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(2)資本主義の次に来る社会は何か?

●19世紀のヨーロッパを「共産主義の幽霊」が徘徊し始めた!
 トルストイの「戦争と平和」は、ロシアにおけるナポレオン戦争を題材にした大作である。あまりに長編であるため、最後まで辿り付けない人も多い。それを見越してか?その最終章では文学というより歴史哲学の領域に属する論議がえんえんと展開されている。その内容は、ヘーゲル哲学を読むような面白さがある。

 そこでは、フランスのナポレオンは一刻も早く敗れようとモスクワへ進撃し、これに対してロシアのクツーゾフ将軍は一刻もナポレオンの敗北を遅らせようと戦った!と書かれている。歴史は、当事者たちの主観とは全く逆の矛盾した動きをしていることが少なくない。トルストイは、この歴史の矛盾を見事に描き出した。

 1812年、敗北して退却するフランス軍を追って、ロシア軍はヨーロッパへ入った。ロシア軍の将校は貴族であり、みなフランス語やドイツ語が理解できる。
 ロシアの貴族たちの子弟は、突入したヨーロッパにおいて、フランス革命により絶対王政から開放された後の自由・平等な市民社会を眼前に見て衝撃を受けた。

 その世界は、ツアーリによる専制君主の下で遅れた農奴制が支配する祖国ロシアの現実とは余りにも違っていた。衝撃を受けて帰国した貴族の子弟たちは、ロシアの専制政治と農奴制を廃止しようと皇帝に対して反乱を起こした。
 これが1825年12月14日の「デカプリストの乱」であり、ロシア革命の幕開けとなった。トルストイの「戦争と平和」は、当初、デカプリストの乱まで描くことを構想していたといわれる。まさにトルストイの「戦争と平和」は、世界革命史の1段階を、ロシア貴族社会を題材にして19世紀から20世紀にいたる流れの中で見事に描き出した

 1789年のフランス革命も国王に対する貴族たちの反抗に端を発している。「市民革命」は普遍的な歴史の一段階としてロシア史にも同じように位置づけられるものであった。
 つまり19世紀の初頭において、「フランス革命」は、歴史の法則として自国が辿るべき発展段階の一過程であるとする思想が受入れられるようになっていた。
 
 更に19世紀の中頃には、「市民革命」に続く「社会主義革命」が、ヨーロッパの強国を脅かし始めた。それがマルクスのいう「共産主義の幽霊」である。この頃、「共産主義」思想は強国に匹敵する「一つの力」と認められ始めていた。そしてヨーロッパの強国はこの思想を退治するために神聖同盟を結んだ。
 それは21世紀の現在、アメリカを中心とした一部の国々が「テロリズム」という思想に対して神聖な同盟を結んでいるのに似ている。

 この「共産主義の幽霊」を科学的に明らかにし、「共産主義者同盟」を中心とした国際的運動を開始するにあたり、カール・マルクスは有名な「共産党宣言」(1848)を発表した。そこでは、資本主義の発展によって形成された世界市場が、更に工業、商業、航海、鉄道を発展させ、そこに出現したブルジョア階級は中世以来のすべての階級を背後に押しやった。そのために世界はブルジョア階級とプロレタリア階級という2大階級の対立に単純化された、とマルクスは述べる。

 近代的な生産諸力が益々発展していく中で、それに対応する生産関係にブルジョアとプロレタリアという階級的矛盾が生まれ、その矛盾が商業恐慌の形で現れてくる。更に、その矛盾はプロレタリア階級の発展を促進し、ブルジョア=「圧迫する階級」、プロレタリア=「圧迫される階級」という階級対立を作り出す。
 フランス革命は、ブルジョア的所有のために封建的所有を廃棄した。これに対して共産主義の特徴は、ブルジョア的所有の廃棄である、とマルクスは「宣言」の中で述べる。

●フランスの「2月革命」は、社会主義への歩みを垣間見せた!
 マルクスの「共産党宣言」が発表された1848年2月、フランスにおいては7月王政があっけなく崩壊して、不況と失業に対する労働者大衆の運動が勝利を収めて、第二共和制の臨時政府が実現する「2月革命」が起こった
 更に、この革命は48-49年にかけてフランスからドイツ、オーストリア、ハンガリー、トランシルバニア、ロンバルヂア、ヴェネツィア、イタリア、ポーランドなど、ヨーロッパ一円に広まり、その後のプロレタリアによる階級闘争の重要な出発点になった

 2月革命は、1830年の「7月革命」に続いて「フランス大革命」の仕上げとしての性格を持ち、基本的にそれは「ブルジョア民主主義革命」であった。
 しかし2月革命後のフランスでは、従来、さまざまな社会主義がスローガンとしてきた協同組織の形成と労働の組織化が行われ、更に革命の動機ともなった選挙制度の改正も行われた。それは労働者階級が自己解放を遂げるための1里塚であり、その意味から「社会主義革命」へ一歩を踏み出す革命となった
 
 その状況を少し詳しく見ると、フランスでは、「7月革命」以来の産業革命の進展により、産業資本家の進出と労働者階級の台頭が著しくなっていた。
 ところが制限選挙王政下における有権者は金融資本家、大商人、大地主および産業資本家の上層部に限られており、その数は全人口の1%にも満たないという状態にあった。これを不満に思う産業資本家を中心にブルジョア共和派が勢力を拡張する一方で、空想的社会主義の洗礼を受けた労働者、インテリ、学生が社会主義共和派に集まり、それが暴動にまで発展したのがフランスの「2月革命」であった。
 
 この革命において蜂起したプロレタリアートは王政に反対し、賃金労働者に有利な社会改造の実現を目指した。その翌月のドイツの「3月革命」に参加した労働者たちは、地主貴族の支配を絶滅し、立憲制度の実現を目指していた。しかし同時にそれにより彼らの経済状態がよくなり、圧制と「不公正」がなくなることも期待していた。
 
 つまり2月革命は、市民革命の仕上げであると同時に、新しい社会主義革命への第一歩としての性格を持っていた。しかしヨーロッパ革命における歴史の転換点となった1848年6月のパリ蜂起の敗北後、反動勢力は各地で反撃に転じ、ヨーロッパ大陸の殆どの国において革命は敗北した
 その結果、フランスにおいては1851年12月にルイ・ナポレオンがクーデターに成功して、ナポレオン3世による第二帝政を迎えることになった

 その2月革命の敗北により、翌年、マルクスとエンゲルスはドイツからイギリスに落ち延び、19世紀の後半期には、ロンドンにおいて革命活動の重点を実践から理論の発展に移した活動を進めることになる。
 その後のマルクスの理論的業績が「資本論」であり、次のような日程を辿る。

1859年 マルクス「経済学批判」出版
1867年 マルクス「資本論」第一巻、ハンブルグで出版
1883年 マルクス死去
1885年 エンゲルス「資本論」第二巻発行
1894年 エンゲルス「資本論」第三巻発行
1895年 エンゲルス死去
1905-1910年 カウツキーが「資本論」第四巻に当たる「剰余価値学説史」編集発行

●挫折した「パリ・コンミューン」!
 2月革命と同時期に公刊されたマルクスの「共産党宣言」は、「万国のプロレタリアよ、団結せよ!」という有名な言葉で結ばれている。
 この「宣言」は前年のロンドンで発足した「共産主義者同盟」の綱領でもあった。
 マルクスとエンゲルスが当初から考えていた労働運動の特徴は、国や企業レベルの運動ではなく、「共産党宣言」に云うような人類の歴史を支配階級と被支配階級の「階級闘争の歴史」として捉えた国際的規模を持った階級闘争であった。
 
 国際労働運動の源流は1840年代にロンドンで作られた「正義者同盟」という秘密結社から始まる。その運動の最初のスローガンは、「人類はみな兄弟!」という情緒的なものであったが、その後、この組織は「共産主義者同盟」に合流して、マルクス、エンゲルスの思想を軸にするようになる。
 そしてこの組織は、1864年には、更に同じロンドンでマルクスが参加して結成された「国際労働者協会」(=「第一インターナショナル」)の国際労働運動に発展していった。

 国際労働者協会の創立総会は、1864年9月28日にロンドンで開催された。そしてこの総会には、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、スイス、スペイン、ポーランド、ロシアなど全ヨーロッパから多数の代表が参加した。
 その第1回の綱領文書の検討にあたっては、「共産党宣言」の定式化には及ばないものの、科学的理論で武装した労働者階級による代表政党の確立とそれによる政治権力の獲得による世界変革を提唱する運動方針が明確にされていた

 第一インターナショナルが遭遇した最大の国際労働運動が「パリ・コンミューン」であった。パリ・コンミューンとは、レーニンの言葉を借りれば、1871年のフランスで起こった史上最初の「プロレタリアートの偉大な革命」であった。
 この最初の社会主義革命に対して国際労働運動を主導していた第一インターナショナルは有効な支援活動ができず、そのためコンミューンはフランス国内でも孤立化して、テイエールによる反革命勢力に押しつぶされて第三共和制が成立することを許してしまった。

 少し詳しくその過程を説明してみよう。1870年7月19日に始まった普仏戦争においてフランスはその緒戦に破れ、ナポレオン3世は9月2日にセダンでプロイゼン軍に投降した。それによってナポレオンの「第二帝政」が終わり、9月4日には共和国が宣言されたものの、その日の夕刻に成立したパリの臨時政府は、みずから国防政府を名乗って政権をとった

 パリの労働者や急進小市民は国民軍に結集し、愛国的抗戦を叫ぶとともに社会的変革を伴う共和制の実現を要求して、ブルジョア共和派を代表する国防政府と鋭く対立した。

 1871年1月28日、フランス政府とビスマルクは休戦条約を締結し、2月12日にボルドーで国民議会が開催されて王党派のテイエールを行政長官に選出した。
 新議会は圧倒的に王党派が優勢であり、パリの民衆は国民議会の反動性を強く警戒していた。3月18日未明、テイエール政府が国民軍の武装解除のための奇襲攻撃を行ったことが、パリ・コンミューンの直接的きっかけになった。

 国民軍の武装解除に失敗した政府は直ちにベルサイユに逃れた。2月を通じてパリでは革命的大衆運動の指導機関として国民軍共和主義連盟中央委員会が権力を握り、急速にパリのプロレタリア的蜂起の中心になった。
 3月26日にはパリのコンミューン(=自治市評議会)の選挙が行われた。コンミューンは、パリ市民の自由な意思表明により、史上最初のプロレタリア国家の建設に向かって動き始めて、28日にはコンミューン成立の祝典が行われた

 パリ・コンミューンは、布告によって新兵徴募による常備軍の廃止、政治警察の廃止、教会と国家の分離、官僚制的名誉職の廃止、公職者の選挙制の導入、全ての官吏の人民に対する責任制と交代制の導入などの施策を行い、その結果として社会の全く新しい型の政治組織―プロレタリア国家制度が誕生した。

 またコンミューンの諸施策にはインターナショナルの思想や綱領が影響を及ぼしており、「パリ・コンミューン」が国際的な思想的連帯の下に進められたことを物語っている。

 政府軍はテイエール自身がパリ奪還の準備を行い、4月2日にパリ郊外で戦闘が開始された。そして5月21日には政府軍がパリに入城して、「血の週間」(スメーヌ・サングラント)と呼ばれる大量虐殺が行われた
 1871年10月1日にパリ市当局が実施した産業調査資料によると、この1年間にパリの労働人口は10万「労働単位」が減少したといわれる。(国際労働運動研究所「国際労働運動史」、第二巻、125頁)

 パリ・コンミューンの敗北の重要な要因は、フランスにおける革命政党が十分に育っていなかったことが挙げられるが、今ひとつ、第一インターナショナルによる国際的連帯運動が、直接的な支援機能をもたず、活動も行うことができなかったことが挙げられる。このパリ・コンミューンの間、第一インターナショナルは、ロンドンを本拠としたヨーロッパ労働者の結合運動体以外の何者でもないことを暴露してしまった。

 いわばヨーロッパ革命の聖地ともいえるパリで成立した史上最初のプロレタリア独裁に対して、「労働者本隊」としてのイギリスの労働運動は、何一つ寄与できなかった。その結果、パリ・コンミューンの敗北以降、どこの国においても国際労働運動に対する弾圧は非常に強化された




 
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