(5)熊野信仰
熊野という土地は、イザナミを葬った場所が「花の岩屋」として現在も残っており、出雲と並ぶ古代からの「黄泉の国」、「根の国」である。さらに、スクナヒコナが「常世国」へ旅立った「熊野の御碕」の場所でもあった。観音信仰の霊地に限定して考えることのできない複雑な土地である。
和歌山県新宮市の熊野速玉神社、東牟婁郡の本宮熊野坐神社、那智勝浦町の熊野那智神社の三社を総称して、熊野三山または熊野三所権現という。各社ともに草創は古代にさかのぼるが、社格はそれほど高くなかった。
三山のうち最も早く仏教化がすすんだのは那智であり、那智の主神牟須美神の本地仏は千手観音である。那智の滝を神体とする那智結神が本地観音とされ、観音信仰の興隆と共に那智は発展した。
那智が観音の聖地として確立すると、本宮、新宮の本地も相対的に決まってくるわけである。那智の北西に位置する本宮(主神 家津御子神)の本地は阿弥陀如来、那智の北東に位置する新宮(主神 速玉神)の本地は薬師如来ということになる。
院の熊野詣は、宇多上皇に始まり、花山上皇も行われたが、それが年中行事となったのは、白河院以降のことである。白河上皇は、寛治4年(1090)正月22日、熊野に行幸、三山検校を置いた。院の熊野詣は、白河院から後鳥羽院までの約100年で97回に及んだ。
このように三山一体化の体制が確立し、11世紀末には白河上皇の御幸をえて、霊地として確立していった。
熊野信仰の特徴は、神道と仏教が習合しているだけでなく、金剛童子をはじめとする王子眷属神など、護法神の巫道を取り入れた信仰になっていることにある。
熊野巫道のご託宣は、死や滅亡にかかわる不吉なものが少なくない。「保元物語」によると、鳥羽法皇は、久寿2年(1155)冬、本宮証誠殿の前で現在、未来2世のことについてお祈りしていた。神殿内から童子が手を出してまねいたので、何かの瑞相と思い巫女にご託宣を求めると、「明年秋のころには、かならず崩御されよう。その後、世の中は手の裏をかえした大騒動になるだろう。」とお告げがあった。
鳥羽上皇は、お告げの通り、翌年の保元元年(1156)7月に54才で崩御し、皇室を巻き込んだ保元の乱がおこった。このように権力者から庶民にいたるまで、自分の行く末や運命についての厳正な神意をきくことが、熊野参詣の目的の一つであった。
同じような話は、「平家物語」や「源平盛衰記」にもある。治承3年(1179)5月、平重盛は、清盛処刑の悪夢を見て平家の前途を悲観し、熊野本宮に詣でる。
「平家物語」で、重盛は自らの「運命をつづめて、来世の苦輪を助け給へ」と祈る。その時、灯籠の火のようなものが、重盛の体から出て消えた。また、帰途に岩田川を渡ったとき、公達たちの浄衣が水に濡れて喪服のように見えた。不吉なので着替えをすすめたが、そのままよろこびの奉幣をした。帰京の後、しばらくして病の床につき、亡くなった。(「平家物語」-医師問答)
◆死者の熊野詣と補陀落浄土
死者の住む仏浄土は、十万億土の彼方にある極楽を始め、すべて人間世界からは非常に離れた所に設定されていた。しかし観音菩薩は、あらゆる苦難から人間を救う仏であり、その浄土も人間世界に対して分かりやすい場所に設定する必要があったと思われる。
この観音菩薩が住む浄土を「補陀落浄土」といい、インドでは南海(インドの南海岸)の補陀落山にあるとした。また中国では、舟山列島を補陀落山とする。チベットでは、チベットそのものが観音の浄土であり、ダライ・ラマは、その化身であると信じられている。
さて日本では、補陀落山はいろいろなところにあり、インドでそれが南海に設定されていることから、大体は日本の南海の彼方にあると思われた。
その第一が紀伊半島の南端にある熊野の海の彼方である。その他にも、四国の足摺岬、館山市那古をはじめ、日本の太平洋に面した海岸の多くが、補陀落浄土への入り口に擬せられたのであろう。
変わったところでは、日光の二荒山(フタラサン)がある。
「日光山沿革略記」によれば、日光山は天平神護2年(766)に勝道上人が、二荒山内に四本龍寺を創建したのに始まる。さらに上人は二荒山の山腹湖北の地に立木観音を手刻し、中禅寺を創建した。
「二荒山」は補陀落山の当て字であり、古来の観音の浄土であった。そして中禅寺湖が「南海」ということになる。これら補陀落浄土への多くの入り口の中で、最も浄土に近いのが熊野といわれた。
熊野という霊地は、まず、イザナミの死霊の地、スクナヒコナが「いでました地」というように、古代から死者の霊地であった。
822年に成立した「日本霊異記」の中には、熊野の永興禅師が山中で、修行僧の白骨死体に会う話がある。この白骨死体は、麻縄で2つの足を繋ぎ、巌に掛って身投げして亡くなっていた。しかし3年の間、死後も法華経を誦していたため、その舌だけが生きて読経を続けていた。
同様な話は、1254年に成立した「古今著聞集」(巻15)にもでてくる。
一叡という僧が紀伊国の宍背山に泊まった夜、人の姿はないのに、法華経を読む声が聞こえた。翌朝になって見ると、年をへた白骨があり、バラバラでなく一体化していた。髑髏の中に赤い舌があったので、一叡が髑髏にその訳をきくと、舌が答えて言うには、白骨の主は叡山の僧であり、修行中にこの山で亡くなった。死ぬ前に法華経6万部読む願をおこして死後も読みつづけ、今年ようやく読み終わり、兜率天の内院に生れ変わる、といった。
熊野詣は、中世から近世にかけて極めて多く行われ、それは「蟻の熊野詣で」といわれるほどで、さらには、死者も熊野詣でをするといわれた。そして、生きている人も熊野詣での途中で、死者に会えるとまでいわれるようになった。
近松門左衛門(1653-1724)の浄瑠璃「傾城反魂香」では、自分の死を隠し、7日と限って同棲した傾城遠山(土佐光信の娘)が、夫で画家である狩野元信に襖に熊野三山の絵をかいてもらい、その絵の上をたどって夫婦で熊野詣でに出る。
絵の中で熊野詣でをするという話もすさまじいが、そこで元信がふと見ると、先を行く妻がさかさま、後ろ向きになって歩いているのを見る。近松の浄瑠璃は続く。「はつとおどろき是なう浅ましの姿やな。誠や人の物語、死したる人の熊野詣では、あるひはさかさま後向き生きたる人には変わると聞く。」として、はじめて夫は妻の死を知り、必死になって消えてゆく妻をさがす。
熊野詣でにおける陸上の逆立ちは、さらに、海の彼方の補陀落浄土を目指した船出につながっていく。
◆浄土渡海
極楽浄土からの阿弥陀如来のご来迎は、念仏を唱え、仏の手と5色の糸で結ばれて祈り続けて待つものであった。しかし阿弥陀浄土へも、積極的にこちらから行ってしまおうという試みが始まっていた。
浪速の四天王寺(=荒陵寺:あらはかでら)では、創建伝説である「荒陵寺御手印縁起」が世に出た11世紀頃から、四天王寺の西門が「極楽浄土の東門にあたる」という新しい浄土信仰の霊場となった。当時の四天王寺の西門は、浪速の海に面して建っていた。
藤原頼長の「台記」によると、極楽浄土の東門に面するといわれた四天王寺の西門付近には念仏所ができて、当時、都にも名のきこえた出雲上人という僧が、念仏集団を組織し、百万遍念仏を高声に唱えて、共に往生を期したという。
「拾遺往生伝」には、金峰山の僧永快が、治暦の年中(1065-1068)の8月彼岸の頃に、天王寺に詣で一心の念仏して百万遍に及んだ。その後、私物を弟子に分け与えて、夜中に房をでて独り高声念仏を唱えながら西へ向かい、入水往生した話が記録されている。(「拾遺往生伝」巻下4)。
また別書には、叡山の僧 行範上人が、大治年中(1126-1130)に四天王寺で7日の断食の後、衣の袖に砂をいれ、一心に念仏入水した記事がある。そのとき「調具音楽、方舟合奏、正修念仏」して亡くなった。そして同行者には、都率天の内院に生まれたという夢告があった。(「本朝新修往生伝」11)
熊野の補陀落浄土への渡海は、舟に乗って行われた。しかもその舟は外から釘づけされ、扉もなく、内部には30日分の食料と灯と油が用意された。それは出羽三山の木食行、土中入定の海上版ともいえるものであった。
この船出は、現代人から見れば自殺行の旅であるが、「吾妻鏡」、「仮名東鑑」、「北条九代記」、「冥応集」などの記述は、必ずしもそうではない。
貞永2年(1233)頃、上記の四天王寺の入水往生よりは百年後の話になる。源頼朝の那須野の狩りで鹿を射損ねて、出家した智定房という僧がいた。しばらく那智山にこもり修行していたが、やがて熊野の那智の浦から、舟で南海・補陀落山へ渡海した。
この時の智定房の屋形舟は外から戸が釘付けされ、四方に窓はないため真っ暗で、灯火を微かにし、食物としては栗栢を少しずつ食べて命をつなぎ、一心に法華経を読誦した。補陀落山へは30余日でついた、という報告が北条泰時に届けられている。(「北条九代記」7)
この後日談が、別書にある。
補陀落浄土についた智定房は、上陸して岩の上から山をみると、山道は危なくて険しく、岩容は幽遠であった。山頂に池があり、大河が山を巡って海に入っていた。池のほとりに石造の天宮があり、観音菩薩が遊行される場所であった。智定房は、この山に50余日いて、また舟に乗って熊野へ帰ってきた。(「冥応集」)
熊野における補陀落渡海は、貞観10年(868)11月3日慶竜上人、延喜19年(919)2月佑真上人と奥州の人13人、天承元年(1131)11月高巌上人、寿永3年(1184)平維盛、貞永2年(1233)智定房など、記録に残されているだけでもかなりある。
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