(3)「日本文化の問題」 ―西田哲学の後期思想
ここでは詳しく取り上げなかったが、「善の研究」の冒頭の「純粋経験」の中で、後期思想の萌芽が既に明確に現われていた。それは、たとえばなにも分からない嬰児の意識と宗教家や芸術家などの三昧の意識は雲泥の差があるにも拘わらず、主客未分離の段階では同じ概念でとらえるという考え方である。
つまり全く異なり互いに矛盾する2者が、実は全く同一であるという西田哲学の根本思想は、既に出発点である初期段階から存在していたのである。
●絶対矛盾的自己同一と日本文化
後期西田哲学において、全く異なるものが実は全く同一であるという根本思想の1つが、「絶対矛盾の自己同一」という概念となって現われてくる。それは1940(昭和15)年に発表された「日本文化の問題」のなかに、かなり詳しく語られている。
たとえば西田は次のように書いている。
「我々が此処に生まれ、此処に働き、此処に死に行く、この歴史的現実の世界は、論理的には多と一との矛盾的自己同一というべきものでなければならない。私は多年の思索の結果、斯く考えるに至ったのである」(「哲学論文集第3」矛盾的自己同一)
つまり世界は、無数の物の集合であるが、唯一的に決定せられたこの現実世界の形は、無数の物と物とが相働くことにより決定されるものである。物と物とが相働くということは、物と物とが対立するものでなければならない。ここでは一は多の一であり、多は一の多である。多と一との矛盾的自己同一として現実の世界が考えられる所以はここにある。(2)
この現実の世界は、時間的・空間的である。空間的というのは、物と物とが何処までも並列的に相対立することであり、時間的ということは、対立する物と物とが一つとなっていくことである。時とは何処までも相対立するものの統一の形式である。(2)
歴史的現実の世界とは、全体的一と個別的多との矛盾的自己同一として、主体が環境を環境が主体を形成し、作られたものから作るものへと、何処までも自己矛盾的に動き往く世界、すなわち自己自身を形成していく世界である。実世界の法則と考えられるものは、かかる世界の自己形成の法則という性質を持ったものでなければならない。そこには発展の法則と生起の法則が一である。目的因と動力因が一つと考えられるのである。(3)
矛盾的自己同一的世界は、自己矛盾的に自己自身を限定していく世界であり、歴史的世界が作られたものから作るものへと自己を形成していく過程である。つまり動物が人間に進化したといっても、人間が動物でなくなるわけではない。人間も動物も創造物であり、衆生である。但し人間は、作られたものから作るものへいう歴史的生命の極致に立つものである。(4)
人間の社会は個物的多と全体的一との矛盾的自己同一として、種が生きることにより個が生き、個が生きることによって種が生き、作られたものから作るものへとして自己自身を維持していく、かく絶対矛盾的自己同一的世界の種として、自己自身を形成する種的形成、すなわち人間形成が、文化というものである。(4)
上掲の文章は非常に抽象的な表現であるが、太平洋戦争直前の、歴史的世界としての日本の立場と、その中に生きる日本人の矛盾した世界が、作られたものから作るものへと自己形成していく過程をかなり明確に読み取ることが出来る。
その現実的な西田の記述は、次の(5)に現われる。
近時、わが国には全体主義と個人主義との対立が唱えられる。西洋は個人主義、東洋は全体主義と無造作に分けられ、全体主義はフアッショ、ナチスに類せられる。わが国の立場は、皇道というが、其れは信念や感情であって、ただ歴史的事実を述べるにすぎず、明確な概念的内容が明らかではない。
何千年来皇室を中心として生生発展して来たったわが国文化は、全体的一と個別的多との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへとどこまでも作るということにあったのではないか?(5)
全体的一としての歴史的主体はいろいろ変ったが、皇室はこれらの主体的なるものを超越して、主体的一と個別的多との矛盾的自己同一としての自己自身を、限定する立場の位置にあった。わが国は、何時の時代でも社会の背後に皇室があった。わが国の歴史において、皇室はどこまでも無の有であった。(象徴的天皇制のことか?-荒木)
わが国の歴史において、主体的なるものは、万世不易の皇室を時間的・空間的なる場所として、これに包まれた。皇室は時間的に世界であった。日本歴史は、世界歴史の縮図とも考えられる。わが日本民族の思想の根底となったものは、歴史的世界の自己形成の原理であったと思う。(5)
西田にしては珍しく、上掲の(5)のなかでは、日本と世界の歴史観をかなり具体的に述べている。ただこの著書が書かれた昭和15年は、紀元2600年祭にわく大日本帝国の最高揚期である。これから5年後に西田は亡くなり、大日本帝国も亡びるが、その時点での西田の絶対矛盾的自己同一に関する見解が聞きたいものである。
●太平洋戦争末期における絶対矛盾的自己同一
「日本文化の問題」が発表される前年に発表された「哲学論文集第三」の第三論文に、「絶対矛盾的自己同一」という論稿がある。そこには上述の日本文化の観点を、さらに詳細に哲学論文として述べている。それは哲学論文としては詳細であるが、論点としては特に前章で述べた内容をこえるものではない。
私は西田哲学が、陽明学における「致良知」の思想を見事に体系的に理論化したものとして捉えてきた。これに対して理論と実践を総合した理論が加われば、陽明学は朱子学に対して独立した理論体系として確立することになる。この点が弱いことから、たとえば丸山真男から、陽明学は朱子学へ依存する従属的なものと評価されたわけである。
西田哲学が、そのことを意識していたかどうかは全く分からない。しかし後期西田哲学における「絶対矛盾的自己同一」という概念は、陽明学における「知行合一」に対応する概念であると私は勝手に考えていた。
そのことは、西田により絶対矛盾的自己同一が説かれた時代を考えればよく分かる。つまり「日本文化の問題」が発表された翌年には、日本は世界を相手にした太平洋戦争に突入したのである。
そのため当時の私たち国民は、否応なしにその戦争に自分の生死をかけての協力を逼られることになった。この場合、日本国家、つまり全体的一としての歴史的主体一に対して、国民という個別的多は否応無く対応することになったわけである。
それはまさに絶対矛盾的自己同一であり、陽明学でいえば、個別的多はそこでの「知行合一」に逼られることになる。
戦争末期の特攻隊に配属された学徒兵のことを考えて頂きたい。そこで個別的多としての学徒兵は、国家により米艦に突入して死ぬことを強制的に運命づけられた。この場合、個別的多の心情や思想は無関係であり、それはまさに絶対矛盾的自己同一である。
この場合の「知行合一」について、西田哲学は全く語らず、沈黙している。それは一体何であろうか?
西田が「日本文化の問題」を発表した後の日本社会は、明らかに西田がいうのと逆の方向に動いた。例えば、西田の言葉によれば「人間の社会は個物的多と全体的一との矛盾的自己同一として、種が生きることにより個が生き、個が生きることによって種が生き、作られたものから作るものへとして自己自身を維持していく、かく絶対矛盾的自己同一的世界の種として、自己自身を形成する種的形成、すなわち人間形成が、文化という」ことになる。
しかし現実にそこで起こったことは、個物的多と全体的一との矛盾的自己同一として、種が生きるために、個が殺され、個が殺されることによって種も亡びることになったわけである。そのため作られたものから作るものへとして自己自身を維持していくことはできず、かく絶対矛盾的自己同一的世界の種として、自己自身を形成する種的形成、すなわち人間形成が失われ、その結果として日本文化が失われるということになった。
桶谷秀昭「昭和精神史」に、西田が口を閉ざしている明治以降の近代天皇制について、次のような興味深い指摘をしている。
「近代天皇体制は歴史における『主体的』なるものであり、主体的なるものは歴史的世界において、時間的・空間的な『場所』に包まれて存在する、というのが西田の論理であった。近代天皇体制は、歴史的世界において、有から無へと『矛盾的自己同一』において、自己を否定しなければならなかった。主体的なるものは自己を生み出した環境によって亡ぼされるのである。むしろそういうイメージを読み取るほうがその文脈にはふさわしい。」(桶谷秀昭「昭和精神史」文芸春秋、437頁)
「『わが国の歴史においては、主体的なるものは、万世不易の皇室を時間的・空間的なる場所として、これに包まれた』というのが西田の皇室の概念であり、それは主体的なものに矛盾するのである。」(桶谷秀昭「昭和精神史」文芸春秋、437頁)
その結果、「西田が把握した万世一系の概念は、それ自体が矛盾的自己同一であり、ヘーゲル流の『絶対精神』のような超越を否定する、無即有である。」
この本音を明確にしないまま、西田は敗戦の2ヶ月前に亡くなった。そして西田哲学の真の体系的理論化は、難解な文章の影に隠れて、ナゾのまま残されてしまった。
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