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(4)タイの通貨危機 −アジア通貨危機の口火

★タイ経済のあゆみ ―輸出重視の教科書的・模範的経済政策

●民間主導の経済開発
 タイは、歴史的に外国から民間資金を導入して国内経済を発展させる政策をとってきた。1950年代に軍事政権に代わったサリット首相は、世界銀行の指導に従い、政府主導の経済開発から民間主導の経済開発へ転換をはかった。

 20世紀後半のタイ経済を見ると、経済学の教科書通りの模範的な発展をとげつつあったが、そこにアジア通貨危機が最初にタイを襲った原因もあった。
 1962年に「産業投資奨励法」が改正され、外国からの直接投資の規制がなくなった。これにより、60年代には、日用品、繊維、自動車、家電など輸入品を国産品に置き換える「輸入代替型」の工業化が進展した。

 「輸入代替型」の工業化が進むにつれて、機械設備や原材料の輸入が増加し、貿易赤字が拡大した。そのため1970年代のタイ政府は、コメ中心の「国内資源活用型」の輸出産業と輸出指向型の工業を重視した輸出に重点をおいた経済政策に転換した。バーツはドルにリンクしているため、70年代のドル安の進行によりバーツも下落したため、輸出は増加した。

 1980年代、前半は1次産品の価格の下落により、貿易赤字が再び拡大したが、後半には1次産品の国際価格も回復し、急激な円高による日本企業の進出を含めて、外国企業の投資が増加した。コンピュータ部品、通信機器、エアコン、TVなどの生産と輸出が開始され、商業や観光など第3次産業も成長した。

 90年代に入り、タイの金融当局は、金融システムの整備が経済発展に不可欠であるという認識を強め、金利の自由化、法制度の整備、金融・資本市場の改革、為替管理の緩和、金融機関健全性の方策、決済システムの充実を相次いで実施してきた。更に93年3月には、国際金融ビジネスの中核となるべきオフショア市場を設立し、金融国際化への施策をすすめてきた。

 また産業構造も、インフラの整備、自動車産業、エレクトロニクス、その他のハイテク産業の育成に力を注ぎ、輸入誘発的な産業構造を輸出能力の高い産業構造へ転換する努力を行ってきた。しかしその結果として中間財、資本財の輸入が増加し、貿易、経常収支が悪化するという問題点が出てきていた。

 通貨バーツの交換レートは、ドルにリンクしているため、為替差損の心配もなくドルの効率的な運用に極めて有利な状況があった。しかも証券市場では、配当利回りは80年代には8-9%で、90年代に入り下がったが、2-3%の高い水準にあった。つまりタイは、外貨を利用して国内経済を発展させるための、効率的な経済・金融体制が90年代初頭に作られていた。
 
 経常収支の赤字は95,96年にはGDPの8%に達して、経済悪化の兆候が96年頃からいくつも出始めていた。輸出の伸びは史上初めて前年度を下回っていたし、94年に開発のピークを迎えた不動産市場は供給過剰となりバンコックのオフィスの空室率が15%に達した。
 不動産向け融資を中心に不良債権が増大し、銀行・ファイナンス会社の経営悪化がすすんでいた。その兆候の一つは、96年5月にバンコック中央銀行の貸し出しの47%が不良債権で、その多くは頭取と関係者向けであることが明らかになった。

●日本の民間資本の進出と撤退 −アジア通貨危機の原因
 一方、90年代前半、急激な円高の進行により国内の生産では採算が取れなくなった日本の製造業は、一斉に生産拠点を海外に移行させ始めた。この動きがタイのインフラ整備、自動車産業、その他ハイテクなど産業構造の高度化への動きに連動して、日本から大量の資金がタイにも流入して、経常収支の赤字が累増した、

 95年4月以降、円高の流れが急に変わり円安にぶれ始めた。そのためドルにリンクしているバーツは円に対して相対的にバーツ高になった。しかも日本の円安の動きは、96-98年にかけて加速し、98年6月には1ドル148円という7年10ヶ月ぶりの円安を記録するところまでいった。

 この円安、現地通貨高による円資金の動きは、それまでの日本の製造業の海外進出の動きを一変させてしまった。この円安―日本の製造業の海外からの撤退が、アジア通貨危機を作り出し、深刻化させた。(cf.リチャード・クー「投機の円安・実需の円高」、関志雄「円と元から見るアジア通貨危機」など)

 96年9月には、ムーディーズがタイの短期貸付の格付けを引下げ、年末には、
法人向け融資の14%が不良債権であることが公表された。この経済悪化の中で、タイでは既に96年からバーツ売りが始まっていたが、97年2月にムーディーズがタイの長期的な為替格付けを引き下げる方向で見直すことを発表した頃から、バブル崩壊を感じたヘッジファンドが、バーツを投機売りの対象にし始めた。
 
 97年3月には、株式市場で銀行・金融関連株が売り浴びせられる事態になった。
 金融不安も始まり、3月1日には大手ファイナンス会社が銀行に吸収され、政府は経営難に陥ったファイナンス会社10社の実名を公表して,不安の沈静化に努めたが、銀行から預金の流出は続いた。5月には外貨準備は40億ドル減少、6月には更に10億ドル減少した。
 
★バーツ暴落
 1997年5月13日、タイの通貨バーツに対するヘッジファンドによる大規模な投機売りが始まった。ジョージ・ソロスのクオンタム・ファンドも参加し、更に、ヘッジファンドだけでなく、欧米の金融機関が売りに参加した。
 ドルとバーツの取引量は1日で60億ドルを越え、市場はバーツ売り一色となった。

 
 タイ中央銀行は、5月13日の1日で63億ドルのバーツ買いを行ったが、下げはとまらず、翌14日にはバーツは、1ドル26.2バーツという10年来の安値をつけ、シンガポール、マレーシア、香港、タイの4カ国の協調介入は100億ドルに上った。

 5月15日にタイ当局はバーツの国外持ち出しを禁止短期金融市場で引き締めを行い、短期の為替スワップ金利は、シンガポール市場で1,000%をつけた。

 5月16日には、バーツ売りが一段落し、タイ首相官邸でバーツ防衛成功祝賀会が開催された。ここで一旦は小康を得たように見えたが、323億ドルあったタイの外貨準備は、6月末314億ドル、7月末294億ドルにまで落ち込み、7月に入って再びバーツ危機が始まった。

 7月1日、バーツは、1ドル24.4バーツ、2日29.15バーツ(20%安)に下落し、7月2日、タイ政府はドル・ペッグ制を放棄し、為替の変動相場制への移行を発表した
 この日のうちにバーツは15%下がった。このタイ通貨の下落が、その後の一連のアジア通貨下落の始まりになった。

★IMFへの支援要請
 97年7月29日、タイ政府はIMFに対して正式に支援要請を行った。この段階でタイ政府が示した外貨準備は、300億ドルであったが、実際にはバーツ防衛のために外貨準備は、ほとんど半分以下に減少していた。

 タイ政府は、IMFとの間で支援条件を調整し、その合意内容を踏まえて、8月5日に包括的経済構造再建計画を発表した。その計画の内容は、経済成長率を3-4%に抑制する、インフレ率を1ケタ台に収める、経常収支の赤字をGDPの3%以下に抑えること、などを目的にした超緊縮的なものであった。

 そのための手段としては、金融面では引き締めを通じて高金利を維持することとされ、財政面でも98年度予算において590億バーツの歳出削減、付加価値税率の引き上げなどの措置がとられ、財政収支は対GDPで1%の黒字を達成することとされた。
 既に広がりつつある国内金融システム不安への対応として経営危機に陥った金融会社42社に営業停止命令が出され、残りの金融機関に対しても貸し倒れ引当金の積み増しと増資による体質強化が要請された。

 タイとその後のインドネシア、韓国に対するIMFの融資条件(コンディショナリティ)は、共通して(1)金融引き締めと緊縮財政、(2)金融システム改革の推進、(3)貿易・投資のいっそうの自由化を求める厳しいものであった。
 IMFによる融資条件の根底には、総需要抑制により、経常収支を均衡させ、同時に高金利政策により海外への資本流出をとめることにより為替相場を安定させようとする発想があった。

 タイに対するIMFの要求は、97年11月以降、4回の修正をへて、98年8月の第5次趣意書以降、インフレ率が1桁になる見通しがたったので、金融・財政政策の大幅な修正が容認されるようになった。
 新しい金融政策の重点は、高金利政策による国際信用力の回復から、深刻な信用収縮の解消に移された。また財政面では、それまで凍結・延期されていたインフラ投資の一部を再開し、雇用機会の創出を図ることが求められた。

 その後もタイ経済と金融情勢の悪化が続いたので、12月の第6次趣意書では、金融緩和の積極化とGDP比5%の財政赤字容認といった内容が盛り込まれるようになった。

 タイへの支援額は、IMFだけでは不足して、次のようになる。

IMF 40億ドル
世銀、ア開銀 27億ドル
日本 40億ドル
その他国 65億ドル
総計 172億ドル

★通貨危機後のタイ経済
 タイの不良債権率は、99年5月をピークに低下に転じ、ようやく整理の山をこえた。生産面でも、国際経済環境の好転から輸出が回復し、99年のGDPは予想以上の回復となり、2000年も拡大が続いた。

 21世紀に入ると、タイは通貨危機の影響からは、明らかに抜け出し、IMF優等生といわれるまでになった。しかし2001年には、アメリカのITバブルの崩壊によるエレクトロニクス製品の輸出減少により深刻な景気後退に陥った。
 
 しかしタイの景気後退は長期化しない見通しで、2001年後半以降の景気対策が功を奏して、03年以降も緩やかな輸出増の持続に支えられた景気回復が続くと思われている。

 不良債権処理は、01年7月、公的資金によって商業銀行の不良債権を買いとるTAMAC(タイ資産管理会社)を政府が設立して行ってきた。ピーク時には、47.4%あった不良債権比率は、02年6月には、10.2%と劇的に減少しており、06年までには不良債権問題は解消する見通しといわれる。




 
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