(2)秦帝国と始皇帝
●始皇帝以前の秦帝国
秦国は、顓頊(せんぎょく)の子孫とされ、中国西部の陜西(せんせい)省を中心に活躍した国である。舜帝のとき、9官の1人として嬴(えい)氏という姓を賜っていたという伝説がある。
秦の非子という人物は馬が好きで、BC900年頃、周の孝王のために汧水と渭水の間で、馬の繁殖・飼育に成功して認められた。この功績により周王から土地を与えられ、大諸侯付属の小国となり、非子が秦の領主となった。
2代をへて秦仲の時代(BC840-820)に、秦はかなり大きな国になった。続く襄公の代に、周の幽王が犬戎に殺害された(BC771)。このとき、襄公は周を救って功をたてた。そこで周の平王が襄公に岐山以西の土地を領地として与えて諸侯とした。
春秋時代の秦の穆公(ぼくこう)は、中原の覇者である北方の山西省の強国・晋の同盟国となり、晋の文公を助けて晋侯の地位についた。しかし文公が死去した翌BC627年、秦が鄭の国へ侵入したことから晋と不和になり、晋の襄公に敗れて陜西の地に閉じ込められる事になった。
しかしこの穆公の時代に、秦は飛躍的な発展を遂げた。東方では、強国の晋から黄河以西の河西の地を奪い、その領土は黄河の岸まで達した。また西方に向っては、由余のはかりごとに基づいて戎を討ち、12カ国とも20カ国ともいわれる小国を併合し、千里の土地を開き、秦を囲繞する西戎に対してにらみをきかすことになった。
このように穆公は、その業績により、春秋時代に中原の諸侯に号令した5人の諸侯を挙げた「春秋五覇」の1人に挙げられている。(貝塚茂樹、伊藤道治「古代中国」講談社学術文庫、320頁)
戦国時代には、秦の孝公が活躍している。孝公は、BC359年に小国・衛の王族出身の商鞅(しょうおう)を信任した。商鞅(?-BC338)は、法家思想を代表する政治家であり、「商君の変法」と呼ばれる政治改革により、後進国の秦は富国強兵を実現して、強力な中央集権国家に生まれ変わった。
この商君の改革の結果、秦の国力は充実して、それを背景にして秦の東進が始まった。この東進する秦は、山西省の西南部を本拠とする魏以下の6カ国に大きな脅威を与え、これらの国々は強国・秦に対して、戦いか協調かの選択に追い込まれた。
秦は、BC350年に第2回変法を実施し、咸陽(かんよう)に都を移し、県制を実施し、さらに強大になった。そして近い隣国・魏に軍事侵攻し、直接的には国が接しない東の山東省の強国・斉とは和平政策を取った。
これは范睢(はんすい)が立案した遠交近攻策であり、この政策のためBC330年以降、魏をはさんで斉と秦が東西で対立し、さらにそれに南方の楚がからむ勢力関係が形成された。
そのうち次第に秦の勢力が強大化し、東の斉と南の楚を圧倒するようになった。
北方ではBC285年頃、趙が北部の遊牧民を征服して勢力を伸ばしていたが、BC261年頃から趙と秦との間で大激戦が行なわれた末、秦が趙に対して決定的に勝利して、覇権が確立した。BC260年のことである。
BC247年、秦の政(後の始皇帝)が即位する。秦は北の強国・趙に勝利した後、次々に国々を攻略していった。趙に大勝(BC260)、周滅亡(BC256)、韓滅亡(BC230)、趙滅亡(BC228)、魏滅亡(BC225)、楚滅亡(BC223)、燕滅亡(BC222)、斉滅亡(BC221)。
BC221年、秦王・政は最後に残った斉を滅ぼして天下を統一し、自らを始皇帝と称した。そしてそれまでの封建制を廃止し、全国に郡県制を敷き、度量衡・貨幣・文字を統一するなど、古代の統一国家として驚くべき新しい思想・制度を、導入・実現した。
●秦の始皇帝とその時代
秦は中国西部・陜西省の辺境の国であり、歴史の舞台の中心になる河南の国々に対しては後進国である。その辺境の国が中国における最初の統一国家の中心になったとき、驚くべき新しい制度を次々に導入した。
例えば、そこで採用された郡県制度は、日本の場合には、2千年も後の明治維新によって初めて導入された制度である。
それを中国のような巨大な国において、統一国家が出現した最初に封建制度から郡県制度に移行したこと一つをとっても、驚くべきものがあった。
しかも、秦の場合にはそれより前、BC350年に都を咸陽に移したときに、既に県政を施行しており、本格的な郡県制度の実施までに、100年以上の経験を経ていたことに更に驚かされる。
皇帝という新しい称号の採用、朕・詔・制などという皇帝専用語の制定、郡県制の全面的施行、天下の兵器の没収、度量衡・文字の制定など、全く新しい体制を導入した古代国家が、辺境の国の秦から出てきたわけである。
これらの体制や思想の出自は、始皇帝の出生と絡む事が多く、しかも本稿のテーマである「呂氏春秋」とも絡むのでそこから話を始める。
▲始皇帝の出生と宰相・呂不韋
始皇帝の父の荘襄王は、その先代である昭襄王の頃、公子・子楚と呼ばれて、秦の質子(ちし:人質)として趙に送られ、北部・山西省の趙の都・邯鄲(かんたん)に住んでいた。その当時、邯鄲には呂不韋(りょふい)という大商人が住んでいた。彼は河南省・禹県付近の陽翟(ようてき)の人であるが、商用で邯鄲に滞在していた。
当時、中国では春秋末期以降、既に商業が著しく発達しており、戦国時代のこの頃には各地に大商人が活躍していた。呂不韋もこのような大商人の1人であったが、公子・子楚を見て、遠謀をめぐらした。
まず呂不韋は、大金を子楚に与えて名士と交際させ、子楚の評判をあげる事に努力した。大国・秦の公子であっても、質子としての生活は楽ではなかったようである。
趙での評判はやがて本国にも伝えられ、本国でも子楚の評判が上がり、昭襄王の太子の妃である華陽夫人により、秦王国の正嗣とされることになった。
呂不韋は、この公子・子楚に、自分の愛姫を献上した。この女は、邯鄲の豪家の娘で歌舞に優れ、このとき既に呂不韋の子供を身ごもっていたといわれる。この子供が、昭襄王の48年(BC259)正月、子楚の子として誕生し、政と命名された。それが後の始皇帝である。
昭襄王の死後、父の孝文帝が即位して子楚は太子になるが、孝文帝は即位後3日で亡くなり、太子・子楚は荘襄王として即位した。この荘襄王により、呂不韋は功績を認められて、秦国の丞相となる。
ところがこの荘襄王も3年で亡くなり、邯鄲で出生した政が秦国の王位を継いだ。
それはBC247年、政13歳のときであり、呂不韋は相国(=宰相)とされ、10万戸の封邑を与えられて、文信侯と称せられることになった。
秦王国の最高の地位についた文信侯・呂不韋の下には、家僮1万人、食客3千人が集まったといわれる。丁度、この頃、魏には信陵君、楚には春申君、趙には平原君という名宰相がいて、秦の呂不韋と合わせて、4君子と呼ばれた。
これら諸侯の4君の集団には弁士が多く、呂不韋はこれらに対抗して、自分のところに集まった賓客・文化人を総動員して作り上げた大著作が、「呂氏春秋」である。
その成立には、かなり長い期間を要したと思われるが、BC235年頃までには大体出来上がっていたようである。
秦王・政の母太后はかって呂不韋の寵姫であり、彼が相国(宰相)となった後も、その関係は続いていたらしい。この露見をおそれた呂不韋は、嫪毐(ろーあい)という男を宦官と偽って太后につけた。ところが、その男が太后の寵愛を受けて権力を持ち、叛乱を起こした。この乱により、呂不韋は失脚し自殺してしまう。
この「嫪毐の乱」(BC238)は、秦の政治に大きな影響を齎した。呂不韋は自殺し、彼の賓客は他国人であれば追放され、秦国人であれば蜀に配流され、3千人の賓客集団は壊滅した。
▲李斯と法家の思想
嫪毐(ろーあい)の乱が、他国人の賓客によって引き起こされたことから、事件後、他国人をすべて国外に追放するという「逐客令」が発布された。この他国人の排斥令に真っ向から異論を唱えて登場してきたのが、楚からきていた李斯であった。
李斯(りし)は、楚の出身で、「荀子」の著者・荀卿の門に入り、韓非とともに帝王術を学び、儒家の学を捨てて法家の学を信奉し、秦に入り呂不韋の舎人(食客の身分)となり、推されて秦王政の朗官となっていた。
秦王に6国離間策を説き、認められて丞相府の長吏となり、さらに功績により客卿の身分を与えられていた。この経歴からみて、彼自身が「逐客令」の対象になっていたことはたしかである。その李斯が、「逐客令」を真っ向から批判した「逐客論」という上申書を、秦の王朝に提出した。その上申書は、秦王国の過去の隆盛・強大化は、すべて他国人の有為な人材を登用したことによることを立証し、「逐客令」の廃止を求めたものである。
驚くべきことには、始皇帝はこの上申書を受けて直ちに「逐客令」を廃止し、李斯は地位を回復しただけでなく、最高司法官である廷尉に任命され、その後も彼の献策はすべて始皇帝に採用されるところとなった。
つまり嫪毐の乱を境にして、無為自然を尊ぶ相国・呂不韋によっていた秦の政治思想は、李斯の法家主義の思想に大きく転換していった。
法家思想は、君主の権威を万能のものとし、君主が制定した法を最高の権威として統治を行なうものであり、道家の無為自然とか、儒家の仁義孝悌とは、相反する政治方針であった。
始皇帝が皇帝となり、李斯の主張を取り入れて最初に実施した政策が、郡県制の全国的実施であった。これに続いて、新しい政策が次々に行なわれた。それは、民間が保有する兵器没収による民衆の抵抗力の排除、度量衡・貨幣・文字の統一であり、これらとあわせて皇帝による地方巡業が開始された。
BC219年、第2回巡業の途中、秦山の山頂において、鴻業を大成した皇帝が天を祭る、道教の封禅の儀式を行なった。そしてBC215年には、北方の匈奴を攻撃するとともに、その翌年から万里の長城の建設に着手した。
さらにBC212年、万里の長城にならぶ大土木工事である阿呆宮と、陵墓としての驪山(りさん)陵の建設に着手した。この陵墓の一部は1974年、兵馬俑坑として発掘され、世界中の人々を驚かせた。
▲焚書・坑儒(ふんしょ・こうじゅ) ―秦代の「文化大革命」
法家思想により始皇帝から重用された廷尉・李斯は、やがて丞相となった。そしてBC213年に「秦記」以外の書をすべて焼き、古い時代を是とし今の時代を批判するものとその一族を誅殺すべきとする、大変な上申を始皇帝に行なった。
これは呂不韋の政治思想とは正反対の思想であると同時に、道教思想をかなり重視する始皇帝の考え方とも大きく異なっている。かって呂不韋は、呂氏春秋によって過去の中国思想をすべて集大成し、秦の政治に役立てようとした。
これに対して李斯は、過去の思想は、技術のノウハウ以外のすべてを切り捨て、現在に役立つ書物や人物だけ残す大文化革命に乗り出し、これを始皇帝が承認、実施した。
それが有名な焚書・坑儒である(BC213-212)。
これにより中国の古代思想である道教も儒教も、すべて否定されたことになる。ところが、始皇帝自身は、その前から道教的な神仙思想に大きくのめりこんでいた。すでに始皇帝が秦山の山頂において行なった封禅の儀式そのものが、道教的なものである上に、道教的な神仙思想に取り付かれて、BC219年に、徐福に命令して、東方海上の仙島に不死の薬を求めて船出させているほどである。この矛盾をどのように考えたらよいであろうか?
▲徐福伝説と秦族の逃散
史記によると、始皇帝の28年(BC219)、斉人の徐市(じょふつ)という男が、海中に蓬莱、方丈、瀛州という3神山があり、仙人がそこに住んでいるという。我々は身を清めて、けがれなき童男、童女とともに、そこの仙人を求めたい、と始皇帝に言ってきた。
そこで始皇帝は、徐市に童男、童女数千人を送って、海上に仙人を求めさせた。徐市の船はどうも日本に向ったらしいのであるが、その後は、行方しれずになってしまった。
しかし不死の仙薬をもとめたいという始皇帝の願望は強く、BC212年には呂生という方士の不当な申し出まで受けたが、彼らにも逃げられてしまう。これら道教関係の方士たちの策謀は、李斯による法家思想で住みにくくなった秦族の逃散の試みと考えられるし、また彼らに裏切られた始皇帝の怒りが、焚書坑儒になって現れたとも考えられる。
つまり李斯の法家思想による「文化大革命」により、息が詰まる秦帝国から脱出した難民が徐市の船であり、それが日本に漂着して京都周辺に住み着いたのが秦氏ではなかろうか? 聖徳太子の片腕となって活躍した秦河勝は、秦帝国の難民の子孫であったことが考えられる。それらについては、日本人の思想とこころ「8.歴史はミステリー(その3)
-聖徳太子のナゾ」にいろいろ書いている。
始皇帝は、東の海上に求めた不死の薬も入手できないまま、BC210年、5回目の地方巡業の旅に出発した。山東省平原県の平原津に到り発病し、病は重く沙丘の平台で死去した。BC210年7月、50歳であった。遺体は真夏の暑さの中、魚の干物を輿に積んで死臭をごまかしながらようやく咸陽まで帰りつき、皇帝の死が発表された。
2世皇帝の胡亥(こがい)は、全く無能であり国内の行政は破綻し、皇帝即位の翌BC209年から、各地で叛乱が発生した。BC210年、劉王が漢王となり、大漢帝国が成立した。
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