なことであったといえるその西田哲学への共感とは、何であったのか?

 西田幾多郎が亡くなったのは、敗戦直前の1945年6月のことである。そして敗戦直後の1947年7月から1953年7月にかけて、岩波書店から西田幾多郎全集が刊行された。当時は、殆どの国民は食うや食わずの飢餓状態にあり、その上、出版書籍の用紙の確保も非常に難しい状態にあった。
 そのような中、西田の全集が刊行されて、それを求める人々は、発売3日前から出版社の前に泊まりこみの行列を作った。このようなことは、考えてみるとまさに異常なことである。(日本の名著47「西田幾多郎」年表、471頁)

 私が大学に入学した1951年には、既に哲学の主流はマルクス系の唯物論に大きく移りつつあった。それでもなお西田幾多郎の「善の研究」などは、学生の必読書の筆頭に上げられていた。そして私も1950年代の初めにそれを読み、難解な「純粋経験」の箇所を理解しようと四苦八苦したことは、今もって鮮烈な記憶として残っている。

●「西田哲学」と陽明学
 今回、「善の研究」を始めとする西田の著作のいくつかを読み返してみて、西田哲学の大きな業績は、実は「陽明学」における「致良知」の体系的理論化と「知行合一」にあったのでは?と私は考えるようになった。
 そしてさらに、戦争末期から敗戦後にかけての精神的に追い詰められた時期、若者に共感を齎した「絶対矛盾的自己同一」の考え方も、「知行合一」を謳う陽明学の行動理論にあったのではないかとも考えるようになった。

 このように西田哲学の基本が「陽明学」であるとする指摘は、私が急に思いついたものではない。既に過去に多くの人々によりなされているものである。たとえば、西田幾多郎と同年代の漢学の泰斗・狩野直喜は、西田の死の翌年、「哲学研究」(1946)に発表した「西田幾多郎君の憶い出」という追悼文に、次のように書いている。

 「西田哲学というものは難しいものだそうだが、西洋のものを理解するだけではなく、自分で哲学を編み出したのは、西洋哲学を基礎としこれに儒学や諸子学の知識を加えた事が、西田哲学を編むに大いに役立ったのではあるまいかと私は思う。ある私の友人が君の「善の研究」を読み「あれは陽明学だ」といったことがある。そう簡単には片付けられぬと思うが、君は又禅をやった人である。(狩野直喜「読書纂餘」みすず書房、193頁)

 西田哲学と陽明学の相関を指摘する哲学者は、竹内良知、下村寅次郎、安岡正篤をはじめ数多いが、西田幾多郎自身は直接的にはその間に詳しい経過を残していない。しかし西田の高弟である下村寅次郎は、著書に中で「善の研究」の執筆時に、西田の日記や手紙などに王陽明の影響がいろいろ見られることを語っている。たとえば明治40年1月の日記「餘記欄」には、王陽明の次の詩が掲載されていた。(西田幾多郎全集:第17巻)

(原文)
人々自有定盤針 萬花根源総在心 却笑従前顚倒見 枝々葉々外頭尋 
無声無臭独知時 此是乾坤萬有基 抛却自家無尽蔵 沿門持鉢効貧児
人々皆有通天路
(読み下し文)
人々自から定盤針あり、萬花の根源は総て心に在り、却って従前顚倒を見、枝々葉々外頭に尋ぬるを笑う。無声無臭独知の時、此れは是れ乾坤萬有の基、自家の無尽蔵を抛却して、門に沿い鉢を持って貧児に效う、人々は皆天に通う路あり。 
(翻訳文)
人々はめいめい羅針盤を持っており、万物の根元はすべて心にある。良知を発見できなかった以前には、物事の枝葉末節を見て、常に外部に心をとらわれていた。「詩経」の大雅文王の編に「上天のことは、きくべき声も無く、かぐべき臭いも無いが、しかし天下は自然に感化されている」とある。これこそが良知であり、天地万物の根元である。しかしその良知に気づかない者たちは、自分の無尽蔵の宝である良知を投げ捨てて、貧しい子が家ごとに物乞いをしているような有様である」
(「陽明学体系第3巻、王陽明(下)、明徳出版社」

 陽明学については、このwebの前章で取り上げたが、まさにその本質を見事に活写した詩といえる。朱子学が「近思録」のなかで、北宋の儒学をまとめて体系化してそれを理論として作ったのに対して、陽明学は「致良知」(人の心には考えなくても、知っている「良知」が具えられているとする王陽明の説)を中心にした朱子学の見直しに過ぎず、自らの理論の体系化には至らなかった。
 しかし西田の「善の研究」は、「良知」の実在論から説き起こして、「良知」の哲学的な体系化、つまり陽明学を哲学体系としてまとめたものと見ることができる。
 この観点から「善の研究」を見直してみると、非常に面白い。

 さらに、後期・西田哲学を代表する概念が「絶対矛盾的自己同一」であり、これは1938年に「日本文化の問題」として発表されたものが中心になっている。そしてこれは「知行合一」を理論化した概念のように、私には思われる。
 とすると、前期の作品である「善の研究」と後期の「日本文化の問題」によって、陽明学の全体系の理論化が行なわれたことになる。
 その観点から西田幾多郎の著書を読み直してみようというのが、本稿の目的である。






 
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