アラキ ラボ
どこへ行く、日本
Home > どこへ行く、日本1  <<  55  56  57  58  >> 
  前ページ次ページ
 

(2)新興NCC企業の挑戦 ―ソフトバンクと孫正義

●ソフトバンクの登場
 電電公社が独占していた電気通信事業が自由化され、NTTの競争相手として、第1種電気通信事業者として新規参入してきた企業のことをNCC(New Common Carrier)と呼ぶ。
 売上高規模では、NTTの次がKDDI,第3位が日本テレコムであった。ところが2004年に日本テレコムがソフトバンクに買収されたため、それまでソフトウェアの企業であったソフトバンクが突然、日本第3位の電気通信事業者として登場することになり、社会に衝撃を与えた

 そこでNCCの代表として、NTTに対抗して巨大化してきた、ソフトバンクと社長・孫正義の出自から話を始める。
 孫正義は、1957年8月11日、九州佐賀・鳥栖市の通称「無番地」で、筑豊炭田に働く在日韓国人の3世として生まれた。少年時代は、差別を避けて「安本正義」という名で八幡製鉄所のある北九州市八幡ですごした。
 69年に福岡の城南中学に転校し、さらに、名門の久留米大学付属高校に進学した。父親は、当時は、福岡をはじめとする各地でパチンコ屋を経営しており、生活は豊かであったという。

 73年9月に高校を中退した孫は、翌年2月、渡米してサンフランシスコの近くにあるホーリーネムズ・カレッジに入学した。そして2年後に、コンピュータ関連の先端技術の研究において全米のトップの位置をしめる、カリフォルニア大学バークレー校の経済学部3年に編入される。
 この頃、孫は自動翻訳機を開発していた。それをシャープに持ち込み、1億円の報酬を得たといわれる。その資金で79年に大学の近くに「ユニソン・ワールド」という会社を設立して、ゲーム機の開発に乗り出した。

 ゲーム機の製造・販売で得た資金により、バークレー地区の最大のゲームセンターを買収した。そして1980年春、帰国して、福岡市博多区雑餉隈で2名のアルバイト社員とともに、コンピュータ卸売事業を行なう「ユニソン・ワールド」を設立した。
  
●ソフトウェア卸売業からM&AやIT関連投資企業への進出
 翌81年、(株)日本ソフトバンクを東京・市ヶ谷で設立し、パソコン・ソフトの卸売り・販売を始めた。この頃、日本のパソコン業界は黎明期を迎えていた。本格的パソコンの名機といわれたNECのPC8000が79年に発売された頃である。

 ソフトバンク設立の1ヵ月後、大阪で開催された「コンシューマー・エレクトロニクスショー」に参加し、展示ブースを確保してソフトハウスを1軒1軒廻って出品を依頼して、ソフトウェアの組織化をはかったといわれる。孫の着眼点の非凡さは、皆がBASICによるマニアックなプログラムに凝っていた時に、既存のソフトをすべて集めて、販売するセンターを考えたことにある。
 この展示ブースがきっかけになり、パソコン・ショップを企画していた上新電機やパソコン・ソフトの最大手であるハドソン社と提携して、パソコン・ソフトの卸売り販売の路線を確立することに成功した。

 さらに82年5月には、パソコン関係の出版もはじめた。NECのパソコン・シリーズを対象にした「Oh! PC」、シャープのパソコンを対象にした「Oh! MZ」という2種類の月刊雑誌を創刊した。
 当時はパソコン雑誌「アスキー」の全盛時代である。ソフトバンクの創刊号の売れ行きは不振で、85%が返本されて赤字を出した。
 しかし、その後のパソコン・ブームで一時期には、ソフトバンクのソフトが、パソコン・ソフトの8割近くを占めるといわれるまでになった

 83年に孫は、肝臓病のため一時、会長職に退いたが、86年に再び社長に復帰した。
 85年には電電公社が民営化してNTTが発足した。そこで通信関連への民間企業の参入の道が開かれ、企業競争が一斉に始まっていた。

●ソフトバンクの急成長
 その中で90年にソフトバンク(株)と社名を変更し、94年7月に株式を店頭公開した。入札5万株、募集90万株、公募価格1万1千円に対して、初値には1万8900円の値がついた。
 マスコミの大々的な報道のおかげで、その頃、孫は個人名義を合わせて2000億円の株式長者になっていた。
 ソフトバンクの売上高、経常利益の推移を、図表-1にあげる。

図表-1 ソフトバンクの売上高と経常利益の推移(単位:億円)


(出典)霧生広「孫正義―ソフトバンク王国の挑戦、日本能率協会,91頁から作図

●90年代後半におけるソフトバンクの進出
 図表-1を見ても分かるように、90年代の後半期にソフトバンクの事業規模が急激に大きくなっている

 事業拡大の手段は、大規模な社債発行に始まる。95年5月、ソフトバンクは償還期限12年、格付けがトリプルB, 表面利回り3.9%という悪条件の社債を500億円、さらに96年1月に償還期限6年の転換社債700億円を発行し、市場で集めた資金は2000億円を越えた。

 図表-1を見ると、ソフトバンクの95年頃の年間売上げは500億円程度である。まさにこのとき、売上げの4年分の資金を集めたわけである。

 孫は、その資金をもとにして、いろいろな企業のM&A(=企業買収)やIT関連企業への投資を積極的に推進した。
 この巨額な資金をもって96年2月、ソフトバンクの中核となるジフ・デービス・パブリッシュイング社を2268億円で購入した。
 これにより、既に94年に購入していたデービスの展示会部門を合わせて、コンピュータ業界で圧倒的な影響力をもつ「PCマガジン」を手中に収めることに成功した。

 さらに、96年9月にはパソコン用メモリー・ボードを企業むけに発売するキングストン・テクノロジーを1628億円で購入した。95年3月期のソフトバンクの売上高は964億円にすぎず、「これらの買収はメダカがクジラを次々に飲み込んでいく買収劇であった」(児玉博「幻想曲 ―ソフトバンクの過去・今・未来」日経BP,188頁)
 これらの買収劇により、孫は一躍、時の人になった。

 このような実績を背景にして、1996年には当時まだ米国で創業したばかりで、売上高2億円のYahoo!社の株35%を取得し、100億円の投資をした。さらに、合弁でYahoo! JAPANを設立した。
 当初、Yahoo!への投資は、かなり危険視されていたが、ヤフージャパンの株価は2000年1月28日には、終値で1億300万円という前代未聞の価格をつける。孫はこの前代未聞の破天荒なNASDAQ上場時の売却益により、多額の資金を得ることに成功した。

 1998年に、ソフトバンクは東京証券取引所第1部に上場を果たした。それに伴い、ソフトバンクは純粋な持株会社に移行し、投資を主目的とした会社となり、卸売業・出版業などの各部門は子会社として分社化された。
 孫は、「日本のビル・ゲイツではなく、世界の孫正義になりたい」といっていたという。99年にはソフトバンクの含み益は2兆円を越えたともいわれ、99年夏の「フォーブス」の世界の大富豪特集では、その表紙を飾るまでになった。

 この時代、ソフトバンク成功の影には失敗も数多くあった。95年のジフ・デービス社への資本参加では収益があがらず、2000年に売却したし、95年のウィンドウズの市場での立ち上げも失敗した。
 また96年のキングストン・テクノロジーも、99年に売却して多額の赤字を出した。

 失敗例で注目されるのは、テレビ朝日の買収の失敗である。ソフトバンクはオーストラリアのニューズ・コーポレーションの社主で「世界のメディア王」とよばれるルパート・マードックと組んで、テレビ朝日の発行済株式21.4%を保有する旺文社メディアを、420億円で買収する事を発表した。しかし朝日新聞グループが危機感をもってこれに反発したため、結局、同グループに買い戻された。

●21世紀の通信、メディア産業への進出 ―2000年代のソフトバンク
 21世紀に入りソフトバンクは、日本の既成産業に対して新しい挑戦を開始した。その第一が、NTTを相手にした通信戦争である。

 21世紀において通信関連分野では、ブロードバンドのサービス競争になることは誰でも知っていた。しかしそのサービスをユーザに提供する価格について、NTTは従来の投資費用から高い価格を想定していた。

 これに対して、ソフトバンクは価格設定により作り出される新しい需給関係から導き出される最低価格を想定するという、全く新しい原理を採用した。そして結果的には、NTTもそれに引っ張られることになった。   そのことはソフトバンクの価格決定方式は、それなりの経済的現実性を持っていた事を示している。

 日本の通信関連産業は、それまでNTTが考える路線に従って動いていた。21世紀の初頭、これに真っ向から逆らったのがソフトバンクであった。2001年6月19日、ソフトバンクの孫社長は、東京のホテル・オークラにおいてADSLサービスによる「ヤフーBB」を発表した。

 そこでは、8Mbpsの高速サービスが、NTTのほぼ半額の月当たり2000円台で提供すると発表された。当時、ADSLのインターネットの月額は5000-6000円/月、伝送速度は1.5Mbpsが普通であり、それに対するヤフーBBの挑戦は業界に大きな衝撃を与えた。

 しかもソフトバンクが考えるサービスの提供エリアは、全国に拡大していた。ソフトバンクの発表の20日前に創業したADSLのベンチャーの東京めたりっく通信が、エリア拡大の設備投資負担で資金難に陥っていた悪条件の中で、ソフトバンクは、人口カバー率を7割にすると発表したのである。

 ブロードバンドの出発時における悪条件の中で、孫社長のADSLサービスの話を聞くと、まるでホラ話を聞くような気がする。しかしこのソフトバンクが設定した路線は、その後にNTT東日本が2002年12月、NTT西日本が2003年3月に、フレッツ・ADSLのサービスを1.5Mbpsで月2700円に引き下げることにより実現した。

 その意味で、ヤフーBBのブロードバンドに関する「ほら話?」は、数年後には、見事にブロードバンドの市場価格を決定することになったといえる。さらに、2004年5月、ソフトバンクは日本テレコムの買収計画を発表して、ブロードバンドの業界に大きな衝撃を与えた。

 その買収金額は、3400億円という巨額なものである。日本テレコムの全発行済株式(1億4400万株)を、持ち株会社のリップルウッド・ホールディングスなど計6社から11月16日に取得する。これによりソフトバンク・グループは、連結売上高1兆円、提供する回線数1000万の総合通信事業者NCCになることに成功した。このことにより、通信業界におけるソフトバンクの地位は、もはや無視できないものになり、IP電話における主導権を確立した。

 IP(インターネット・プロトコール)電話とは、インターネットを支えるIP技術と結びついた電話サービスのことをいう。インターネットは、電話のつど接続し時間と距離により料金が異なる固定電話とは違い、そこでは常時接続が当たり前である。そのため料金体系も、時間や距離により異なるような考え方はとらない。

 従って、電話の料金は、同じサービスの会員間であれば、全国何処でも全国一律の基本料でよいということになる。このような電話サービスは、NTTもようやく2003年10月29日から企業向けに取り始めたものである。

 このようなIP電話の世界にNTTを引き出したことは、ソフトバンクの大きな功績であった。ソフトバンクが2001年12月に発表したBBフォンにおける通話料では、日本中何処へかけても3分7.5円、会員同志の通話料は無料となっており、その後に登場したIP電話も、ほぼ同じ料金体系を採用するようになった。

 これはNTTの従来の電話料金の思想の根底を変えるものであり、それを変えさせたのは、ソフトバンクの大きな功績であった。その反面で、NTTの固定電話の売上げ高は3年間で1兆円が消滅したといわれるほどの大きなダメージをNTTに与えた。 (日経コミュニケーション「知られざる通信戦争の真実」日経BP,89頁)

●携帯電話業界への参入
 2000年代に入り、ソフトバンクは携帯電話の世界においてもNTTのライバルとして登場する。2000年代の初め、日本の携帯電話のユーザは8千万人といわれた。その時、普及していた携帯電話のシェアの6割はNTTドコモ、2番手に「au」ブランドのKDDIと沖縄のセルラー電話、その下に、ボーダフォンのシェア2割弱、最下位にツーカー・グループがついていた。

 ソフトバンクの携帯電話への進出の第一は、2004年5月27日 - 日本テレコム(現:ソフトバンクテレコム)買収の発表に始まる。同社の発行済み普通株式、約1億4,400万株のすべてをソフトバンクが取得し、同年7月に完全子会社化した。

 さらに、ソフトバンクは、シェア3位のボーダフォンの日本法人を、2006年4月27日に1兆7,500億円の巨額を投じて買収した。同社は、「写メール」というカメラ付き携帯電話ブームやプリペイド式携帯電話などを開発して、NTTグループを追い上げてきた英国の電話会社である。ソフトバンクは、同社の日本法人を買収したことにより、携帯電話における既存事業者の3番手への仲間入りを果たすことに成功した。

 これらの企業買収により、ソフトバンクは2006年10月2日に、東京証券取引所における所属業種を卸売業かられっきとした情報・通信業に変更することに成功した。さらに、2000年代に入って投資先企業を拡大しており、ソフトバンク・グループの企業総数は1000社を超え、社員数が2万人以上の巨大グループに成長し、ソフトバンクは持ち株会社として確立した。

 ブロードバンド市場は、2005年から2010年にかけて日本国内で50兆円を越す市場になることが予想されていた。ソフトバンクはその競争市場の中で、まさに中心的位置を占めて、NTTに対抗する企業に成長した。






 
Home > どこへ行く、日本1  <<  55  56  57  58  >> 
  前ページ次ページ