(3)唯物史観の想定からはずれたロシア社会主義
●ロシア社会主義は、「階級対立」を作り出した!
ソ連崩壊より20年前の1980年にミハイル・ヴォレンスキーという人の「ノーメンクラツーラ」という著書がヨーロッパで最大のベストセラーになった。著者は、モスクワ大学の歴史学の教授から東ドイツの哲学教授を勤めた後、1972年に西ドイツに亡命して、その後、西ドイツの大学において教授を勤めていた人物である。
「ノーメンクラツーラ」(Nomenklatura)という言葉は、ラテン語で「ある一定の分野で使用される名称や専門用語の体系」を意味する言葉であり、例えば、「解剖学のノーメンクラツーラ」であるとか、「植物学のノーメンクラツーラ」といったように使用される。
この言葉が、なんとソビエト社会に登場してきた新しい支配階級を意味する言葉になった。それは、一体、何故であろうか??
パリ・コンミューンから100年後のソビエト社会には、マルクスも、おそらくはレーニンも想像しなかった「支配階級」と「被支配階級」が出現していた。
政治的行政に全能の力を振るう事務執行、とりわけ共産党中央委員会政治局、書記局の事務執行の文書の管轄権に関わる部局別分類表とでも言うべき概念がこの新語の語源のようである。しかし、ヴォレンスキー氏によると、この新しい言葉は「ソビエト大百科辞典」にも「政治学辞典」にも掲載されていない。
1936年11月25日、第8回臨時ソビエト大会において、スターリンは史上、世界で最初の「社会主義社会―敵対する階級のない社会―が樹立された」ことを宣言した。しかし、ソ連社会におけるこの「新しい階級」は、スターリンの政権奪取の前からソ連社会に登場し始め、スターリン体制の中で確立したと思われている。
このスターリンが樹立したソビエト「社会主義国家」こそ、レーニンが言う「被支配階級を抑圧するための暴力的組織」としての国家であり、国家権力が個人の私生活まで干渉して、統制を加える巨大な「全体主義体制」であった。
「国家」の目的は、その国家が階級社会として構成される場合、通常は、まず第一に支配階級の利益の確保と実現に向かうのは当然であるが、そのための手段である国家権力は、20世紀の資本主義においては、労働運動の高まりを受けて被支配階級の安全の確保と福祉の実現に最大限努力する方向で動いてきた。
ところが階級社会がない筈の社会主義国家では、資本主義の場合より更に極端な特権的階級の利益の確保と実現のために、全国民を統制して利用する国家が支配するようになった。
「あるべき社会主義」においては、国民の中に支配、被支配の階級関係はないとするのが常識である。そのため、本来の国家目的は、国民の安全や福祉の実現に一本化されるのが当然である。
しかし「現実にある社会主義」においては、国家の生産手段を占有する「特権階級」が形成される半面で、国民の福祉や安全の実現から大きくかけ離れた国家目的のために国民は働かされ、それに疑問をもつ人々は反革命の名の下に粛清される「収容所列島」に転化していった。
ソ連の共産党中央委員会においてスターリンによる指導体制が確立したのは1920年代の後半と思われる。1926年10月、スターリンは「国の全経済に対する大規模社会主義工業の経済的優位(ヘゲモニー)」を宣言し、「比較的短い歴史的期間内に」最先進資本主義国に追いつき追い越すと述べた。
この方向に向かって1927年10月の食料危機を背景に、ソフホーズ、コルホーズなど農業の集団化が実施された。この政策は全農民階級の結束した激しい抵抗を受け、農民に「コルホーズに参加するくらいなら生まれて来ないほうがましだ」と言わせる「広範な大衆的不満」の中で実施された。(ハナ・アーレント「全体主義の起源」3、緒言)
1928年10月1日からは、ソ連の第一次5ヵ年計画が開始された。この計画が実施された結果、ソ連の国民所得は実質4年3ヶ月で2倍、工業生産は2.3倍、生産手段は3.8倍、重工業、特に機械製作工業は4倍を越えた。
外から見たソ連経済は、「世界恐慌」の中で惨憺たる状況にある資本主義経済と対照的に、輝くばかりの発展を遂げているように見えた。
しかしその裏で、その第一次五ヵ年計画による犠牲者は、900万人ないし1200万人と推定され、それに更に大粛清による犠牲者と処刑者300万人、逮捕追放500ないし900万人が加算される惨状にあったことが後で分かった。(ハナ・アーレント「前掲書」)
この五ヵ年計画の過程でソ連国家の「新しい階級」である「ノーメンクラツーラ」が形成されていった。この共産党の官僚階級は国家権力を独占し、国有化を遂行することによって、全国有財産を占有し、生産手段を支配することによって搾取階級となった。彼らは人間倫理の全てを足蹴にし、テロと全面的なイデオロギー統制により独裁を維持した。(ミロヴァン・ジラス)
●国際労働運動の変質
更に、この共産党の特権階級は、ソ連の国内で支配、被支配の階級対立を作り出すだけでなく、社会主義の衛星諸国に対する国家間の支配、被支配の関係を作り出した。このことは国際労働運動に対する裏切りとも言えるものであり、そのためコミンテルンの大会も、1924年の第5回大会頃から変質していった。
ロシア革命が起こった時、ロシアは1億4千万人の人口を抱えていたが、その内の労働者階級の人口は、わずかに300万人そこそこという状態であった。
そのため、革命の天才レーニンは、マルクスの「万国の労働者、団結せよ!」というスローガンに「被抑圧民族、蜂起せよ!」という新しいスローガンを加えた。
これは19世紀における国際労働運動をより広い視野から拡大するものであり、特にヨーロッパ中心であった社会主義労働運動にアジア、中近東を巻き込む現代的スローガンであったが、ソ連の指導者はその内容を抑圧民族としてのソ連の覇権を確立する運動に変質させた。
1919年11-12月、モスクワでコミンテルンが後援して「東方諸民族共産主義組織」第2回全ロシア大会が開かれた。そこでトルコ・タタールのイスラム教徒共産主義者で、1920年に創設されたタタール共和国の指導者となるスルタン・ガリエフが西欧の社会主義活動家が驚くほどの優れた報告を行った。
ガリエフの報告は時代を遥かに超えて、21世紀の現在において更に重要な意味を持つものであり、レーニンを驚嘆させた。
ア・ベニグセンの「スルタン・ガリエフ −ソビエト連邦と植民地革命」(1958)によると、1920年代初頭にガリエフは、「植民地インターナショナル」と「東方赤軍」(イスラム教徒赤軍)の創設を主張しており、「イスラム民族は、プロレタリア民族である」という規定に基づき、5段階の世界革命を構想していたと言われる。
すなわち、第一段階=ヴォルガ駐留地域におけるイスラム教共産主義国家の樹立、第二段階=トルコ系人民、ロシア・イスラム教徒の結集、第三段階=全アジアへの共産主義の宣伝、第四段階=アジアおよび植民地コミンテルンの創設、第五段階=先進諸国に対する植民地・半植民地の政治的ヘゲモニーの確立。
このような植民地における被抑圧民族解放運動への展開は、西欧のコミンテルン主催者を驚かせた。1923年6月、ガリエフは、スターリンにより「スルタン・ガリエフ事件」なるものをでっち上げられ党から除名され、1929年に「帝国主義の手先」として白海の収容所に送られ、1937年に処刑された。
「スルタン・ガリエフ主義」は、同じくスターリンによって粛清されたマーリン(スネーフリート)やタン・マラッカが指導した「サレカット・イスラム運動」のインドネシア革命の問題を含めて、アラブ革命、パレスチナ革命、イラン革命、トルコ革命などその後におこるイスラム世界全域を覆う現代的問題に繋がっている。
トロツキーは、西欧から始まる世界革命を提起し、スルタン・ガリエフは、中東から始まる世界革命を提起し、共にスターリンによって粛清された。
スターリンが構想したのは、コミンテルンを通じてのツアール・ロシア帝国の覇権の拡大であったと思われる。
スターリンは、コミンテルンの1924年の第5回大会においてスローガンとして「党のボルシェビキ化」を提起した。これは社会主義運動における「ロシア化」の徹底であり、レーニンが、「あまりにもロシア的」と批判したものである。
この年、スターリンは「一国社会主義論」を提起し、これによって世界の社会主義運動は、ロシア社会主義帝国の覇権を拡大する運動に転化した。
ヨーロッパ革命は、19世紀以来の世界革命の展望を失い、国際的なスターリン主義の運動に矮小化され、後進の社会主義諸国はソ連の植民地に位置づけられるという殆ど信じがたい方向をとり始めた。
その結果としてスターリン主義のモスクワ中心のコミンテルンは1943年6月8日に解散した。
●ロシア社会主義は、「民族対立」まで作り出した!
1922年12月に成立した旧ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)は、日本国のような単一民族に近い国家とは対照的に、多数の共和国や自治州から構成される多民族国家である。そして1991年12月8日、ソ連の解体とバルト3国の独立の後、12共和国が加盟してCIS(独立国家共同体)として新しく発足した。
ソ連政権を構成した共和国の数は、時期によって異なるが、その末期には15の連邦構成共和国から構成され、その内訳は次の4種類に分けられる。
(1)最初にソ連から独立した国々(バルト三国:エストニア、ラトビア、リトアニア)
(2)ロシアを中心とした国々(ユーラシア経済共同体:ロシア、ベラルーシ、
カザフスタン、キルギス、タジキスタン、の5カ国)
(3)ロシアに距離を置き欧米へ接近を図る国々(GUUAMグループ:グルジュア
ウクライナ、ウズベキスタン、アゼルバイジャン、
モルドバの5国)
(4)中立を保持する国々(トルクメニスタン、アルメニア)
かつてロシアのツアーリの帝国は、「諸民族の牢獄」といわれていた。レーニンによるロシア革命の成功により、帝政ロシアの全植民地は本来、すべて解放されるべきものであった。
レーニンは、10月革命の直後に民族自決の2原則(1.ロシアのあらゆる民族の平等と主権、2.分離・独立の権利を含む自由な自治に対するロシアの全民族の勝利)を定めており、形式的には諸民族や構成共和国は、分離・独立の自由をもっていた。
ソ連を構成する各共和国は、形式的にはその成立の時から、独立の権限や連邦から離脱を決定する権限をもっていたが、実際に離脱が始まったのは、ソ連の国力が非常に衰えを見せ始めた1990年代の初めからである。
革命後のソビエト国家の指導体制は、最初からボルシェビキと人民委員会議を媒体にした中央集権的性格が強く、ソビエト国家と民族間の対等性がうたわれているものの、実際には中央政権と共和国間の平等主義の現実には大きな矛盾が存在していた。
1936年の憲法において、ソビエト国家は、ツアーリの領土と歴史に関するロシア帝国の後継者であることを確認しており、ツアーリ時代の植民地はそのまますべてソビエト国家に取り込まれた。この時点において連邦を構成する共和国は、それぞれ1国家としての憲法を持ち、しかも自由な意思で連邦に加盟する(第13条)ことにより、諸民族を結集したものが連邦国家であるとされていた。
つまり形式的な民族平等、連邦からの分離、独立の自由を標榜しつつも、実体はツアーリの植民地をそのままロシアを中心に取り込んだ「ロシア帝国」であった。
その帝国の実体は、連邦国家全体が、共産党中央委員会、書記長、政治局、書記局、KGBを中軸とした機構で構成されており、それらの組織をベースにして中央国家機構に特権階級が形成されたのと同様に、連邦を構成する各共和国、自治共和国、自治州、民族管区にも中央と似た特権階級が下部組織として形成された。
これらの特権階級は、ともにソ連国家という共通した利権構造の上に立っているため、問題が中央と下部組織の対立として表面化しにくい難しさがあった。
構成共和国の分離・独立が起こった最初はバルト三国であった。
1990年、リトアニアで独立派が圧勝し、その年の3月に連邦からの独立を宣言した。ソ連は、ゴルバチョフ大統領がソ連憲法を越えたリトアニアの独立志向に対して警告を発し、91年1月には軍事介入に発展した。
更に、流血はラトビアに拡大したが、バルト三国の独立への志向は益々高まり、結局、1991年9月6日、ソ連の国家評議会はバルト三国の独立を承認した。
ソ連解体後、最初に挙げたように各共和国はCISに対して多様な対応を見せているが、連邦共和国には強い中央の指導力を求める要望も強い。
そのために経済的には「市場主義」を標榜しているものの、政治的には上院(連邦院)は換骨奪胎されており、下院(国家院)はプーチン大統領の与党化の傾向を強めており、地方は中央に従属する傾向が強くなっている。
ソ連における共産党独裁は拒否されたものの、CISは再びロシア帝国復活の方向に向かっているように見える。現在、報道は国営化もしくは半国営化されており、軍やKGBに繋がるグループの支配が始まった。
つまりロシアの特権階級(ノーメンクラツーラ)にとって、国家的官僚機構さえ機能していれば、社会主義でも資本主義でも、どちらでもよいわけである。
この巨大な官僚支配国家の行方は、世界的に非常に懸念される。
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