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(4)中央ヨーロッパに見る「東欧革命」とは何であったのか?(その1)

 ソ連の衛星国家の代表として、「東欧革命」の先駆けとなった中央ヨーロッパの社会主義諸国を取り上げてみよう。
 バルト海の南には、ポーランド、チェッコスロバキア、ハンガリーという国々が続く。これらの国々は、西欧からは西、ロシアからは東に位置することから「中央ヨーロッパ」又は「その他のヨーロッパ」(the other Europe)と呼ばれる。

 この国々は、ヨーロッパでありながら、歴史的にはスラブ寄りになっていることからこのように呼ばれており、この国々を更に南に下ると、ルーマニア、ユーゴースラビアなど、バルカン半島の国々に続く。
 東西世界の狭間で、歴史的に常に国際紛争の中心になってきた国々である。

 1980年代、この地帯から始まった民族革命が、89年の「ベルリンの壁」の崩壊を惹き起こし、更にソ連を中心にした社会主義体制の崩壊に繋がっていった。この東欧の「市民革命」とは、一体、何であったのであろうか? 

 唯物史観では、生産力の発展と共に資本主義から社会主義に生産様式に移行するはずであった。ところがソ連を始めとする社会主義諸国では、資本主義諸国より生産力が低下し、起こる筈のなかった社会主義社会の内部における「階級対立」とか「民族対立」が登場した
 その結果が「東欧革命」となって社会主義体制が崩壊していった。その挙句、最終的にはその中心をなすソ連自身が解体するという、人類がその直前まで予想しなかった結末を遂げた。

 その発端となったのが「中央ヨーロッパ」の「民族革命」であった。これらのロシアとドイツの間に挟まれた国々は、日本人には少しなじみが薄いものの、19世紀にはドイツとロシアの帝国主義対立の最前線となり、20世紀にはアメリカ資本主義とソビエト社会主義の対立の最前線となった。
 
 この中央ヨーロッパの現代史を通じて、社会主義革命とは何であったのか?そして、世界の資本主義、社会主義はこれからどちらへ向かうのか?を考えてみたい。

●ポーランド共和国
★建 国
 第一次世界大戦後、1918年11月のベルサイユ条約により共和国として独立が認められた。それまでは100年以上にわたり、ロシア、プロシア、オーストリア3国の分割支配下にあった。

 1939年8月23日、ドイツとソ連は不可侵条約を締結した。ポーランドはドイツとソ連に挟まれた緩衝地帯にある。驚くべきことに、この条約によりポーランドが両国で2分されることが勝手に決められた。
 9月1日、まずドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発した。その5日後、ヒットラーは、ポーランドは国家として存在しない、と公言した。ソ連が続いて9月17日にポーランドへ侵攻して、モロトフもヒットラーと同じことをいった。そしてポーランドの国土は、ドイツとソ連によって一方的に2分割されてポーランド国家は消滅した

 亡命政府がパリ、ロンドンと移転する間に、ソ連占領地域では100万人以上がソ連により流刑となり、その半数が死亡した。一方のドイツ占領地区では、600万人が虐殺された。
 ポーランド人は、ヨーロッパ全体と自分たちを概ね一体視してきており、西のキリスト教世界との一体性があるが、ロシアは今なお自国の一部と考えており、東西勢力のハザマで過酷な歴史を生きてきた国である。
 
 1940年のカチンの森やその他ソ連領におけるポーランド将校の虐殺やソ連が傍観する中でドイツ軍に鎮圧された1944年のワルシャワ蜂起などにより、ポーランドは「ヨーロッパの屠殺場」といわれるほど、ヨーロッパのどこよりも多く人民が虐殺され、その数は人口の6分の1以上に上ったといわれる。
 1939年から1944年の間で、ワルシャワに120万人いた住民の半分以上が殺された。そのため1945年のソ連軍によるポーランドの「開放」は、ポーランド人からすれば、ナチスからソ連に占領が代わっただけという感情を残した。

★全国的なソビエト化
 ソ連によりワルシャワが開放され、ポーランドの臨時政府がワルシャワへ入ったのは45年1月17日であり、6月28日にオスプカ・モラフスキを首相とする挙国一致臨時政府が発足した。

 ポーランドでは、1944-1945年にかけ、全国的にスターリン主義によるソビエト化が行われ、非共産系の勢力が弾圧された。ポーランド共産党は、1948年末で130万人に党員を増やす一方で、ポーランドの特権階級=ノーメンクラツーラは、ヤルゼルスキ政権の下で勢力を伸ばして、党と国家機構の腐敗・汚職が広がっていった。

 1952年のポーランド憲法は、「ファッシズムに対するソ連の歴史的勝利がポーランドの土地を解放し、ポーランド勤労人民の権力獲得を可能にした」と書きソ連軍の役割を認めているが、実際には1939年9月のソ連によるポーランド領土半分の併合により、ポーランド人120万人がソ連に連行された。

 党員数は1970年12月の労働者暴動の後、11万人の党員を失ったものの、それでも200万人で、80年代のギエリク時代には300万人を越えたが、一方では離党者も激増していた。

★自由労組―「連帯」の誕生
 1980年8月14日、バルト海に面した造船の町グダニスクのレーニン造船所において、労働者が工場を占拠するストライキが起こった。
 そのきっかけは食料品の値上げであったが、まもなく社会主義体制に対する政府抗議運動に拡大し、最終的にストライキに参加した工場数は500に上った。
 
 その中から社会主義体制の下では許されなかった全国組織の自主管理労組の「連帯」が、9月17日に300万人が加盟して誕生し、その後、急速に勢力を拡大していき、一方で共産党の権威が失墜することになった
 
 共産党の一党独裁の下では労働組合は党の支配下にある「官製労組」に限られている。その中で「自由な労働組合」を作ることは「一党独裁体制」への挑戦であった。
 そのため、この時、政府と「連帯」が共に懸念したのは1968年にチェッコの「プラハの春」の際に、ブレジネフがポーランドの共産党(統一労働者党)大会で行った「社会主義全体の利益のためには一国の主権も制限される」とする「ブレジネフ・ドクトリン」と称するソ連政府の見解であり、それに基づくワルシャワ条約機構軍の軍事介入の可能性であった。

 1980年秋には、ポーランドにおいてソ連を苛立たせる事件が次々に発生していた。9月21日には「連帯」が集団農場に加わらない個人農家に拡大したことにソ連は衝撃を受けた。11月には「連帯」の指導によるストライキが軍事上重要な意味を持つ鉄道にまで拡大したこともソ連の指導部を硬化させた。
 更に、12月3日には、アメリカのカーター大統領が、ポーランド国境におけるソ連軍の増強を発表して、米ソ関係まで緊張する事態となった。

 1981年3月、「連帯」の加盟者は1千万人に上り、ポーランド全労働者人口の8割に及んだ。この時点でワルシャワの北西の地方都市で、農民「連帯」の団体登録問題で「連帯」が排除され、暴行を受ける事件が発生した。この事件が政府に対する「連帯」の全国時限ストという全面対決に発展した。
 ソ連の軍事介入の危機は更に高まり、3月31日にワレサ議長が個人の責任で政府と妥協するという結末を迎えた。

★ヤルゼルスキの軍事クーデターと「連帯」の非合法化
 この月、ポーランド国内ではワルシャワ条約機構軍の軍事演習が行われていた。この演習が突然延長され、月末にはポーランドに対する軍事介入ぎりぎりの状況にあった。10月16日、カーニャ党第一書記は辞任し、ヤルゼルスキ将軍が後任の座についた。
 81年12月13日、ヤルゼルスキはTVを通じて戒厳令を施行し、布告と同時に「連帯」の幹部を「国家転覆」の罪状で拘束し、その活動を停止させた。
 
 ポーランドは、共産党の弱い共産国家であった。そのため「連帯」、ポーランド共産党、ソ連指導部が三すくみとなって混迷の度を深めていた時、ソ連介入を避けるためとった方法が、ヤルゼルスキの戒厳令であった。
 この軍事クーデターにより、「連帯」は非合法化され、ヤルゼルスキは、「連帯」の活動家6000人を拘束して、暗殺された活動家も90人以上にのぼった。

 戒厳令は、ポーランド社会を公然、非公然に2分した。政府が82年10月に、「連帯」労組を正式に禁止したため、「連帯」の組織は地下に潜り、「連帯」以外の非合法政治組織も誕生して活動を始めた。
 軍事クーデターにより確立したヤルゼルスキの政権は、権力主義的であったが、この軍人の党は旧タカ派を無視し、実際主義的な派を支持したため、マスコミも以前より遥かに自由に状況を伝えるようになった。
 この時代には行政の恣意に対する一連の歯止め機構が整備された。たとえば、行政裁判所(82年)、国家法廷(82年)、憲法法廷(85年)、オンブズマン(87年)などであり、いずれも共産圏においては画期的なことであった

 その頃、ポーランド経済の崩壊は、東欧圏の中でも際立ってひどくなっていた。1980年から1986年の間にGNPは4.3%減少し、一方で実質賃金は17%下落した。1987年のインフレ率は26%、1989年のインフレ率は100%になった。
 更に西側諸国の経済制裁と債務危機が加わり、ポーランドは現金決済でなければ貿易決済が出来ないところまで追い詰められていた。このような状況の下、1988年3月には、ポーランドの新聞は人口150万人のワルシャワに1万5千人のホームレスがいることを伝えている。

★「ブレジネフ・ドクトリン」の消滅―「連帯」の復活へ!
 1986年9月、ゴルバチョフは、同盟国に対する「力の脅迫あるいは行使を控えるという約束を守る」という全欧安保会議のストックホルム文書に署名した。
 これによりソ連が同盟諸国圧力を加えてきた「ブレジネフ・ドクトリン」は存在しなくなった。この同じ月に、ヤルゼルスキは、「連帯」の指導者を含む全政治犯の恩赦と国家評議会議長付き諮問会議の招集という改革を行った。これは共産党を介さずに直接、大統領に意見を具申できるという画期的なものであった。

 更に「第2段階」として、87年10月に、法治国家の再建、ノーメンクラツーラ制の見直し、言論の自由、結社の自由、代表者選択の自由のような政治的自由の拡大、「連帯」との対話、地方自治、国民投票など、従来の社会主義国では考えられなかったものであった。

 87年改革で最も注目されるのは、国民投票であった。これはポーランドでは、共産党政権下で廃止されていたが、87年復活し、同年実施された。
 そのテーマは、急進的な政治・経済改革に対する賛否であった。国民投票は。87年11月29日に行われ、政府はこの国民投票に敗れた。

 87年5月、ワレサの周辺に知識人からなる「60人衆」が形成された。これが後の「連帯」市民委員会の中核となり、9月には、地下組織の「連帯」暫定評議会と公然組織であった「連帯」全国委員会が解散して、ワレサを委員長とする全国執行委員会ができた。
 この組織からは急進派がはずされ、穏健派の指導権が確立し、「連帯」穏健派は政府の改革政策を公然と評価するようになった。

 88年春にクラクフのレーニン製鉄所から始まり、5月にはグダンスクのレーニン造船所まで波及し各地に広がったストライキへの参加者は、80年8月のストライキを知らない若い世代に代わっており、共産党改革派や「連帯」穏健派の統制を外れたものになっていた。そして8月になり再びストが広がり始めた。

★「円卓会議」―非共産党政権の誕生
 この中で89年夏、ポーランド共産党改革派の提案の中に、突然、「円卓会議」という方式が登場し、その後の社会主義諸国の定番になった。「円卓会議」は、席につく者に上下関係がないという漠然としたイメージではあるが、暗に共産党の指導的役割を否定したものであった。
 その構想は、政府スポークスマンのウルバンが80年秋に、党第一書記のカーニャに建白書を送って提案したことに由来するといわれる。(「ポーランド-連帯10年の軌跡」、NHK取材班「社会主義の20世紀」第3巻所収)

 1989年2月6日、民主主義への転換に関する「円卓会議」がワルシャワの国会議事堂で開催された。正式の参加者は57名で、そのうち野党・連帯側は25名であった。この段階で連帯労組はまだ合法化されていなかったが、報道の自由は完全に確保されており、議会を超えた国政の基本問題を審議する場になった。

 円卓会議における合意に従い6月に自由選挙が実施され「連帯」市民委員会の側が圧勝する結果になった。その結果、ポーランドの政界に大変動が起こった。
 新生国会は党第一書記のヤルゼルスキを大統領に選出したが、内閣は「連帯」のマゾビエツキを首相にした社会主義国で初めての非共産政権、「連帯」のマゾビエツキ連立内閣が誕生し、東欧における政治体制転換のさきがけとなった

 「連帯」が主流を占めたポーランド国会は、89年12月30日、憲法から「党の指導」条項を削除し、国名を「ポーランド人民共和国」から「ポーランド共和国」に変え、国章も戦前のものに戻した。そして翌90年1月、「プロレタリア独裁」を放棄した。

 90年12月の大統領の直接選挙でワレサが当選し、「連帯」のワレサ元議長が大統領に就任した。「円卓会議」以降、「共産党の指導的役割」は有名無実となっていた。
 90年代に入り、連帯はワレサを中心にした右派と知識人グループを中心にした左派に分裂し、ワレサ派は「中道同盟」を結成、またマゾビエツキを支持する反ワレサ派は、新党「市民運動・民主運動」を結成した。

 その一方で、90年1月から、ヴァルツエロヴィッチ計画(「ショク療法」)という名の急進的な経済改革が実施された。その内容は史上経済化の重要な柱となる外国企業の投資を認める法律の制定、民営化、価格の自由化、賃金の抑制、税制改革などの諸政策からなっていた。このような急進的な改革を進める反面でポーランドは深刻な経済危機に見舞われた。

★経済の悪化―「連帯」の人気下落
 国営企業は倒産し、それに伴う生産の急激な落ち込み、それに連動した賃金の大幅な減少失業率の急増、消費者物価の急上昇などが顕在化した。1992-1993年でどん底を脱したが、当然のことであるが「連帯」の人気は落ちて、93年9月の総選挙で連帯系は議席を減らし、95年11月の大統領選では連帯のワレサに代わって、社会民主連合(SLD)のクアシェネフスキーが当選した。

 97年9月にポーランドは、社会主義時代のインフラ施設の劣化が原因となって大規模な水害に見舞われた。

 2001年9月の選挙では、旧体制の流れを汲む社会民主連合(SLD)が第一党となり、10月にミレル(SLD)を首班とする連立政権が誕生して、連帯系は議席をすべて失った。この時点でポーランドの社会主義体制崩壊の主役であった「連帯」は姿を消した。しかしその旧体制も、99年にNATOに加盟、2004年にはEUに加盟するなど、西欧自由主義諸国との繋がりは強くなった。




 
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