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(4)中央ヨーロッパに見る「東欧革命」とは何であったのか?(その2)

●チェッコスロバキア連邦共和国
★建 国
 1918年10月、第一次大戦の終了により中央ヨーロッパとバルカンを久しく支配してきたオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊した。これによりオーストリアに含まれていたチェッコスロバキアは、民主共和制を根幹とした社会主義共和国として建国した。 
 そしてトマシ・マサリクを大統領、クラマーシュを首相とする新政権が発足した。この政権は、1919年に農地改革を実施、1920年に憲法を発布、初の議会選挙を実施し、現代的福祉国家に近い国を発展させた。

 1929年の世界恐慌により打撃を受けて政治状況は不安定化し、チェッコ人とスロバキア人の対立、ハンガリー、ポーランドの領土問題、非チェッコ人の民族問題などが、ファッシズムの台頭と共に激化した。
 結果的には国の解体につながり、1939年にチェッコはドイツ保護領に、スロバキアはドイツの力により独立国になった。そしてナチス・ドイツの敗北により、両国共にソ連軍によって占領された

 1945年末、ソ連軍が撤退して再び統一国家となり、共産党を第一党とする連立内閣ができた。この国では工業が発達していたため、労働者に基礎を置く共産党は常に有力であった。しかし47年にマーシャルプランが発表されると、共産、非共産で閣僚が激しく対立したが、結果的には共産党が主導権を握った
 
 1948年5月に共産党は人民民主主義憲法を採択し、総選挙では共産党率いる人民戦線が圧勝して、ゴットワルトを大統領に選出、土地改革による富農の追放、5ヵ年計画による産業の重工業化、農業の集団化などの政策がつぎつぎに実施されて、社会主義体制が確立していった。

 1949年5月の共産党大会でソ連的体制の導入を目標に掲げ、共産党独裁による「スターリン型社会主義」が推進され、共産党内部の粛清はハンガリーなどより激しく、ソ連に忠実な「小スターリン」ゴットワルトの独裁体制が作られた。

 1956年のフルシチョフのスターリン批判は、東欧諸国に大きな影響を与えたが、スターリン死亡の直後に死んだゴットワルトの後を次いだノヴォトニー体制は、ほとんどスターリン時代に変わらない体制のままで推移していた。
 このノヴォトニー体制に雪解けが表れるのは、1963年頃からであり、急速に言論の自由化や経済改革の議論が進み始めるなど、ノヴォトニー体制の晩年は奇妙な柔軟性を持つようになった

★「プラハの春」―人間の顔をした社会主義の実現へ
 1968年は中央ヨーロッパの国々にとって、政治的に大きな分岐点となった。
 67年に改革派と保守派の対立が激化していたが、67年末になってドプチェックを中心とするリベラルな改革派が政権を掌握した。
 68年1月、ドプチェック第一書記が進めた民主化運動は、党の指導的役割の見直し、集会・結社の自由と検閲の廃止、警察支配の廃止、議会政治の復活、社会主義市場経済の導入、旅行・移動の自由、西側諸国との関係の緊密化など、政治・経済改革と冷戦終結を先取りする内容を盛り込み、「人間の顔をした社会主義」を指向した

 この新しい改革路線は、たちまちソ連指導部の疑念を呼び起こした。3月22日、東ドイツのドレスデンで行われたワルシャワ条約機構首脳会議は、このチェッコスロバキアの改革を議題とし、ソ連のブレジネフ首相をはじめとする各国首脳は、激しい批判をドプチェックに浴びせた。
 しかしドプチェックは、この会議の後も改革を緩めず、大幅な人事の交替により内閣の主要ポストを改革派で押さえた。春の訪れと共に、チェッコスロバキアで始まった自由・民主の改革は、いつしか「プラハの春」と呼ばれるようになっていた

 5月中旬、ソ連首相のコスイギンがチェッコを訪問して、ドプチェックに改革の手を緩めるように要求し、更に国防相グレチコもプラハへ来てソ連軍の駐留を要請した。その当時、ワルシャワ条約機構に加盟しいている諸国でソ連軍が駐留していない国はチェッコだけであった。チェッコでは、軍幹部のポストも改革派に占められてきていることがソ連の懸念することでもあった。

 6月20日、ソ連軍を中心とするワルシャワ条約機構軍の9月に予定されていた演習を突然繰り上げて、チェッコスロバキアの国内で開始し、その内容も実戦部隊の大演習に拡大された。
 それは12年前のハンガリー事件を思い起こさせる威嚇であり、ソ連軍の戦車や装甲車は、演習終了の1ヶ月後も国内に居座り続けた。
 
 一方、69人の市民たちが、軍事演習の1週間後に「2000語宣言」という意見広告を新聞に発表して、「社会主義体制を人間的なものにする改革の推進」を呼びかけた。この宣言はソ連を刺激し、ソ連共産党の機関紙「プラウダ」は、この宣言を激しく批判し、チェッコの共産党指導部にも圧力をかけた。

 8月3日、チェッコ第2の都市ブラチスラヴァにワルシャア条約機構の首脳が集まり、反革命状態にあるチェッコに対して「正常化」を呼びかける共同宣言が出された。この会議で、チェッコは反革命状態にあり、各国は連帯して援助を行うという共同宣言が出された。この宣言によりソ連軍はチェッコから撤退したため、ドプチェックはチェッコの改革がソ連に承認されたと誤解した。

★ソ連軍の軍事介入
 1968年8月20日午後11時、ソ連軍を主力とするワルシャワ条約機構軍は、兵14万5千人、飛行機800機、戦車7千輌という大部隊を編成して3方からチェッコスロバキアの国境を越えて侵攻した。
 翌朝、プラハの空港はソ連の軍用機であふれていた。ソ連軍は、共産党本部を襲撃してドプチェックをはじめとする改革派の幹部を逮捕した。
 指導者を連れ去られた市民は、共産党本部前に700人集まり、軍事介入に対して抗議のデモで対抗したが、銃撃戦となって85人が殺され、多数の負傷者が出た。

 当時、ソ連のブレジネフ指導部は、「社会主義共同体の利益は一国の利益に優先する」という論拠でチェッコへの介入を正当化しており、「ブレジネフ・ドクトリン」と呼ばれて、その後の東欧諸国の対ソ従属を正当化する根拠となった

 プラハの放送局は深夜の軍事介入以来、休みなしに放送を続けており、放送局前がソ連軍と市民の攻防の場になっていた。午前11時に、全ての放送は停止したが、その日のうちに地下放送が開始された。

 チェッコの国内では、それまで実権を失っていた保守派の人々がソ連と連携をとって動き始めていた。これに対してチェッコスロバキア共産党は、8月22日、占領下に地下の党大会を開催し、1543人の代議員の内、1192人が出席して、拉致されたリーダーの釈放と占領軍の撤退、改革の推進を決議した。新しい中央委員はすべて改革派で占められており、この党大会により保守派政権の擁立は大きく後退した

 8月23日、スヴォボダ大統領は、ソ連首相と直接交渉するためモスクワへ飛んだ。スヴォボタは第二次世界大戦の活躍によりソ連から「英雄」称号を受けている人物である。彼はドプチェックの釈放を命がけで交渉したといわれる。このおかげでドプチェックは、ウクライナの山中からモスクワへ呼び戻され、両国首脳による会談が開始された。

 一方、チェッコでは市民の抵抗が続いていた。地下放送の呼びかけで、毎日、正午から5分間のゼネストが繰り返された。プラハの町からは占領軍の自由な移動を妨害するために、一切の標識が撤去された。
 モスクワでは、8月26日、改革の中止、党大会の無効、ソ連軍の駐留を認める「議定書」が調印され、翌日、ドプチェックは帰国したが、ドプチェックの改革には終止符が打たれて、「プラハの春」は冬に逆戻りした。

 1969年、アレキサンデル・ドプチェックに代わってグスタフ・フサークが政権の座についた。そしてソ連との間に新しい「友好条約」に署名し、ブレジネフの制限主権ドクトリンを受入れ、党内改革派50万人を追放し、広範囲にわたる改革の撲滅に乗り出した。
 経済のニンジンで国民を消極的にし、連邦制による「分割統治」を採用して、現状維持の支持層を作り出したが、1985年にゴルバチョフが登場してペレストロイカが始まると、チェッコスロバキアの指導部は、逆に窮地に追い込まれて、フサークは退陣した

★「プラハの春」の覚醒
 チェッコ社会には、「プラハの春」以来の「正常化」が重く圧し掛かっていた。自由を奪われた国民の間には無気力、無関心が蔓延して人権擁護団体「憲章77」に集まる一部の知識人を除いて体制批判を公然と口にする人はいなくなっていた。秘密警察の監視機構は網の目のように張り巡らされて、プラハの町は陰鬱な空気に包まれていた。

 「憲章77」は、劇作家ハベルや元外相ハエクが、1977年1月に創設した知識人の反体制組織である。ゴルバチョフの登場は、保守派に改革を迫るグループには強力な援軍と映った。
 「憲章77」は、85年8月、「68年の改革を圧殺した同盟諸国指導部でさえ、今やより弾力的な措置を講じている」とする声明を出した。当局はこのグループに徹底的な迫害を加えて大衆的な広がりを封じ込めてきたが、チェッコ独立を記念した88年10月のプラハ集会に5000人の市民が参加して、69年8月のデモ弾圧以来、初めての街頭騒乱に発展した。

 88年11月、「プラハの春」の指導者ドプチェックは、イタリアのボローニヤ大学の講演で、党追放後の沈黙を破って、改革派指導部を断罪した党の公式見解の撤回と党員への復権を求めた。まだドプチェックは党への信頼を失っていなかった。
 89年は、波乱の幕開けとなった。1月に軍事介入に抗議の焼身自殺をとげたカレル大学生の追悼記念集会に、警察力をもって介入し、後の大統領ハベルも煽動罪に問われる事件が起こった。
 この事件は、政治的無関心に陥っていた国民を長い眠りから目覚めさせた。

★「ビロード革命」へ!
 1月事件を契機に、社会主義の再建を目指すクラブ「オブロダ(再生)」が発足した。元の指導的党員による反体制組織の設立は、現指導部に対する公然たる挑戦であった。ハンガリー、ポーランドの急激な変革が進み始めたのに全く動かない指導部に対する怒りは、10月18日に飽和点に達し、「憲章77」などの共催によるプラハ独立記念日集会には、前年を上回る1万人が参加して「ヤケシュ退陣」を叫んだ。
 更に11月17日に党の下部組織である社会主義青年同盟が主催したナチ占領下の学生虐殺事件の記念デモは、機動隊と衝突して143人が逮捕される騒動に発展した。

 この騒動の2日後、「憲章77」をはじめとする反体制組織の活動家を横断的に組織した「市民フォーラム」が作られた。広場では連日集会が開かれ、「プラハの春」が再来したようであった。
 群集からは「ドプチェックを大統領に!」という声が上がっていた。
 11月21日、デモ参加者は10万人を越えてアダメッツ首相は、「市民フォーラム」との対話に応じ共産党の指導的役割の見直しを約束した。
 23日にはプラハの集会参加者は30万人を越えて、労働者が多数参加した。
 25日には集会参加者は50万人になり、27日の2時間ストには数百万人が参加した。

 11月28日から12月29日までの1ヶ月間、政府と「市民フォーラム」の交渉が行われ、最終的に「市民フォーラム」が平和的に権力を掌握する「静かな革命」が進行し、「ビロード革命」と呼ばれた。これによって共産党の一党支配は崩壊し、多数党による政権が誕生した。

 この中で「チェッコスロバキア社会主義共和国」というそれまでの国名から「社会主義」が消えて、「チェッコ=スロバキア連邦共和国」に変わった。
 それによって「チェッコ」と「スロバキア」の2つの民族の存在が誇示されるようになった。そしてそれは2つの共和国への分裂に発展した

 市民フォーラムの指導者で劇作家のハベルが連邦の大統領に選出され、活動を開始した。90年に入ってからの政治課題は、対ソ関係の調整、中欧諸国との関係の確立、EUへの参加、議会選挙の実施、経済改革の実施であった。
 
 ビロード革命の間に出てきた更に大きな問題は、チェッコとスロバキアの対照的な利害関係、とりわけ民族的、地域的問題であった。結局、チェッコとスロバキアはそれぞれの歴史的伝統に合致した社会編成を模索し、両者が共存する国家のあり方を考えることになり分裂した。

★チェッコスロバキアの分裂
 1992年選挙で、チェッコ、スロバキア分離独立派が勝利し、93年1月、両共和国は分離し、2つの共和国となった。

 プラハを中心とするチェッコ地方(ボヘミアとモラビア)は、ヨーロッパ全体から見ても比較的工業の発達した地方である。もともとオーストリア社会民主党とのかかわりが強かった。これに対してスロバキアは、久しくハンガリー帝国に組み込まれていたため、経済的には遅れた農業地域であった。そのため社会主義組織が出来たのも遅く、ハンガリー社会民主党の中で活動してきた。

 両党は第一次世界大戦の中で反戦・反帝国主義の姿勢を強くしたものの、どちらの民族も「チェッコスロバキア」民族の形成と独立というスローガンを掲げたことはなかった。この「チェッコスロバキア」民族という概念は、亡命中のトーマシ・マサリクによって打ち出されたものであるが、20世紀の終わりになって結局は2つに分離された。

★チェッコ共和国
 チェッコ共和国では、連邦の経済大臣を務め経済改革を主導したクラウスがチェッコ首相に就任した。1995年12月、チェッコは中・東欧諸国で初めてOECD加盟を果たした。96年5月の選挙においてクラウス首相の市民民主党は過半数を割ったが、連立で政権を維持した。

 経済が失速する中、97年5月に通貨不安が起こり、加えて政治献金疑惑によりクラウス首相は退陣し、98年6月の選挙で社会民主党のゼマン政権が発足した。
 しかし2002年の下院選挙で社会民主党は単独政権ができず、シュピドラ社会民主党党首を首班とした中立連立政権が発足した。

★スロバキア共和国
 93年1月の分離独立後のスロバキア共和国の政局は、波乱含みで推移してきた。はじめ与党「スロバキア民主同盟」のコバーチが大統領に、スロバキア独立の推進者であったメチアルが首相に選出された。
 メチアル首相の過激な言動や強引な人事から「スロバキア民主同盟」からの離党者が続出する一方で、大統領と首相の確執が表面化した。

 94年2月には与党内部の分裂のため、与党は少数党に転落して9月の選挙では「スロバキア民主運動」が第1党に帰り咲いたが、組閣は難航して、12月にメチアル連立内閣が成立した。

 98年9月の総選挙では反メチアル勢力をまとめた野党連合が勝利し、ズリンダ連立政権が誕生した。新政権は、EU加盟、NATO加盟など、西欧よりの協調路線を敷くと共に改革を推進した。2000年3月EUへの加盟交渉を始め、12月にOECD加盟国となった。

●ハンガリー共和国
★建 国

 第一次大戦でオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊した後、1919年に民主主義革命が起こり王政を廃止してハンガリー共和国が成立した。一時的にベラ・クンの率いるソビエト共和国が誕生する時期もあったが、20年のトリアノン条約で領土の3分の2と住民の半数を失い、政体は王政にもどった。

 失地回復の要求から30年代に右翼急進主義が成長してドイツ、イタリアに接近し、その援助で38-40年に割譲した領土は返還されたが、代わりに第二次大戦ではドイツ側での参戦を余儀なくされた

 44年3月にソ連軍が侵攻して、国土が戦場化する悲劇を招いた。45年4月、ソ連軍は、ハンガリーの全土からナチスの勢力を追放した。ハンガリーの人々は、ソ連軍の進行をナチスからの開放と受け止めた。
 
 臨時政府は首都ブタペストに移ったが、国土は疲弊しており、国富の40%を失っていた。臨時政府が真っ先に行ったのは土地改革であり、社会主義的改革が進行した。45年11月、はじめて自由投票による総選挙が実施されて、小農民党が共産党をしのいで第1党になった。しかし第1党の小農民党は、過半数の議席を得たにも拘らず、ソ連と共産党の要求で連立政権となった

★ラーコシ共産党独裁体制の成立
 48年6月、共産党と第二党であった社会民主党の統一大会が行われたものの、その後に社会民主党の幹部は逮捕された。49年5月の選挙で「社会主義労働者党」=共産党が圧勝し、共産党書記長ラーコシの独裁体制が誕生した。

 ハンガリーの共産党書記長ラーコシは、「人民の父」と呼ばれ、スターリン体制そのものをハンガリーに直輸入し、49年8月にハンガリー人民共和国を宣言した。
 ソ連軍は戦後も引き続き軍隊を駐留させて、治安、党、軍、国家機関の随所に影響力を行使していた。経済面では、重工業偏重の急激な工業化と強制的な農業の集団化など、ソ連型経済をそっくり導入した経済は破綻をきたしつつあり、民衆の不満は蓄積していた。

 1953年のスターリンの死から始まったソ連の「雪解け」はハンガリーに及び、独裁者ラーコシの対抗馬としてソ連肝いりのイムレ・ナジが登場した。
 ところが1953年7月に首相になったイムレ・ナジは、農業集団化を緩和、農民に集団農場脱退の自由を与え、重工業優先をやめて軽工業など消費財の生産を活発にした。国民生活は目に見えて改善されつつあった。
 しかし依然として共産党の実権を握っていたラーコシは、ソ連共産党指導部内の勢力闘争に乗じてナジの追い落としをはかり、55年4月にナジは首相職のみか党からも除名された。

★ハンガリー動乱
 このままではハンガリーに、再びスターリン主義が復活し、経済は益々硬直化して、その破綻は明白である。56年のソ連におけるスターリン批判以降、共産党指導部に対する労働者の不満は先鋭化していた。

 このような状況の下で、1956年10月23日、ポーランドで起こったボズナニの暴動に連動して、「ハンガリー動乱」が起きた
 それは最初、ブタペストの学生デモに始まり、やがて首都の全体を巻き込む反体制デモにまで発展した
 民衆はソ連軍の撤退、複数政党制による自由選挙、言論の自由、労働ノルマの廃止、経済に対する共産党支配の撤廃などの要求を掲げた。
 民衆は、更に、赤い星、稲穂そして金槌という共産党のマークを剥ぎ取り、ロシア語の本を焼き、スターリン像を倒した。

 翌10月24日、ハンガリーに駐留するソ連軍がブタペスト市内に侵攻した。戦車80輌に兵士1万人が動員されていた。これに対して市民たちは兵器工場から持ち出した武器で抵抗し、ハンガリー軍の一部が、市民鎮圧の命令を拒んで市民側に合流した。

 10月25日、市民たちは戦車と共に国会へ向かい、議事堂前広場を埋め尽くした。政権の即時交代と民主化を叫ぶ民衆の大きなうねりは全国に拡がり、共産党は、民衆の力に押されて、党から追放された改革派のナジを首相に任命した。
 ナジ首相は、政治犯の釈放、秘密警察の廃止、更にワルシャワ機構軍からの撤退、中立化の方針を表明し、ソ連軍にブタペストから撤退するよう要請した。

 ソ連からミコヤン副首相が駆けつけ、10月28日にソ連軍はブタペストから撤退を始めた。10月30日、ソ連軍の撤退完了の日に市民とハンガリー軍の一部は共産党本部を襲撃した。
 市民たちの強い要求を受けて、ナジ首相は、共産党の一党独裁体制の廃止とハンガリー全土からソ連軍の完全撤退を発表した。

 ソ連は、ハンガリーが火元になってヨーロッパ各地に武力行動が起こることを恐れた。ソ連指導部は、国境に大部隊を集結させて、新政府と労働者・市民の動きを監視していたが、11月4日朝にソ連軍は2500輌の戦車と15万人という大規模な兵力をもってハンガリー全土に侵攻した。

 そのためナジ政権は崩壊し、閣僚たちはソ連に連れ去られたが、国民の抵抗はハンガリー全土で1ヶ月にわたり続いた。そしてこの戦闘により1万数千人の市民が殺害された。動乱の鎮圧後、国民のほぼ全員が動乱時の行動を調べられ、500人を越える市民が処刑された。ナジの名誉回復が行われたのは89年6月のことである。

★80年代の政治・経済改革―1党独裁の放棄と市場型社会主義へ
 ハンガリーは、1980年代末から市場型社会主義を目指して経済改革に着手した。
 そして1989年、社会主義労働者党(旧勤労者党=共産党)は1党独裁を放棄し、西欧型社会民主主義に転換して、社会党に改称した。

 1989年夏のハンガリー国境の鉄条網撤去は、旧東ドイツ国民の西ヨーロッパへの大量流出を惹き起こし、東側陣営の政治体制を揺り動かす原因となった。

★社会主義の否定へ!
 90年に入ると「社会主義」一般を否定する方向に事態は進み始めた。4月の総選挙では体制内改革を主導してきた社会党が大敗し、市民グループを組織した「民主フォーラム」が連立政権を樹立した。

 94年5月の総選挙では、社会党が第一党に返り咲き、7月にホルン社会党連立内閣が成立した。財政赤字、国際収支の赤字などマクロ経済の不均衡に対処するため、緊縮的な経済政策パッケージを導入した。

 98年5月の総選挙で青年民主同盟が社会党を破り、第一党となり、7月にオルバン「青年民主連盟」議長を首班とする連立内閣が発足した。
 99年3月、NATO加盟。00年6月、議会はマードル大統領を選出した。
 02年4月の総選挙で、社会党、自由民主同盟の中道左派が勝利し、4年ぶりに政権を奪還して社会党のメジェシーが首相になり、中道左派連立政権が発足した。

(5)むすび −資本主義と社会主義の先にあるものは?
 今一度、冒頭に戻って考えてみよう。マルクスは資本主義社会の歴史を動かす力の源は、生産手段を所有する資本家という支配階級とプロレタリアという被支配階級の間の階級闘争であると考えた。
 そこで社会主義革命が起こって階級差別がなくなり、全ての生産が結合された個人の手に集中すると、公的権力は政治的性格を失うとした。つまり本来の政治的権力は、他の階級を抑圧するためのものである、と考えた。(「共産党宣言」)

 人類は、ここ3世紀に渡り、資本主義から社会主義への移行の試みを地球的規模で試行し、その過程を見てきた。そのために数千万人の尊い命が失われたほどの重い実験であった。その結果は、一体、どうであったのか?

 第一は、本来、階級のないはずの社会主義社会に「階級」が生まれて、そのことによる支配・被支配の関係が出来上がることが分かった。
 その階級とは、生産手段を占有する階級その階級に支配される階級である。
 
 この社会主義における新しい支配階級は、国家資本を占有することから、マルクスの予想に反して社会主義では公的権力が資本主義の場合より遥かに強くなり、全体主義社会を作り出し、その社会的弊害が資本主義より更に大きいことが分かってきた

 第二に、社会主義社会の中での階級対立により、社会主義生産における生産力は、資本主義的生産における生産力より低下するということが明らかになってきた。
 このことは資本主義から社会主義に移行するとした展望を完全に覆した。

 第三に、社会主義国では、市場経済を導入するのが一般的になってきた。市場経済は、原則として経済の方向を市場という不確定なものにゆだねるものである。つまり「無計画」を意味するものである。
 社会主義社会は、その初期、「計画経済」を行うことにより、経済効率を追求してきた。つまり市場経済による不効率性よりも、社会主義の計画性の効率は更に悪かったことを、上記の事実は物語っている

 第四に、人類の歴史は「階級闘争」の歴史よりは、むしろ「民族闘争」の歴史であることが明らかになってきた。このことはレーニンが、既にマルクスの理論に付加したものであるが、実は本質的に違う要素を含んでいた
 それは「階級」を横軸とすれば、「民族」は縦軸といえるものであり、支配民族と被支配民族の闘争は、実は、資本主義、社会主義に関係ないことが分かってきた。
 これこそが、21世紀においてアメリカがイラク戦争において直面しているテーマそのものなのである。




 
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