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(4)中東和平 ―イスラエルとパレスチナ(その2)
★イラン革命(79.1)とイスラエルのレバノン侵攻(82.6) 
 1979年1月、イランではパーレビ王朝が倒れて、パリから帰国したイスラム・シーア派の最高指導者ホメイニ師による「イラン革命」が始まり「イラン・イスラム共和国」が出来上がった。パーレビ国王下のイランは、一貫して親アメリカ、親イスラエル政策をとり、イスラエルには石油を供給し続けており、サウジアラビアと並んで中東におけるアメリカの権益を守る重要な柱の1本であった。

 このイラン革命により、油田地帯が集中するペルシャ湾岸でのアメリカの権益を守るサウジアラビアとイランの一本が倒れたアメリカは、「聖地(メッカ、メヂナ)の守護者」と石油ダラーの力で中東の盟主になったサウジアラビアと、エジプト・イスラエルの和平条約により中東の安定を図ろうとした。一方、アラブ諸国は、80年9月のイラン・イラク戦争により、その両派に分かれて、かってない混乱と分裂の時代に入っていた。
 
 このすきをついて、1982年6月6日、イスラエルのタカ派ベギン首相は、エジプトとの和平条約により南の安全を確保した上で、2万の大軍を南レバノンに侵攻させた。イスラエル軍は、この「ゲリラ掃討作戦」で、ゲリラ・民間人を区別なく殺し、キャンプを完全に破壊した。

 シリア軍は初期の激戦のあとすぐに停戦に入り、戦争は専らPLOとレバノン左派の連合軍とイスラエル軍の間に移った。6月半ばから始まった西ベイルート包囲戦では、PLO・左派軍の他に50万人の市民が住んでいるのに、イスラエル軍は、砲撃・爆撃を繰り返し、食料・燃料を止める封鎖を続けた。イスラエル軍は「平和作戦」の名のもとに、軍事攻撃による虐殺のみでなく、9月には難民キャンプでも虐殺を行ない、イスラエルは国際的に孤立した。

 「ガリラヤの平和作戦」と名づけられたこの戦争の目的は、PLOの拠点を襲い、レバノンからパレスチナ解放勢力とシリア軍を一掃することにあった。更に、この戦争により、シリアの支配下にあったレバノンをイスラエルの支配下に置き、ベイルートにキリスト教マロン派を中核とする親イスラエル政権を樹立し、レバノンとの和平を一挙に実現しようとする政治目的をもっていた。このレバノン侵攻の計画を立てた元将軍で国防相であったシャロンが、現在のイスラエルの首相である。

★パレスチナ蜂起(87-)からオスロー合意(93.9)へ
 イスラエルによるレバノン戦争では、多数の市民が軍事攻撃により虐殺されただけでなく、ベイルートの難民キャンプでは、イスラエル軍に協力したキリスト教勢力による大虐殺が行われた。

 このことからパレスチナの占領地では、87年以降、PLOとは無関係に、住民の自発的蜂起(インティファーダ)が発生した。占領地住民によるこの闘争を受けて、88年に第19回パレスチナ民族評議会で「パレスチナ国家独立宣言」が採択された。これはパレスチナを国の領土とし、エルサレムを首都とするパレスチナ国家樹立を宣言すると同時に、公式にイスラエルを承認し、テロ活動の放棄を宣言するものであった。そしてアラファトは、89年に「パレスチナ国家」の初代大統領に選出された

 91年の湾岸戦争でPLOは、創設以来、最大の危機を迎える。議長であるアラファトが、、イラクのフセイン大統領を支持したため、湾岸諸国に住んでいたパレスチナ人の多くが追放され、財産を没収された。また、サウジ、クウェートからの資金援助も打ち切られて、深刻な財政危機に陥った。

 その年、ソ連が崩壊して、共産主義よりだったパレスチナ・ゲリラの思想は、イスラム原理主義の思想に圧倒され、PLOの影響力は弱まっていった。一方、イスラエルも、92年6月の選挙で労働党が第一党になり、ラビン政権が誕生して、PLOとの交渉が始まり、93年9月には、PLOはイスラエルと「パレスチナ暫定自治宣言」という歴史的な合意(「オスロー合意」)に達した。この合意では、ガザと西岸地区のエリコで先行自治を開始し、その後、自治を西岸全体に拡大し、占領地の最終的地位の交渉を行うとした。

 94年5月、ガザとエリコでのパレスチナ暫定自治が開始され、95年9月にはイスラエルとPLOは拡大自治に合意した。更に、94年10月には、オスロー合意、暫定自治開始を受けて、ヨルダンがイスラエルとの平和条約を締結し、エジプトについで二番目の正式な国交を樹立した。94年にはPLOのアラファト議長がノーベル平和賞を受賞して、中東和平が高まりを見せ始めたが、95年11月、イスラエルの和平推進者であったラビン首相が暗殺され、和平は再びこわれてしまった。

★泥沼化する和平 ―最右翼シャロン政権の誕生
 イスラエルでは、96年6月、暗殺された労働党穏健派のラビン首相の後を受けて、大イスラエル主義を唱えるリクード党・タカ派のネタニヤフ政権が誕生した。この政権の誕生により,せっかく進み始めていたイスラエル・パレスチナ間の和平交渉は、完全に停滞した。そして暫定自治の対象となった西岸、ガザ地区の経済は悪化の一途を辿った。
 ネタニヤフ政権は、エルサレム旧市街の古代地下トンネルを全面開通させ、東エルサレムでの入植地建設に強行着工するなど、PLOとの対決色を強め、96年に中断されたシリア、レバノンとイスラエルとの交渉も再開されなかった。この中で、暫定自治地区の経済状況は、さらに悪くなっていった。

 99年5月の首相選挙で現職のリクード党のネタニヤフが破れ、労働党中心の政党連合「一つのイスラエル」を率いたバラクが勝利し、中東和平に新しい光がさした。この年の12月から翌年1月にかけてアメリカの仲介で、イスラエル・シリアの和平交渉が再開され、5月にはイスラエル軍は南レバノンから撤退した。

 アメリカのクリントン大統領は、任期切れを前に7月から翌年にかけて、中東和平の調停をキャンプデービット、ワシントン、エジプトで行い、非常な努力を傾けた。しかしクリントン調停は、エルサレムの旧市街地の取り扱い、難民問題で最終的な合意に至らず、2001年1月、バラク政権は国民の支持を失い、2月の選挙で最右翼のシャロンが圧勝して首相になった

 はからずもこの年の9月11日、アメリカではニューヨーク、ワシントンでの同時多発テロが起こった。シャロン首相はこのテロをパレスチナのテロと同一視することにより、パレスチナ問題は泥沼に突入した

 超タカ派最右翼リクード党党首シャロンは、軍人上がりでレバノン戦争のときには国防大臣としてパレスチナ難民の大虐殺を実行したことで有名な人物である。すでに首相になる前年9月、岩のドーム・モスクやアクサ・モスクが立ち並ぶエルサレムにおけるイスラム教徒の「聖域(ハラム・アッシャリーフ)」に、多数の護衛をつれてふみこんだ。これは程度を超えた挑発行為であり、それ以降のパレスチナ騒乱を引き起こすことになった。

 シャロンの前歴は、ビンラディンがしばしば民間人虐殺事件の代表例としてあげるレバノン戦争時の1982年9月16日に起こった難民キャンプでの虐殺事件(サブラ・シャチーラ事件)の張本人としてあまりに有名である。この事件について簡単に述べる。

 当時レバノン南部に大々的に侵攻していたイスラエルは、傀儡政権として担ごうとしていたジェマイエル・レバノン大統領候補が暗殺されるや、米軍などの平和維持軍との協定を無視して、西ベイルートにイスラエル軍を侵入させて占拠した。これを指揮したのが当時の国防相であったシャロンである。

 シャロンは、西ベイルート郊外のサブラ・シャティーラのパレスチナ難民キャンプを38時間にわたって包囲し、レバノン右派の軍事組織であるファランディストにキャンプ内の掃討を命令した。夜通し照明弾で照らし出された難民キャンプの中で、彼らは老人、女、子供にいたるまで虐殺した。3日にわたる虐殺で、殺された住民の数は正確には分からないが、虐殺の数日後に赤十字が集団墓地に埋葬した数が210人であり、それ以前に埋葬されていた数を入れると、死者数は800から1,000人と推定される。この空前の虐殺は、さすがにイスラエルでも問題になり、調査委員会も設けられたが、シャロンはこの査問をくぐりぬけ復活した。

 この事件には続きがある。この事件に実行犯である指揮官エリ−・ホベイカが、2002年1月24日、ベイルートで爆殺された。彼は、シャロンの虐殺事件の証人に立つことになっていた。暗殺される数日前、すべてをぶちまけると周囲に語っており、爆殺にはイスラエルの治安機関の関わりが囁かれている。

 シャロンは、パレスチナの「テロ」にそれ以上の報復をもって応える強攻策をとった。2001年8月27日、イスラエル軍はヨルダン西岸のPFLP(パレスチナ解放人民戦線)の事務所を武装ヘリでミサイル攻撃し、ムスタファー議長を殺害した。PFLPは、PLOの中では主流派ファタハに次ぐ組織であり、パレスチナ自治政府は、「この暗殺はイスラエルの本格的な犯罪行為であり、これにより際限のない全面戦争に突入した」と表明した。そしてパレスチナ側は、これに自爆テロで応える泥沼の報復合戦に突入した。

 事態の泥沼化にいらだったシャロンは、2001年12月4日、「自治政府はテロ支援体制」と断じ、自治政府の施設やインフラに対する本格的空爆と陸上軍による攻撃に踏み切った。
これに対してパレスチナ過激派は自爆テロで応えるという繰り返しになった。シャロンは、更にアラファト議長を相手にせず、とする断交宣言を行い、西岸、ガザに本格的な地上軍を投入して、軍事力を持たないパレスチナ側を一方的に蹂躙した。

★連動するブッシュとシャロン
 ユダヤ系アメリカ人には、もともとマイノリティの権利擁護という立場からリベラルな民主党支持が多いといわれる。そのため大統領選挙では、ユダヤ票の7割は民主党候補に投じられると言われてきた。そのこともありクリントン大統領は、任期の切れるぎりぎりまでイスラエルとパレスチナの間に立って、中東和平に努力した。またカーター大統領は、自分が関わった中東和平について「アブラハムの血」(邦訳:講談社)という名著を残しているほどである。

 父親のブッシュ大統領は、嘗てユダヤ人社会から強力な反発を受けたことがある。それは冷戦の終結と湾岸戦争後という2つの追い風を利用して、91年9月に前のブッシュ政権が、中東和平交渉を開始するまで債務保証の供与を延期するとTV演説して、イスラエルのシャミール政権に圧力をかけたことに始まった。
 このTV演説により、議会は債務保証の審議を凍結した。ユダヤ系団体は、ブッシュ演説が、ユダヤ人の陰謀説を煽ったことに怒った。イスラエル問題は、アメリカではこれほど微妙な問題を常に孕んでいる。

 現ブッシュ大統領は、イスラエル・パレスチナ問題に対して「不関与政策」に終始してきたが、ブッシュ政権の母胎である共和党右派系の議員が、90年代に入ってから戦闘的といえるほどの親イスラエル、特にリクード寄りの言動を広げてきており、9.11以降、ブッシュの政策はシャロンと、ほとんど同一の歩調をとり始めた。

 その背景には、リクードを中心とする大イスラエル主義勢力、其れを支持する「キリスト教徒連合」など保守的なキリスト教勢力、更にそれらを支持基盤とする共和党右派という従来はあまりなかった「三角同盟」がワシントンで影響力を増大したことがある。

 この最も過激な発言はシャロンに代表されるものであり、9.11以降、アメリカがビンラディンとの戦いを進めている中で、「アラファトは、パレスチナのビンラディンだ」とまで言い切っており、ブッシュもその見解に同調しているようである。このシャロン、ブッシュの連動した動きの中で、中東和平の見通しは、極めて暗くなってきている

★ハマスとヒズボラ
 イスラエル占領地区におけるパレスチナ人による抵抗運動は、「インティファーダ」と呼ばれる。それは1987年に始まり、93年のオスロ合意により一時終結するが、その後、イスラエルがこの合意を事実上破棄したため、2000年の秋から再び始まっている。
 その内容は、投石,発砲、ゼネストなどいろいろあるが、基本的には投石などが多い。これに対して、イスラエル側の兵士は銃撃で応えるわけで、ほとんど無力な抵抗運動である。そのために抵抗運動の側にも、過激な組織が登場することになる。そのうちの有名なのがハマスとヒズボラである。

 ハマスは、アラビア語の「イスラム抵抗運動」の頭文字をとったもので、パレスチナ占領地内で組織されたイスラム・スンニ派の原理主義組織である。元来は、「ムスリム同胞団」のパレスチナ支部であり、1987年にガザでパレスチナにイスラム教国家を建設することを目的に結成された。現在も、ガザを最大拠点として活動しており、第一次インティファーダ(87-93)の中で、急激に認知された。

 ハマスの活動は、イスラエルへの攻撃のみでなく、パレスチナの貧困層を対象とした福祉活動も行っており、アラファト議長を初めとする幹部に対する信頼が失われていくのに、逆比例して支持が増えてきた。ハマスは、自爆テロという究極的な攻撃方法を採用して有名になった。そしてそのことが、中東和平が泥沼に入り、その先行きが分からなくなった今、いっそうハマスへの支持を高める結果になっている。

 ヒズボラは、レバノンのシーア派住民を基盤とするイスラム復興運動であり、「神の党」を意味する最も戦闘的な集団である。1982年、イスラエル軍が侵入した直後のレバノンで、ホメイニ門下の聖職者を中心に結成された

 「イスラムの土地」であるレバノンに進駐した米軍やイスラエル軍を侵略者と見做して激しい攻撃を行った。83年4月、米国大使館でヒズボラの自爆攻撃により63人死亡、10月には爆弾トラック2台によりベイルートの米海兵隊本部へ突入して241人を殺害。同時刻、フランス降下部隊の本部も襲われ、58名の仏軍の死者が出た。11月にはイスラエル軍本部も襲われ、イスラエル兵60名が死んだ。

 84年9月には、在ベイルート米国大使館別館への自爆テロを実行した。この攻撃による米軍の犠牲者は、ベトナム戦争以来の大きな被害であり、そのため米軍はベイルートを撤収した。イスラエルは和平条約の締結を断念し、最終的にはレバノンから撤退に追い込まれて、レバノンの独立は守られた。




 
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