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(2)西田幾多郎と西田哲学

●生い立ちと生涯
 西田幾多郎は、1870(明治3)年、石川県河北郡の庄屋の家に生まれた。
 西田の学問的経歴は、講壇派の哲学者としては、珍しく大変に複雑で紆余曲折を経ている。そしてそのことが、一見西欧的な流行哲学の流れに沿いながらも、その実、東洋的な禅と陽明学の体系的理論化という道をとらせた動機のように思われる。

 1883(明治16)年、一家で金沢に移り、石川県師範学校に入学した。井口孟篤に漢学、上山小三郎に数学を学び、翌年、チフスのため退校。1886(明治19)年から北条時敬について数学を学び、1888年第四高等中学(後の第四高等学校)に入学するが、90年に中途退学する。
 翌1891年9月、帝国大学文科大学(のちの東大文学部)哲学科選科に入学し、哲学を井上哲次郎、プッセ、ケーベルに学ぶ。井上哲次郎は、日本の儒学の全貌を大著にまとめた哲学者である。

 1894年、日清戦争開戦の年に帝大選科を卒業し、翌95年、金沢に移り、中学校の教諭になり、更に、96年から第四高等学校の講師となる。この頃、参禅への関心が高まり、各地の禅師を尋ねる一方、妻との離婚と復縁、四高講師の辞任、長男誕生、父の死などに遭遇し、公私共に大変な経験をした時期であったことが推察される。

 1899(明治32)年(30歳)、第四高等学校教授に復職、金沢に居を定め、金沢郊外の臥竜山の雲門禅師について参禅、以後、主としてこの師につき、1901年、寸心居士の号を受ける。「善の研究」は、四高の講義録が中心になり、明治30-40年代にかけて10年の歳月をかけ、最終的に1911(明治44)年に著書として纏められ、弘道館から出版された。

 西田は1913(大正2)年、京都帝国大学文科大学教授となり、心理学、哲学を担当し、文学博士として講壇派の主流を歩み、その後の「京都学派」の基を作った。
 1928(昭和3)年、京都帝大を定年退職した後、文筆活動に入る。西田の著作は、その後もいくつか出版されているが、「善の研究」を除いては殆どすべて哲学論集の形をとっている。
 内容的に後期の著作を代表するものとして、ここでは1940(昭和15)年に岩波書店から出版された「日本文化の問題」を取り上げてみたい。
 敗戦直前の1945(昭和20)年6月、鎌倉姥が谷の自宅で死去、享年76歳であった。

●「善の研究」 ―西田哲学の初期思想
 善の研究は、(1)純粋経験、(2)実在、(3)善、(4)宗教の4編から構成されている。明治30-40年代に約10年の歳月をかけてつくられたこの著作は、最初に(2)、(3)が作られ、次に(1)、(4)という順序でつくられたといわれる。
 そこでまず「実在」編をみると、「疑うにも疑いようの無い直接的知識」として、「直覚的経験の事実すなわち意識現象についての知識あるのみ」と記されている。
 つまり実在するものは、「その間には主観と客観を分けることもできず、事実と認識の間には一豪の間隙もない。真に疑うに疑いようのないものである」。

 ▲実在論
 それが第1編の「純粋経験」であり、「善の研究」の冒頭に詳しく述べられている。つまり同書では、唯一、実在するものは「意識現象すなわち直接経験の事実」あるのみと考えられている。
 その意味では「われわれの身体もやはり自己の意識現象の一部にすぎない。意識が身体の中にあるのではなく、身体はかえって自己の意識の中にあるのである。その意味では、意識現象と物体現象と2種の経験的事実があるのではなく、意識現象が存在するだけである。」
 陽明学における「心」を西田の「自己の意識現象」に置き換えてみると、その構造はここで見事に一致していることが分かる。

 われわれがまだなんらの細工を加えない直接の実在を考えてみると、それが「純粋経験の事実」であり、そこにはまだ主客の分離も無く、知情意の分離もない。単に独立自全の純活動があるのみである。
 このような主客が未分離である独立自全の真実在は、知情意を一にしたものであり、具体的事実ではなく抽象概念となる。

 真実在の成立は、全体がimplicit(含蓄的)に現われ、それから内容が分化発展する形をとり、その分化発展が終わったとき、実在の全体が実現され完成する形をとる。たとえば一文章を意識の上に想起するとき、主語が意識の上に現れるとき、既に、全文章を暗にふくんでいる。そして客語があらわれてくるとき、その内容が実現発展させられるのである。

 我々が経験する事実はいろいろあるが、考えてみると、皆同一の実在であり、同一の方式により成り立っている。つまり実在の成立にはその根底に統一というものが必要であり、同時に、相互の反対むしろ矛盾というものが必要になる。元来、矛盾と統一は同一の事柄を両面から見た物に過ぎない。実在の根本的方式は一とともに多、多とともに一であり、独立自在の真実在はいつもこの方式を備えており、実在は自分に対して一の体系をなしている。

 意識活動は、或る範囲において統一によって成立するものであるが、意識現象のほうは時々刻々移り行くものであり、同一の意識が再び起こることは無い。意識の根底にある不変の統一力は、いかなる形で存在するかを考えてみると、意識内容の直接の結合という統一作用が根本的事実である。つまり個人の意識が昨日と今日と結合されて、一実在をなすように、他人との間にも普遍的な社会精神のようなものがある。

 意識現象が唯一の実在とする考え方からすると、宇宙万象の根底には唯一の統一力があり、万物は同一の実在の発現したものといえる。ただ実在は統一の裏に対立を含んでおり、一の実在には必ずこれに対する他の実在がある。この統一と対立により、無限の統一に進む。これが実在の分化発展であり、意識現象のなかでは、理想と現実の対立と発展の中にみることができる。

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 「善の研究」は、第3編の冒頭において、人はなにをなすべきか?から倫理学の諸説の紹介に入る。しかしここでは前章の「実在」を踏まえて、「善」とは何か? まで少し飛ぶことにする。第11章 善行為の動機(善の形式)は、その冒頭から非常に重要な記述が登場する。

 「善とは自己の内面的欲求を満足するものをいうので、自己の最大なる要求とは意識の根本的統一力すなわち人格の要求であるから、これを満足すること即ち人格の実現というのが、我々にとって絶対的善である。
 しかしてこの人格の要求とは、意識の統一的力であるとともに、実在の根底における無限なる統一力の発現である。われわれの人格を実現するというは、この力に合一するの謂いである。善はかくのごときものであるとすれば、これより善行為とはいかなる行為であるかを定めることが出来ると思う。」
 ここの記述は、陽明学を少し知る人であれば、王陽明の「致良知」を見事に現代哲学の言葉で説明した理論であることが分かる。

 この考え方からすると、善行為とはすべて人格を目的とした行為である。つまり善行とは、自己の内面的必然から起こる行為であり、全人格の要求はまさにわれわれが思慮分別せざる直接経験の状態においてのみ自覚することが出来る。
 これこそまさに王陽明がいう「致良知」ではないか!と私は思う。さらに西田は謂う。
 「主客相没し物我相忘れ、天地唯一実在の活動あるのみになるにいたって、はじめて善行の極致に達するのである。」ここにいたると、陽明学の教科書を読んでいるのと錯覚するほどの言葉である。

 では善行為とは何か? 西田によれば「善とは一言でいえば人格の実現である。これを内から見れば、真摯なる要求の満足、すなわち意識統一であって、その極は自他相忘れ、主客相没するというところにいたらねばならぬ。外に現れた事実としてみれば、小は個人性の発展より、進んで人類一般の統一的発達に至ってその頂点に達するのである。」(完全なる善行)

 さらに、「自己は実在の或る特殊なる小体系といってもよい。仏教の根本思想であるように、自己と宇宙は同一の根底をもっている。いな直ちに同一物である。このゆえにわれわれは自己の心内において、知識では無限の真理として、感情では無限の美として、意思では無限の善として、みな実在無限の意義を感じることができるのである。
 われわれが実在を知るというのは、自己の外の物を知るのではない。自己自身を知るのである。実在の真善美は直に自己の真善美でなければならぬ。」(同上)
 私にはここで陽明学の理論の見事な解説がなされているように見えるが、いかがであろうか!

 「善の研究」では、上記の2篇に、さらに(1)純粋経験と(4)宗教が加えられて著書として完成するわけであるが、私がここで言おうとするところは、以上の2篇で十二分に足りるものであり、以下、省略して西田哲学の後期の見解に移る。







 
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