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日本人と死後世界
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  (2)高野聖とその浄土

 高野山は、空海がここを真言密教の聖地とする以前から、死者の納骨の霊場であり、近世には、「日本総菩提所」の名で、宗派にかかわらぬ納骨が行われていた。

 今でも高野山を年々訪れる数十万の参詣者の大部分は、納骨か塔婆供養を目的にしているといわれる。
 奥之院墓原の墓石群は、この納骨の成果であり、唱導により納骨参詣を誘引し、諸国を回って野辺の白骨や、委託された遺骨を笈にいれて高野山へ運んだのが「高野聖」である。
 また納骨や供養のために高野詣をする人に、高野山の宿坊を提供したのも高野聖であった。高野山の独特の宿坊建築や精進料理も、高野聖の遺産である。

 古代末期から中世にかけて栄えた高野聖は、その後に全く消滅する。その理由の第一は、高野聖の世俗性が、宿借聖や呉服聖とよばれるように、商行為や隠密まで働くように俗悪化していったこと、また第二に、真言密教が、高野山に来世信仰の聖や念仏にかかわる高声念仏・金叩・負頭陀(笈を負って托鉢すること)・念仏踊りを禁止し、さらに念仏信仰を異門邪義として圧迫するようになったことによる。

 慶長11年(1606)に全高野聖は、時宗をあらためて真言に帰入することが命令され、高野聖の歴史は滅びた。高野聖は、その発祥の頃は、道心ある隠遁者が多かったが、その後、遊行回国と社会事業の勧進、宿坊と納骨を職能として活動するうちに、世俗化していったと思われる。

 高野聖の念仏信仰については、いまなお各地で歌われる六斎念仏の曲に「高野ひじり」があり、歌念仏の中には「高野のぼり」があって、その詞はつぎのようなものである。

  いざや 高野へのぼれよ
  かるくのぼれよ 不動坂の道をも
  九品の浄土へ まいる身なれば
  ナムアイダンボ ナムアイダンボ ナムアイダンプツ
  高野へのぼりて 奥之院まいれば
  右や左の高卒都婆
  みな国々のなみだなるらん
  ナムアイダンボ ナムアイダンボ ナムアイダンブツ

 「高野山往生伝」所収の高野聖清原正国に対する入唐上人日延の夢告に、「汝、極楽に往生せんと欲せば、高野山に住すべし」とある。また「金剛峯寺建立修行縁起」には、「金剛峯寺は前仏(釈迦以前の仏)の浄土、後仏(釈迦以後の仏)の法場なり」と記されており、高野山は本来、仏浄土として信仰されてきたことが分かる。
 さらに、高野山荒廃の再興勧進にかかわった仁海僧正が、藤原道長に説いた「野山仏土の因由」には、「高野山は十方賢聖常住の地、三世の諸仏遊居の砌、善神番々之を守り、星宿夜々に之に宿る。釈迦転法輪のところ、慈尊(弥勒菩薩)説教の会場なり。」とあり、弥勒の下生の浄土でもあったことが分かる。(五釆重「高野聖」)

 高野聖の生き方の一つを「高野山往生伝」に見る。
● 散位清原正国は、大和の国葛下郡の武士で造悪無頼であったといわれる。61歳で入道し、日課10万遍の念仏を27年間も修して往生を願った。この時に、上記の日延の夢告で高野山に登り、87歳で往生した。ただ極楽往生のために、高野山に登った例である

● 沙門蓮待は土佐の出身。幼くして生家を離れ、長く仁和寺に住まい叡山阿闍梨に師事した。壮年になってからは、道心堅固で草庵に住み、蓮待と名を改め、人は石蔵上人といった。
 日夜苦行して休まず、金峯山に籠って塩を断ち穀のみを食べ、そのため体は骨が顕になり枯れ木のようになった。僧たちは、上人が死んで聖地を汚すことを心配したので、高野山に移った。

 数年後に内心発願して、貧しい人々に奉仕するため山を離れ、苦行を重ねて土佐国金剛定寺までいったが、承徳2年(1098)5月19日に、高野山に戻ってきた。ある僧が、極楽と都率のどちらに往生したいか?と聞くと、どちらでもよいといって、ただ往生のためとして、法華経一万部以上を読んだ。

 往生にあたって、上人は自ら頭を剃り衣を整え、山門を出て、土佐に赴いた。臨終にあたっては、樹下に服を整え、西方に向かい、手に定印を結び、「南無三身即一阿弥陀如来、南無弘法大師遍照金剛菩薩」と露地に座って声をあげて称名を唱えた。人々が見守る中、両眼の涙を拭った。このとき、西天に雲が聳え、前の林には風が激しく吹き、雲の上には雷鳴が轟いた。その翌日、門弟子の夢に、空中に金剛界マンダラが現れ、その中に西方菩薩位の月の輪の中に、上人が端座し、「我ら菩提を発し、四つの無量心を修めた。今、西方に往き詣でて、金剛の位に登る」といった。

 この記述は、今日、真言の宗徒がとなえる「南無大師遍照金剛」というお題目の最も古い事例といわれる。
 この僧の場合、高野山信仰と弘法大師信仰が両立しており、修行により見事に仏となって往生した例である。さらにこの僧で面白いのは、自分の死後、葬儀を行わず、野原に捨てて鳥獣に施せといっていることである。これは親鸞が、死後鴨川に捨てて、魚鱗に施せ、といっているのに似ている。






 
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