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日本人と死後世界
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  (3)生者の浄土と霊場巡礼

 平安末期から鎌倉期にかけて仏教思想は庶民にまで普及し、さらに、仏教思想が神道や儒教の思想と習合して、生者と死者、そして浄土信仰の関係が、大きく変わっていった。
 たとえば「六合」は、死後の人間の魂が転生を繰り返していく世界であった。しかし、考えてみると、死後に設定したこれらの世界は、この現実世界や自分の心の中の世界に存在するものであり、その多くは生きているうちに経験するものでもある。

 また、死者の世界である仏浄土は、人間世界とは全く異なり遠く切り離されて設定されていたが、少なくとも「仏」という共通の媒体を通して、死者と生者が交わる浄土があってもよいではないか、という願望がある。
 これが現世利益とかかわる観音信仰とからんで、この世の浄土としての霊場信仰となっていった。

◆六合を生きた建礼門院 -「平家物語」の世界

 「六合(道)」とは、欲界を構成する天、人から地獄にいたる6つの段階である。人間の魂は何度も生死を繰り返しながら、この中を輪廻転生するというのが、仏教の考え方である。いま、我々は六合の一つである「人」の世界に生きている。この世界で死んだ後、より高い世界である「天」に生まれ変わりたいという願望と努力をいろいろ見てきた。
 しかし考えてみると、この六合は人間世界ですべて体験されるものであり、同時に、すべて人の心の中に存在するものでもある。このことが「平家物語」の「潅頂巻」にでてくる。

 鎌倉期の軍記物語の最高傑作といわれる「平家物語」は、13世紀の中頃に12巻本で成立したものである。さらに、その50年後に、出家後の建礼門院に関する「潅頂巻」1巻が加えられて完成した。
 「潅頂巻」は、平清盛の娘で高倉天皇の皇后になった建礼門院(1157-1213)の、一生の物語である。建礼門院は、壇の浦の戦いで平家一門の人々と共に入水したが、不幸にも源氏の兵に助けられた。彼女は、平家の滅亡後、京都大原の寂光院に身を隠すが、この隠れ家を、後白河法王が訪れた。これが有名な「大原御幸」である。
 このとき、女院が法王に語った彼女の一生が「六道之沙汰」と題される章であり、潅頂の巻の中心をなす物語である。

 女院は、その中で、この世において生きて六道の世界を見たと語る。しかし、考えてみると、われわれ庶民が生きて経験する世界は、実はそのほとんど大部分は、地獄やそれに近い餓鬼、畜生、阿修羅の世界である。
 それは、東北地方の即身成仏の歴史などを見たら分かる。この世で、あまりに酷い世界を見たために、せめて死後は安らかな極楽世界に転生したいという願いが、念仏往生の思想になり、さらに一世行人達は、この世の人々を仏となって救済し、将来、この世の浄土に行きたいという願いを込めて、土中入定したわけである。

 これら庶民とは異なり、建礼門院は、位人身を極めた平清盛の娘であり、さらに、皇后となって、この世で庶民が一生経験できない「極楽世界」を経験した。
 しかし、このことが、その後に地獄まで落ちていく六道の世界と対比して、普通の庶民より更に激しい有為転変を経験することになった。

 彼女は、権力者・平清盛の娘として生れ、高倉天皇の皇后になり、さらに、安徳天皇の母となった。すべての人は、彼女に従いまつり、「一天四海はなたなごころのまま」であり、 春夏秋冬、あけてもくれても遊興の連続で、「天上の果報も是には過ぎじとこそ」思われるほどの、まさに「天国」の生活であった。
 しかし寿永2年(1183)の秋、木曽義仲に追われて、平家の一門は都を離れ、女院は一門とともに西海に漂う。「人間の事は愛別離苦、怨憎会苦、共に我身にしられて侍らふ。四苦八苦一として残る所さぶらはず」。これは、まさに「人間界」の苦しみであった。

 九州へ逃げた平家は、九州からも追い出されて、船の中で人々は、飢餓に苦しめられた。「是又餓鬼道の苦とこそおぼえさぶらひしか」。これはまさに「餓鬼」の世界である。
 室山、水島の戦いに勝って、多少、前途に希望がみえてきたのに、一の谷の合戦にて一門の多くが滅びた後は、「修羅」の闘諍、帝釈の諍いもかくやという世界になった。

 壇ノ浦では、もはや戦の前途も見えたため、安徳帝を二位の尼がいだいて入水し、「叫喚大叫喚のほのおの底の罪人も、これには過ぎじとこそおぼえさぶらひしか」という「地獄」を体験した。
 しかし建礼門院は、心ならずも源氏の武士にとらえられてしまう。明石の浦についてまどろんだ夢の中で、昔の内裏に勝る美しい所に、先帝をはじめとする一門の人々が居並ぶのを見て、ここはどこかと尋ねたら、二位の尼らしき人が竜宮城と答えた。ここに苦はありませんか?とたずねると、「竜宮の苦は、竜宮経にかかれており、よくよく後世を弔って下さい。」といわれて目が覚めた(「畜生」)。

 このように建礼門院は、涙ながらに自分の人生を六道になぞらえて語った。この六道の中で、畜生道のみは、妙に空々しい。しかし実際には、助けられた後に、源氏の兵達に身をもてあそばれたという俗説の方が、畜生道として現実的であるが、恐れ多いのでぼかしてこのような話にしたのが本当であろう。(梅原猛「阿修羅の世界(平家物語)」、「地獄の思想」所収)

 天台の「十界互具」の思想は、人間の世界の中に六道があることを教える。実際、われわれ庶民は、生前、この六道のすべては経験しないものの、その中の多くを経験するといえる。むしろ、最も経験しない世界は「極楽」であり、せめて死後に求めようというのが、「欣求浄土」という思想を作り出したといえるほどである。

 平家物語は、全体として人間世界の中の六道を描いたといわれる作品である。たとえば、有名な安徳天皇が壇ノ浦に入水するところでも、8歳の天皇をだいた二位の局は、「極楽浄土というめでたい所にお連れいたします」といって天皇に念仏を唱えさせる。しかし実際に入水する時には、「浪のしたにも都のさぶろうぞ」といって慰めて、千尋の海に沈む。
 このところが「屋代本」では、「都のさぶろうぞ」がない。「是ハ西方浄土へトテ海ニゾ沈ミ給ケル」となっているそうであるが(岩波版、注)、まさに、人間世界の六道がここに現れている。つまり、平家一門の本当に行きたい先は、西方の極楽浄土よりも、一門が揃って以前と同じ生活ができる霊界の都なのである。そして、このことは建礼門院の竜宮城の夢にもでてきたものである。

 そこはもはや仏教的な悟りをひらいた極楽浄土ではなく、人間世界での都の再現であり、耳なし芳一における亡霊伝説になって語られるものである。




 
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