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(7)マレーシアの通貨危機―IMFと市場原理主義への抗戦

★マレーシア経済のあゆみ
●1次産品による貿易黒字
 マレーシアは、イギリスの植民地であった時代から天然ゴムの栽培スズの採掘が行われていた。ゴム園にはインド移民が採用され、スズ鉱山には中国人が活用された。そのためマレーシアは、もともとのマレー人が58%、中国人が32%、インド人が゙10%の多民族国家である。

 マレーシアは、ゴム、スズ、に原油、パーム油、木材に加えて80年代には、液化天然ガス(LNG)が、輸出に寄与するようになり、1次産品の輸出が大きいため貿易収支は黒字であった。しかし政府は増加する人口に就業機会を容易するために工業化を重視するようになった。

●輸出指向型工業の導入と産業の近代化 ―ルック・イースト政策
 70年代には、政府は「輸出指向型」の工業を目指し、自由貿易地域、電子産業特別奨励措置、保税工場などの制度が導入された。日本とアメリカの半導体産業や合成繊維産業が進出し、マレー系の人々を中心とする雇用が増加した。

 マレーシアは、80年代中頃に低迷期を脱して以来、90年代前半、8-9%の高い成長率を維持してきた。マハティール首相は、91年3月に、日本の高度成長に範をとった「ルック・イースト」政策により、2002年までに先進国入りを目指す構想を明らかにした。

 そのためには平均7%の高度成長を維持しなければならない。それを達成するためには、金融・資本市場を整備し、設備投資・インフラ整備に必要な資金を円滑に供給し、産業構造の高度化のための金融サービスの提供を行う必要があった。

 産業近代化の推進の観点からマレーシア経済は、80年代の中頃以降、外資への依存度を高めた。70年代の外資は政府開発援助の依存度が大きかったが、80年代に入り対外債務が増加すると、直接投資への規制緩和による積極的な民間資本の導入やプラザ合意以降の日本からの直接投資の比率が増加した。
 更に、93年には欧米の機関投資家による対マレーシア証券投資も増えた。

 マレーシア政府は、国内貯蓄の有効活用のために株式市場や債券市場を育成してきており、73年にシンガポールがマレー連邦から独立した後もクアラルンプール証券取引所は、シンガポール証券取引所とは「双子の市場」と呼ばれるほど連動性の強い関係が続いてきた。

●急激な外貨導入
 マレーシアでは、93-94年における株式ブームの際に、外人投資家の投資動向により株価が大きく振れるなどして、金融・資本市場が外国資金の影響を強く受けることを経験した。
 また93年後半からの急激な外資導入により、国内の流動性管理が難しくなった。そのため94年1月3日に8.5%から9.5%に預金準備率を引き上げ、更に非居住者預金にはマイナス金利を課するといったかなり大胆な保護政策をとった。
 そのため投機的な通貨リンギット買いの動きが抑制され、マネーサプライや物価は落ち着きを取り戻した。

 マレーシアでは、外銀の支店開設認可はオフショア業務専門のものに限られており、外銀の現地法人化が義務付けられるなど、国内金融市場が外国の金融機関に対して閉鎖的な状態にあった。
 このような自由化の遅れが、アジア通貨危機においては、タイと異なる対応がとられる原因となった。

★マレーシアの金融危機
 97年5月、タイに始まった通貨危機はすぐにマレーシアに波及した。
 
 マレーシアの通貨リンギットの対米レートは、98年8月までに、1ドル2.5リンギットから4.2リンギットまで40%暴落した。同じ時期、株価指数も1012.8から302.9まで大幅に値を崩した。 このことによりマレーシアの1人当たりの国民総生産(GNP)は、96年の4343ドルから、98年には3098ドルとなり、32%も下落した。

 この経済危機は、2020年までに先進国入りを目指していたマレーシアのマハティール政権に衝撃を与えた。計画は10年前に逆戻りしてしまったのである。
 97年5月から7月にかけ外遊していたマハティール首相は、通貨危機の背景に投機家の政治的意図があるとしてジョージ・ソロスを名指しで批判した。
 そしてヘッジファンドとIMFに対する徹底抗戦に出た
 
 まず8月28日にクアラルンプール証券取引所総合指数を構成する優良100銘柄の決済期限短縮化と空売り禁止を発表した。このような規制は、市場原理に反するとしてマレーシア株は急落した。

 このため9月4日に規制は撤回され、逆に政府は東南アジア最大の水力発電所建設、クアラルンプールの世界最長の商店街建設など、大型プロジェクトの延期と通貨リンギット危機の原因である経常赤字削減策を発表せざるをえなくなった。

●マハティール首相による投資家批判
 しかしマハティール首相の苛立ちはつのり、9月20日に香港で開催された世銀・IMF総会の講演において、首相は、「実需を伴わない通貨取引は不必要,非生産的、不道徳で、法律で規制すべきである」であると述べ、マハティール首相の批判の対象は市場原理そのものにまで広がった
 
 このことは資本勘定における為替取引への規制を示唆するものと投資家に受け止められ、リンギットのみでなく他のASEAN諸国の通貨まで売られた。
 10月になると、マハティール首相は、ユダヤ勢力とイスラム勢力の争いに結びつける批判を展開した。このマハティールの過激な投資家批判を受けて、国際社会では米国を中心にマハティール退陣をも求める声が上がったが、逆に国内ではナショナリズムが高揚し、マハティール支持運動が活発化した

 アジア通貨危機は、予想を超えて長引き、12月にはマハティール首相による投機家批判のトーンは落ち、IMF型の通貨危機への緊縮政策の検討を命令した

 98年に入ると、マレーシアの実体経済は急速に悪化した。消費、生産、投資など、あらゆる項目で縮小が見られ、実質GDP成長率は98年1-3月期にはマイナスになった。景況の悪化を背景に金融部門の不良債権が急増し、金融システム不安が広がった

 景気後退が深刻化したことで、マハティール首相の求心力は弱まった。まず高金利政策と財政緊縮が実体経済を悪化させたとするマハティール首相と、自主的IMF政策の継続を求めるアンワル副首相が対立し、両者の足並みが乱れ始めた。

 マハティール首相は、国際投機家とIMFプログラムへの批判を強め、97年の年央に訪日した時にも、先進国の資本家を「市場の圧力を利用して世界支配を狙うニューキャピタリスト」として、「かつての植民地時代のようにアジア経済は外国の巨大資本の支配下に置かれるだろう」と警告した。また「IMFをはじめとする国際機関や海外メデイアは、外国資本家の活動を助けている」と批判した。

 7月、マレーシア中央銀行は、法定準備率の引き下げ、国内金利の低下容認などの金融緩和策や70億リンギットの追加財政支出、50億リンギットのインフラ開発基金の設置など景気刺激策を実施し、凍結されていた一部のインフラ・プロジェクトも再開された。そして国家経済行動評議会(NEAC)は、経済再建計画を発表して、「自主的IMF政策」の修正を宣言した
 マハティールは、IMFと外国資本に全面戦争を宣言したわけである。

●マハティールとIMF政策の全面戦争
 98年8月下旬にマレーシアの4-6月期の経済成長率が発表されたが、景気は一段と悪化していた。このままで国民の不満が高まれば、マハティール政権の基盤を揺るがすことになる。そこでマハティール首相は、大きな賭けに出た。

 8月29日、反マハティールの中央銀行正副総裁を「高金利政策で経済を悪化させた」として解任。9月はじめに、国外でのマレーシア通貨・株式の取引、国外への資本持ち出しの制限、リンギットをドルに固定する(=1ドル、3.8リンギット)措置を発表。9月2日に反マハティールの副首相・蔵相アンワルを解任、その後に、逮捕までした。

 マハティールによる規制の目的は、明らかに国内経済・金融政策における主導権を確保することにあった。そしてIMFの政策とは全く逆に中央銀行による法定準備率・政策金利の大幅な引下げを実施した。
 更に、その後に、(1)公的資金を使って株式市場での株価の底上げ、(2)建設・不動産部門向け融資の総量規制の緩和、(3)銀行の不良債権管理・引き当て規準の緩和、などの措置を打ち出した。

 このような市場原理に反する政策をとった場合、当然、投資家たちの信認が失われて、資本はマレーシアから逃げ出し、為替相場は急落する。
 マレーシアの諸規制の導入は、その資本移動を規制し、国内に封じ込めるためのものであった。この線に沿って、98年9月1日、マレーシアは、更に、非居住者の自国通貨の持ち出し禁止する措置をとった。これは「わが国の資産を防衛するための最後の手段だ」と、マハティールはいった。

 外国企業などの非居住者のリンギット取引はすべて中央銀行の許可制にした上に、非居住者から居住者へのリンギット移転も許可制にした。非居住者が購入したマレーシア株式やリンギット建ての資産を売却して得た外貨は、1年間、海外への持ち出しを禁止した。また居住者の国外持ち出しも1万リンギット以下に制限した。
 また1米ドル=3.8リンギットの固定相場制を導入した。金利も引き下げた。

 しかしマレーシアの国内産業は、建設業を中心に企業収益が急速に悪化した。それが銀行の不良債権の膨張と貸し渋りを齎し、国内の資金流動性を著しく低下させた。そして98年2月から8月までに倒産した上場企業は30社に及んだ。
 しかしマハティールが主導した金利の引き上げと公共工事の継続は、国内需要を喚起し、98年第4四半期にマイナス11.2%のまで落ち込んだGDPの成長率は、99年第1四半期にはマイナス1.5%まで回復した。

 97年1-11月の貿易収支は2億6500万ドルの赤字であったが、98年1-11月には、135億4000万ドルの黒字に転換した。そのため99年2月には、株式売却益の国外持ち出しを1年間、禁止するという措置を、一定の税金を払えば国外に売却できる制度に緩和された。
 
 98年の半ばからは、住宅や自動車の購買意欲が目に見えて上昇し、輸出も大幅に伸び、経済は明らかに好転した。そして99年9月、株式売却益の国外送金が無条件で解除されたが、懸念された大量の資金流出は起こらなかった。IMFとマレーシアとの戦いは、軍配はマハティールの方にあがった。
  
★通貨危機後のマレーシア
 2001年にはIT需要の落ち込みでマレーシア経済は急減速したが、02年からは、アメリカ経済の復調と共に、輸出が復調し、マレーシア経済は回復軌道にのった。
 通貨リンギットの1ドル3.8リンギットの固定相場制は維持されており、外貨準備、対外債務残高は、98年以降、安定した額を維持している。

 しかし貿易収支は黒字ではあるが、99年以降、毎年低減しており、経常収支の黒字もGDP比で10%を割り込んできた。財政収支の赤字は、逆にGDP比で5%を超えて増加している。

 03年10月には、81年以来続いてきたマハティールの長期政権が終焉を迎える。首相の後継には、アブドウラ副首相が予定されているが、強い個性で長期・戦略的にマレーシアをリードしてきたマハティール後の政治・経済の方向が懸念される。




 
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