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(2)1980-2000年の経済政策

★1980年代
●価格の自由化

図表-4 政府決定価格の国民経済に占めるシェア(単位:%)

  (出典)「価格理論与実践」、小林実,呉敬l「中国―高度成長経済への挑戦」日本経済新聞社、215頁より作図

 図表-4では、70年代末にほとんど100%政府が決定していた商品価格が、90年には20から40%台にまで低下し、特に小売商品や農産物は20%台にまで落ちている。
 このことから、中国では本格的な市場原理が導入され始めた80年代に、既に10年をかけて「価格の自由化」がほぼ達成されたことがわかる。このことが市場原理の導入にあたって、中国がロシアに比べて大きく成功した最大の原因であると考えられる。

 中国政府は、85年頃から過去には画一的に行なわれてきた政府決定価格を徐々に撤廃した。そして80年代に、都市経済、個人経済、農村経済に対して、従来の中央政府による計画経済から市場経済への基礎的な移行が行なわれた
 さらに、91年以降、各地方、各部門が価格改革を一層推進したことから、90年代を通じて労働市場、商品市場と共に、資金、不動産、金融市場などが形成された。

●「経済特区」による都市経済の改革と株式会社制度の導入
 都市経済の改革は、中国の高度成長政策に大きな効果を齎した。いわばそれは経済改革の「目玉」であった。その方法の特徴は、「経済特区」という特別な経済制度の適用を可能にした「拠点開発方式」にある。さらにそこでは公的企業に代わって、資本主義社会と同じ「株式会社」が80年代に全国的に多数、設立された

 まず1980年5月に国務院は深せん、珠海、汕頭、厦門(10月)を「経済特区」とし、これらの特区においては内地と異なる体制と政策の適用を可能にした
 この制度の導入により、中国国内では場所によって異なる経済体制の採用が可能となり、そのことにより企業の自主権を短期間の間に大きく拡大することに成功した

 81年10月、中央政府と国務院は、さらに「城鎮集体経済」(都市集団経済)と「個体経済」(個人経済)の発展に対して、積極的に支持する方針を決定した。また農村においては、農民の生産責任制が確立した。

 84年10月、党12期3中全会(=中国共産党中央委員会)は包括的な「経済体制改革についての決定」を採択し、指令性計画(=計画経済)と市場調節(=市場原理)の機能を強化する基本方針を決定した。
 つまり計画経済と市場経済の矛盾の調整を行なうと共に、国有企業を株式会社化するための試行が開始された

 その結果、84年に、社会主義の中国に株式会社が誕生した。そして中国株を取引する市場として、85年10月に深せん経済特区証券公司が設立された。さらに、中国における証券市場は、80年代の後半期に拡大し、90年11月26日上海証券取引所、12月1日深せん証券取引所が設立された。

●国内市場の対外開放
 1984年のはじめ、ケ小平は深せん、珠海、厦門の経済特区を視察し、春には14の沿海都市(大連,秦皇島、天津、煙台、青島、連雲港、南通、広州、上海,寧波、温州、福州、湛江、北海など)が「対外開放都市」に指定された。
 さらに海南島を加えた後、珠江デルタ、長江デルタ、?南デルタが「開放地帯」として認定された。

 このことにより「経済特区」や「開放地帯」は、国内のみならず外国に対して開放されることになり、外資導入への道が開き、中央政府はこれらの解放都市に優遇措置を適用することが決定した。

 これらの市場開放は、商業のみならず工場誘致に広く門戸を広げたため、工業成長率が上がり、85年以降の中国工業化の牽引部門は軽工業、消費財部門となった。そのため、従来、国営企業が中心となって進めてきたエネルギー、運輸、基礎素材などの産業部門が低迷し、産業のアンバランスが顕在化してきた。

 その一方で80年代の中葉、景気拡大に伴い消費財輸入が拡大し、貿易赤字も拡大したので、いろいろな経済的矛盾が顕在化してきた。
 そこで1985秋-86にかけて、第7次5ヵ年計画が立案・作成され、市場経済と計画経済が並存して進行することになった
 この5ヵ年計画には、国営企業の自主経営・自主採算制、競争市場システムの導入、国家による市場を媒介にした間接的なマクロ・コントロールの3点が、社会主義経済の新体制に含まれることが明言された。

 これらのことから80年代後半期には、市場経済導入により顕われてきた問題点(市場価格と公定価格の2重価格制、東部沿海と中部、西部の内陸部の地域格差、物価騰貴、官僚汚職など)により、国民の批判が増大した。
 1988夏にはインフレ懸念から全国の都市でパニックが発生し、大規模な物資の買占めや預金の引下ろしが相次いだ。88年下半期のインフレ率は、前年同期比で24.5%に達した。

 これらのことから国民の不満が高まり、その象徴としての抗議デモが、1986年12月の中国科学技術大学における学生デモから始まり、その最大の山場が、89年6月の天安門事件となった。つまり1989年6月4日の第2次天安門事件の背景には、前年からの価格自由化による、建国以来最大のインフレの発生や、「整理・整頓」と称する経済引き締め政策による経済の低迷があった

●農村改革−請負制の導入
 すでに、78年秋から安黴,四川における2省の一部の農民所帯において、農業生産における請負制や、生産量より多い収穫が達成された場合に、それが農家の所得となる「所帯生産請負責任制」が導入されていた。ケ小平が復活を遂げたその年の第11期3中全会において、「包産到戸、聯産計酬」と呼ばれるこの農業の新しい生産責任制の方式が、中央政府により高く評価され、全国の農村改革に影響を与えることになった。

 その結果、わずか2年の間に農村経済は人民公社生産隊による集団経営から、各家庭を単位とした個人経営方式へ全国的に転換していった
 そして83年までに、全国の人民公社単位の統一分配制度から、家庭単位の請負制度に取って代わった。さらに、84年末には、中国全土で「家庭聯産承包責任制」(所帯生産請負責任制)を実施する農家が、全体の98%を占める状態になった。

 同時に農産品市場の開放も徐々に進行していった。85年までに主要農産品以外の副食品(野菜、肉、鳥、卵など)が、自由市場で取引されるようになった。食糧(米、とうもろこし、小麦などの主食類)の政府決定の計画価格部分も年々縮小され、90年までに農村の卸売り価格の3分の2が自由価格になった。91年以降、食糧の自由価格化が加速され、多くの省や市で計画価格が撤廃されていった。

 この基礎の上に、集団企業制企業の中心的存在である郷鎮企業、私営企業、外資企業が勃興してきた。農村経済の発展の鍵はこれら農村工商業にあった。
 80年代の初めから、郷鎮企業の発展は目覚しかった。1億人以上の農業従事者が非農業部門に従事するようになった。91年までに郷鎮企業の社会総生産に占めるシェアは25%になり、工業総生産に占めるシェアは50%になった。

 政府は農村企業の発展に力をいれており、多くの地方で「株式合作制」という郷鎮企業の組織改変が行なわれて、地区住民による共同経営方式がとられ始めた。
 また国家レベルでは、農村企業が総合的大企業へ発展できるような支援も始められた。


★1990年代
●「社会主義市場経済」の本格的展開

 1992年10月の中国共産党第14回大会(=14全大会)において、党総書記・江沢民は中国の経済改革の目標が「社会主義市場経済体制の確立」にあることを確認し、あらためて「社会主義市場経済」の実施を正式に決定した。

 大会の政治報告において、江沢民は次のように述べた。
 「社会主義市場経済体制では、社会主義国家のマクロ制御のもとで、市場をして資源配置に基礎的な役割を果たさせ、経済活動が価値法則に従って、需給関係の変化に適応するようにする。価格と競争のメカニズムの働きを通じて、比較的効率の良いところに資源を配分し、企業に圧力とエネルギーを与え、優勝劣敗を実現する。市場が各種経済情報に対して敏感に反応する特徴を利用して、生産と需要がすばやく一致することを促す」。
 その後、この目標は党規約と憲法に書き込まれた。

 江沢民の政治報告は、非常に抽象的でその具体的内容は必ずしも明快ではない。
 「社会主義国家のマクロ制御」とは、「中国共産党の1党支配と指導」を意味すると思われる。つまり中国共産党による1党支配と指導の下で、資本主義的市場経済の体制を実施することが「社会主義市場経済」である、と解釈できる
 この報告は、90年代における中国経済の最大の課題である「社会主義初級段階論」をさらに深化させ、「社会主義市場経済」を本格的に推進することを示すものとなった

 90年代における中国の政治・経済政策の内容は、具体的には、1)国際化の推進、2)国営企業の近代化と効率化、3)地域間格差の縮小であった。

1)中国経済の国際化 
 90年代には、中国経済における国際化が大幅に進行した。
 1990年4月18日に李鵬首相は、中国共産党中央と国務院が上海の浦東地区を経済技術開発区兼経済特区に定め、その浦東開発を重点的に行なうことを公表した
 この時はまだ香港の中国への返還前であったが、90年代においては、97年に香港が、99年にマカオが中国へ返還される予定になっていた。これらの返還都市を含めて、上海、マカオ、香港、海南島など一連の中国の沿海都市を、「香港型」の「対外開放地域」として発展させる経済政策が90年代に展開された

 そのため90年代初頭には、まず近隣諸国との国交が樹立された。90年9月に韓ソとの国交樹立が実現し、10月にはシンガポールと国交が樹立した。
 さらに、各国の金融機関の誘致が積極的にすすめられた。そして92年11月には、合計29の国と地域の銀行が、14都市に225の駐在事務所を開設し、67の外国金融機関に13の都市での営業が許可された。

 1994年1月には人民元の切り下げが行なわれ、為替レート(公定レートと市場レート)の1本化が行なわれた。96年12月にはIMF第8条国への移行が行なわれ、人民元は経常取引では、一応は交換性のある通貨になった。
 しかし、資本取引においては厳しい制限が残され、ヘッジファンドなどの中国市場への参入はなお難しい状態にあった。しかしこのことが中国経済のリスク管理に大きな効果を齎した
 97-98年のアジア通貨危機において、ロシア経済は破滅的影響を受けたが、このアジア通貨危機に際して、中国経済はほとんど被害を受けなかった。
 この幸運は、人民元の取引を厳しく規制していたことによる面が大きい。

●輸入国から輸出国へ−「元安」政策による輸出の拡大!
 下図に80年代以降における中国の貿易収支の推移を揚げる。

図表-5 貿易収支の推移(単位:億ドル)

(出典:中国情報局データから作図)

 国民経済の発展と貿易収支の関係は、まず経済発展の初期には輸入が増加し、貿易収支が赤字になる。その次の段階では、輸入品の国内生産が始まり、さらにその製品を輸出するようになり、貿易収支が黒字になる、というのが一般的展開である。

 図表-5から明らかなように、80年代に「社会主義市場経済」を開始した段階では、外国からの輸入の方が輸出より多く、貿易収支は赤字を記録していた。しかし90年代に入り、国内生産が軌道に乗ると、輸入より輸出の増加が多くなり、貿易黒字が増大した。
 そして90年代には、貿易収支の黒字額は200億ドルを超え、さらに21世紀に入ると、それは300億ドルを超えた。

 2005年現在、この巨額の貿易黒字を背景に、元の切上げが問題になっている。
 90年代における貿易収支の改善は、輸出拡大のために「元安」に誘導された為替政策とも関連している。80年代以降の人民元の対ドル・レートは、次のような経過を辿った。
 1980年 1ドル=1.5元
 1985年 1ドル=3元
 1990年 1ドル=5元
 1994年 1ドル=8.7元(2重レートの1本化)
 2004年6月 実力レート 1ドル=6.88元
         現実レート 1ドル=8.28元(2005年7月21日に8.11元に切上げ)
  
 この人民元の対ドル・レートの変遷を見ると、80年代には貿易収支が赤字で、90年代以降、黒字に転換した原因は、90年代以降、1ドル=1.5元であったものを、85年には1ドル=3元、90年には1ドル=5元に切下げたためといえる。94年1月に人民元の2重レートが1本化され、1ドル5.76元から8.7元に切下げられた。輸入が減り輸出が増えるのは当然のことである。つまり90年代後半における中国の輸出の増加は、「元安」に誘導された「公定レート」による為替政策が大きく寄与していたことが分る

2)国有企業の改革
 79年の改革以前の中国では、企業は国有もしくは準国有の工場しかなく、政府直営の体制で成り立っていた。それが1991年における工業の所有制別企業数を見ると、国有企業の数は10.5万社、工業の総生産中のシェアは52.9%にまで低落している。(「中国統計摘要」92年版)
 79年以降の経済改革では非国有部門の発展が注目をあびて、国有企業の改革は後送りとなっていた。そのため、計画経済体制の下で作られ成長してきた中国の国有企業は、90年代に入って総じて経営状態が著しく悪化していた
 従来、国有企業は政府機関として運用されてきたため、税収の請負制が制度化された後では、国有企業は財政収入を保証する機関と見做されるようになった。しかし、政府支援に頼ってきた国有企業では新しい経済環境に適応できる「経営者」が不在で、80年代を通じて郷鎮企業や合弁企業との競争に勝てず、生産シェアを低下させてきていた。

 この状況を変えるために、中国政府はしばしば企業改革を加速化する必要性を主張してきた。92年7月には、「中華人民共和国企業法」(88年制定)を実施するために、国家体制改革委員会、経済貿易弁公室等が「国営企業経営メカニズム転換条例」を公布した。
 この条例により国有企業の自主権拡大のために、貿易権、販売権、価格決定権など14項目の経営自主権を決定したが、それでも「企業法」の実施はまだ国有企業組織の根本的変革を促すものにはならなかった。
 
 国有企業の根本的改革には、国有大中型企業の経営者を独立経営者として認識し、企業組織の株式化を進め、各地方政府組織から持ち株を分散させ、株式の自由譲渡を実現し、経営者に株式を保有させる必要があった。そこで90年代を通じて、国有企業の法人化改革が進行した。第1段階は、国有資産を政府の国有資産管理部門(投資公司、持ち株公司、公有資産管理当局)から分離すること、第2段階は、政府と株式保有者の役割を徹底的に分離し、非政府系法人と個人に株式を公開し、持ち株の分散化を図ることであった。

 90年代に中国政府は国有企業の株式制を推進した。統計によれば、株式制を採用している国有企業は3,220社あったが、上場企業は35社しかなく、ソフト面の整備もまだ不十分であり、国有企業の改革は今後に大きく残されている。
(小林実、呉敬錬「中国−高成長経済への挑戦」日本経済新聞社、214頁)




 
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