アラキ ラボ
どこへ行く、世界
Home > どこへ行く、世界1  <<  35  36  37  38  39  40  >> 
  前ページ次ページ
 

(6)韓国の通貨危機 ―金大中大統領による「開発独裁」体制の解体

★韓国経済のあゆみ
●朝鮮戦争の廃墟からの出発
 朝鮮半島の経済は、南北共に1950-53年の朝鮮戦争によりほとんど破壊された。そのため韓国の経済発展は、戦後の復興から始まる。日本の植民地の時代、日本の経済政策では、主要産業を、北部を工業、南部を農業として経営したため、1950年代には経済的には韓国より、北朝鮮の方が復興に成功しているように見えた。

 1960年代まで、韓国は「低開発国」であり、韓国国民の大部分は貧窮の中に置かれていた。1960年4月、選挙の不正に抗議して始まった学生運動は、全国的な反政府運動に発展し、そのため李承晩政権は崩壊した。
 60年8月に、張勉の政権が成立して、張勉は、国会演説で経済第一主義を強調したが、1961年5月に軍部がクーデターにより政権を掌握し、朴正熙による軍事政権が成立した。

●軍事政権による開発独裁体制
 韓国の軍事政権は、その後、92年12月に金泳三が大統領に選ばれるまで30年にわたって続いた。その間に軍事政権がとった経済政策は、典型的な「開発独裁」政策であった。その間に出来上がった韓国経済のひずみは、アジア金融危機の中で一斉に表面化した。韓国にアジア危機が波及したのは、金泳三政権の末期であり、そのため、後をうけた金大中政権は、正式な就任前から金融危機に対する対策に取り組むこと余儀なくされた。

 韓国の金融危機に際しての金大中政権による抜本的な構造改革により、韓国経済は見事に再建されたが、其れにいたるまでの韓国経済のあゆみを振り返ってみよう。

 1963年10月大統領・朴正熙は、北朝鮮の脅威に対抗するためには、経済開発が不可欠であると考えた。そこで、国内の反対を押し切り、日本と基本条約を締結して、援助と支援をうけることにした。更に李政権時代の産業保護政策を廃止して、輸出に重点を置いた経済政策に転換した。

 輸出を有利にするため、韓国は通貨ウォンの対ドル・レートを大幅に切り下げ、公定金利を市場の実勢に近づけた。金利は一時的に上昇したが、その後はかえって低下した。競争の促進と産業の効率化が主要な目標とされた。

 輸出産業に対しては補助金、事業所得税、法人税の軽減・免除、輸出用投入財の輸入関税の払い戻し・免除、輸出産業に対する特恵的利子率などの措置がとられた。 
 一方、農業生産力の発展と農村生活の改善も重視され、「セマウル(新しい村)運動」も推進された。

 朴正熙政権は、「維新体制」と呼ばれる独裁体制を維持し、第1次(62-66年)、から第5次(77-81年)までの経済開発5ヵ年計画を実施した。この経済開発を通じて農業に主体があった産業構造が、工業中心の構造に変わっていった
 第一次産業の割合は、62年に43.3%であったが、72年には26.9%、86年には12.7%まで低下した。これに対して、第二次産業の割合は、62年11.1%、72年19.8%、86年34.7%に上昇している。

 工業の発展は、第1次計画(62-66)が電力、肥料などの基礎産業、第2次計画(67-71)は、化学繊維、石油化学、電気機器など資本財の輸入代替化時計工業の輸出化、第3次計画(72-76)は、鉄鋼、輸出用機械、家電など重化学工業、第4次計画は、鉄鋼、産業用機械、電子機器など国際競争力を強化するための工業化の段階を経て発展してきた。

 ●韓国・財閥の形成と崩壊
 これらの経済発展は、政府主導で行われ、83-87年の経済成長率は平均10.1%で世界第1位(韓国銀行資料)に位置するまでになった。そしてこの政府主導の経済成長を民間で支えたのが、三星、現代、ラッキーなどといった「財閥」である。

 「財閥」は、韓国特有の一族・一門支配の資本主義独専体である。日本のそれとの相違は、その数の多さと各財閥のもつ事業範囲の広さ・企業数の多さにある。
 このことは財閥の形成過程で、競争上、数や領域だけ大きくなっているが、内部的には非常に効率の悪い無駄な部分を残してきていることを示す。つまり、一旦、大きな危機に遭遇すると、全て空中分解する可能性を秘めていた

 韓国の資本・為替取引については、80年代後半から90年代にかけて急ピッチで国際化が進んだ。88年11月にIMF8条国に移行し、89年には金融機関の対外借入が自由化された。韓国では、資本取引に関する自由化は遅れたが、(1)対外投資の自由化、(2)外国人による国内証券投資の段階的自由化、(3)外為送金規制の緩和など、自由化が進行した。

 91年に外為管理法改正されて、外為取引が「原則自由・例外規制」となった。またOECD(96年実現)が視野に入った94年に外為制度改正案が発表され、20世紀中に資本取引の完全自由化を目指して規制緩和が加速していた。96年4月には、韓国人による対外証券投資の完全自由化が行われた。

 韓国は、日本の輸出産業が、93年以降の円高の進行により輸出競争力を失い、アジアに生産拠点を移しつつあった段階で特に対米輸出などを伸ばしていった。
 ところが、日本の円高は95年4月を底にして、急激に円安にぶれ始めた。95年4月に1ドル83円をつけた為替レートは、同じ4月で見ると、96年104円、97年126円、98年131円となった。そして円安と共に日本の輸出競争力は急激に回復して韓国の製造業を直撃した。金融危機が韓国を見舞ったのは丁度、この段階であった。

★韓国の金融危機
●韓国でも、97年春から外貨危機が始まっていた。
 タイで通貨危機が勃発した97年5月から7月にかけてのことである。この段階で、これが韓国に飛び火するとは、韓国の市民は誰も思わなかった。
 しかし韓国においてもタイと同様に、事態は97年春から進行を始めていた。

 97年3月26日、韓国銀行は、大統領府と財政経済院にIMFなど、国際機関から外貨借り入れを含む外貨非常対策案を提出した。これが韓国通貨危機の最初のシグナルになった。
 
 韓国経済は、90年代に入って、国際金融面での問題が表面化してきた。
 90年に317億ドルであった韓国の対外累積債務は、96年末には1,602億ドルにのぼり、逆に95年には1,271億ドルあった保有外貨は97年10月現在、公称の300億ドルを大きく割り込み、97年11月には、使用可能なものが72億ドルしかないことが分かった。そのため、この時点でウォンは急落した。
 
 97年12月19日には外貨準備量は、更に38億ドルまで減少して外貨の流動性の危機に突入した。97年10月下旬に市場ではウォンが急落し、外銀の韓国金融機関への貸し渋りで、通貨・金融危機に歯止めがかからず、ついに債務不履行(デフォルト)により「国家的不渡り」を出す寸前の重大局面になった。
 97年末には、韓国はまさに国家破産の危機に直面していた。

 97年は金泳三政権の末期であり、その中で韓国は、11月21日、IMFに200億ドルの救済融資を緊急要請、更に世界銀行や日米両政府に100-200億ドルの緊急支援を要請した。その支援要請の規模は総額570億ドルにのぼり、メキシコ通貨支援を上回り、史上最大のものとなった。

 韓国における通貨危機の根本原因は、内外需要を無視した財閥企業の過剰投資と
脆弱な金融産業
にあった。そして、この段階での不良債権額は32兆ウォン、98年度国家予算の約45%にのぼった。

 97年は韓国大統領選挙の年で、12月18日の選挙では金大中大統領が選ばれた。予期せぬ国際通貨危機のため、金大中は正式に大統領職に就任する98年2月25日までの2ヶ月間、事実上の大統領権限を行使して公共、金融、財閥、労働の4大改革に取り組み、韓国経済の危機を救うことになった。

 韓国に対してIMFが示した緊急融資の条件は、次のように厳しいものであった。
A. 緊縮財政で98年度の成長率を3%以内に抑える
B. 物価上昇率を5%に圧縮する
C. 経常収支赤字はGDP1%(約50億ドル)以内とする
D. 外国人の株式投資限度を現行の26%から97年以内に50%に拡大する
E. 外国人による国内金融機関のM&A(企業の合併・買収)を認める

 韓国に対する支援額は、次のようになる。
IMF 210億ドル
世銀 100億ドル
アジア開銀 45億ドル
350億ドル
日本 100億ドル
その他 130億ドル
第2線計 230億ドルを超える


 IMFの緊急融資の合意後に、韓国では多数の証券会社が倒産し、国内をIMFショックが吹き荒れた。政府は連鎖倒産を防ぐため、11兆3千億ウォンを貸し出したが、このことが「個別企業救済のために補助金を投入しない」というIMFとの約束違反として「摩擦」を引き起こした。

 98年1月28日に韓国政府と日米欧の民間銀行団がニューヨークで進めていた民間債務繰り延べ交渉が妥結した。 韓国の対外債務は約1500億ドルあり、外貨の収支計算をすると、98年末で298億ドルが不足することが分かった。
 そこでこのニューヨーク合意により、約80億ドルの支援が前倒しで実施され、デフォルトの危機は一応去ったが、融資返済の最大延長期間の3年以内に経済立て直しと国際信用の回復が必要になった。

●金大中大統領の財閥改革
 98年2月17日、金大統領は、財閥の系列会社の整理方針を表明した。
 財閥批判の第一は何でも手を出す「たこ足経営」であり、相互支払い保証を活用して、銀行から無制限に借り入れをし、系列会社の拡大に奔走した結果、採算性のない会社や負債比率の高い多くの「不実企業」を抱え込むことになった。
 このことが金融危機による銀行の貸し渋りで連鎖倒産を引き起こす原因になった。

 財閥の系列会社を金大統領のいうように5-6社にしぼりこむと、財閥は系列会社の8割以上を整理しなければならない。これほどの厳しい要求は、歴代政権においてかって例がなく大統領の要求は財閥を震撼させた。

 しかし98年2月財閥オーナーも財閥改革に合意し、5大財閥も不採算部門の分離、売却によるスリム化、主要業種への専門集中化など、事業の縮小・再編・統合や外国資本との提携、合併などを柱とした全面的な構造改革案をうちだした。

 98年5月には公正取引委員会が、企業間の不当内部取引調査を実施し、財閥傘下の企業の取引の公正化に着手した。

 金大中大統領は、98年2月25日「小さい政府」を目指し、政府組織の縮小、改編と公務員の大幅削減を実行し、閣僚級の省庁を21から16にした。
 金泳三政権も2万人の公務員削減をめざしたが、逆に執政5年間で4万8千人増えた。また財閥と政権との癒着が公正な競争と市場経済の発展を阻み、今日の経済危機を招いたと判断し、金大中大統領は行政機構の自主改革を求めた

 IMFの外圧による緊縮政策では、従業員のリストラが問題化し、信用格付け会社S&Pは、「韓国の労使関係が続けば、国家信用度のランクに悪影響が出る」と警告したほどであった。

 98年6月29日、金融監督委員会は、経営再建が難しい5銀行(大東、東南、同和、京畿,忠清)を優良5銀行に吸収合併し、金融改革に着手した。

 98年12月17日、金大統領主催の下、政府、財界、金融機関3者の合同会議、「財閥改革の完結」に関する最終合意を行い、韓国経済の癌ともいうべき財閥改革の仕上げが行われた。その結果、生き残りをかけての財閥間の覇権争いが激化して、主力産業は次の2社体制に整理された。
 自動車―現代354万台、大宇243万台(99.7大宇も倒産)
 半導体―三星、現代
 家電―三星、LG

 この98年に韓国経済が受けた打撃は深刻であった。従来、韓国経済の牽引役であった製造業は、過去の2度の石油ショックを遥かに超えて、ほとんど「崩壊水準」に達したと言われ、建国以来、最大の危機を迎えた。内需は大幅に冷え込み、特に輸出の主力産業において減産が加速した。その状況は、98年の円安により、更に深刻化した。98年の平均失業率は7%に達した。しかしこの年、輸入が減少し、通貨危機の原因の一つであった貿易収支は改善されて、98年の貿易収支は史上最高の黒字を記録した。しかし一方で、倒産も過去最大を記録した。

 99年に入り、証券市場は活性化し、IMF体制直前の水準を越えた。ウォンの対ドル・レートは、90-96年までは、1ドル700-800ウォン台であったが、97年1,415ウォンまで下落、その後、持ち直して98-00年にかけては1,200ウォンまで戻した。ウォン安のため96年には1人あたりのGNPは11,380ドルの最高になったが、98年には6,823ドルと半分近くまで落ちた。しかし2000年には8,910ドルまで持ち直し、韓国経済は急速に回復しつつある

★韓国経済の回復
 金大中大統領が取り組んだ大きな課題の1つが、通貨危機で疲弊した韓国経済の建て直しであった。特に、金融改革と財閥改革は、韓国の経済構造を大きく変革した。

 政府は、多額の不良債権を抱えた金融機関を整理・統合して、そのために銀行の数は、97年末の33行から02年には11行・グループに統合され、その内の幾つかは、優良行として再生した。
 財閥解体は、負債比率の抑制を義務付けたり、事業再編を促進することにより、無理な多角化をすすめた現代、大宇が破綻・解体に追い込まれたが、自社のコア事業に経営資源を集中できた三星は、世界的な競争力を持った企業として復活した。

 またベンチャー企業の育成を展開したことにより、経済の財閥依存度は低下し、通貨危機後の景気回復に寄与することになった。
 景気は、アメリカのITブームの終焉による輸出の激減や企業の投資マインドの冷え込みにより、99年以降、実質GDP成長率は、10.9%、9.3%、3.0%と低落してきた。しかし02年からは5%台に戻しており、個人消費のみならず、設備投資、輸出も堅調である。

 それらは、01年より本格化した政府のよる公共事業、減税、などの景気刺激策の効果であり、02年以降、個人消費が急増してきている。輸出はアメリカ経済の低迷の影響から、03年度には減速すると思われ、03年度の成長率は5.7%位になるといわれるが、通貨危機からの脱出には見事に成功したといえる。




 
Home > どこへ行く、世界1  <<  35  36  37  38  39  40  >> 
  前ページ次ページ