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(3)中東和平 ―イスラエルとパレスチナ(その1)
 中東問題の原点には、今まで述べてきた石油資源への覇権の問題のほかに、アメリカ議会のユダヤ系議員の影響力の問題がある。それは古く西暦1世紀にローマ帝国により滅ぼされたユダヤ帝国の子孫といわれるユダヤ人たちが、2000年近い年をへて1948年にパレスチナの地にイスラエルというユダヤ人国家を建国したことに始まる。
 イスラム系の国家群の中に突然作られたユダヤ系国家のイスラエルは、それまで2000年間、そこに生活してきたイスラム系のパレスチナ人たちをその地から排斥したため、それ以来、中東は紛争の絶えない地域に転化した。

 現在、世界中のユダヤ人の人口は約1千4百万人といわれる。その内、アメリカに居住しているユダヤ人が最も多く600万人を占めている。その他の居住地域別人口は、ロシアが200万人、イギリス、フランスが50万人、それよりやや多い人数が中南米、その他となり、イスラエルには、現在、約400万人が居住しているに過ぎない。

 これを見ると、ユダヤ人にとって世界最大の拠点はアメリカにあり、しかもアメリカ国民であるユダヤ人たちは、財界、法曹界、政界、芸能界、マスコミなど、アメリカ社会の最上層部の指導的地位を占めている。イスラエル建国も彼らの財力によって出来たほどであり、その意味から、現在、イスラエルはアメリカの出店か、それともアメリカが実はイスラエルの出店かという密接な関係にある。

 従って、イスラム原理主義のテロは、みかけは世界各地で多様な形をとっているが、その原点はイスラエルとパレスチナ問題に発している。今回のアメリカ・イラク戦争を含めて、中東紛争はすべてイスラエル・パレスチナ問題となんらかの関わりを持つといえる

★イスラエル建国 ―シオニズムとイスラエル
 ユダヤの最後の王国は、紀元1世紀にローマ帝国に滅ぼされた。その時からユダヤの人々は世界各地に離散していろいろ辛酸をなめ、18世紀末になるまで市民権も認められなかった。19世紀後半、帝政ロシアにおけるユダヤ人の迫害が激化したことから、祖先の地であるパレスチナにユダヤ人の国をつくろうという「シオニズム」の運動がたかまった。その名称は、紀元前10世紀のユダヤ王ダビデの居城シオンに由来する。

 19世紀末のパレスチナには、60万人のアラブ・キリスト教徒に混じって、3万人のユダヤ人が各地に散在していた。その頃、ロシアでは、ユダヤ人の居住区を襲う「ポグロム」と称する迫害が多発しており、ロシアのユダヤ人青年を中心に結成されたビールー運動が、パレスチナへの移住の呼びかけをはじめた。

 1897年、スイスのバーゼルで、第一回シオニスト会議が開催され、シオニスト機構(後の世界シオニスト機構)の設置が決まり、「シオニズムの目的は、パレスチナの地にユダヤ民族のための、公的な法に保障された郷土を創設することにある」とする「バーゼル綱領」が採択された

 世界シオニスト機構は、「ユダヤ民族基金」をつくって、世界各地のユダヤ人から会費や寄付をつのり、パレスチナの土地の購入を始めた。しかしロシアやヨーロッパからのユダヤ人移民の行く先は、パレスチナよりアメリカの方がはるかに多かった。ちなみにアメリカのユダヤ人の人口は、1880-1925年の間に、ヨーロッパからの移民で28万人から450万人に増加した。これに対して、1882-1925年の間のパレスチナへの移民の数は、14-17万人程度である。

 第一次世界大戦(1914-1918)の最中、イギリスはドイツ側についたオスマン帝国に打撃を与えるために、アラブに独立の支援を約束し、一方で、フランスとの間でパレスチナを南北に分割支配する密約を交わした。その上で、ヨーロッパのユダヤ人の協力をとりつけるために、ユダヤ人の祖国建設を支持する態度を表明した。いわゆるイギリスの「三枚舌外交」といわれるものである。これが戦後に、パレスチナにおける民族対立の種を撒くことになった。

 第一次大戦後、パレスチナはイギリスの委任統治領となり、シオニスト機構は、英国委任統治政府からすべてのユダヤ人を代表する正式な機関として認められた。30年代の中頃には、ユダヤ人はパレスチナ全土の5%(耕作可能地では12%)の土地を保有し、アラブ社会の中に全く異質なユダヤ人社会が形成された

 第一次大戦以降のパレスチナへのユダヤ人の移民数を見ると、26-30年は29,260人であるが、30年代から急激に増加し、31-35年が165,704人、36-40年は96,737人、41-45年は49,672人となる。このことによりパレスチナのアラブ人社会からの反発が強くなり、36年に「アラブの大蜂起」と呼ばれる激しい衝突まで起こった。

 1947年11月、イギリスは国連にパレスチナ問題の処置を任せ、国連総会は、パレスチナをアラブ、ユダヤの2国に分割し、エルサレムを国際管理下に置くとする「分割統治案」を採択した。この結果を受けて、1948年5月14日、イギリス軍はパレスチナから撤退し、イスラエルは、テルアビブで建国宣言を行った

 イスラエルは、当初の宣言の中で、「ユダヤ人国家」であると同時に、宗教、人種の区別のない平等な「民主国家」であることをうたい、理想主義的な国家の出発を目指したが、この宣言は左右からの攻撃にあい、更にアラブ人との間では軍事衝突となった。

★第一次中東戦争(48.5−49.2)
 当時、既にユダヤ人とパレスチナ・アラブ人の軍事組織は、パレスチナ各地で戦闘を行っていたが、これがイスラエル独立を期に、この独立を武力で押さえ込もうとするアラブとの間で戦争になった。その後、何度も中東戦争が繰り返されるが、アラブの対戦相手は変わっても、その一方は常にイスラエルであった。その結果、イスラエルは、国家予算の3分の2を軍事予算にとり、原水爆を400発以上も保有するハリネズミのような軍事国家が出来上がった。

 第一次中東戦争では、エジプト、レバノン、シリア、トランスヨルダン、イラクの各軍は、パレスチナ人と共に、イスラエルを一斉に攻撃した。イスラエルは、ソ連の後押しでアラブを圧倒し、国連の分割決議により与えられることになった地域よりも大きいパレスチナ全土の75%を支配下に治めることに成功した。
 一方、ヨルダン川西側は東ヨルダンを含めて、トランスヨルダンが占領し、ガザ市を中心とした地域は、エジプトが占領した。

 第一次中東戦争の結果、パレスチナ難民の数は50年6月現在で91万人、またアラ
ブ地域に住んでいたユダヤ人が50年代にイスラエルに移住したため、48年末に76万人であったイスラエルのユダヤ人の人口は、60年末には215万人になった。

★第二次中東戦争(56.10-56.12)
 1952年、エジプトに革命が起こった。王を追放して大統領になったナセルは、アラブのナショナリズムを鼓吹した。その結果、パレスチナ・アラブのイスラエルに対するゲリラ活動も激化した。1956年7月、ナセルはスエズ運河の国有化を宣言した。

 これに対してスエズ運河の所有権を持っていたイギリスとフランスは、1956年10月、イスラエルと共にエジプトを攻撃し第二次中東戦争が始まった。イスラエルはシナイ半島に侵攻、イギリス、フランス軍は、カイロを爆撃、スエズ運河の地中海出口を占領したが、アメリカ、ソ連が共に反対し、国連が即時停戦を決議して、56年12月にイスラエル、フランス、イギリス共に撤兵して終わった。

★第三次中東戦争(六日戦争)(67.6)
 60年代後半になると、パレスチナ・ゲリラの活動が、再び活発になった。ナセルは、イスラエルの攻撃を恐れて臨戦態勢をとり、紅海とインド洋へのイスラエルの唯一の出口であるチラン海峡を封鎖した。
 
 イスラエルは、67年6月、エジプト、シリアに先制攻撃を展開し、シナイ半島およびガザ地区(エジプト領)、ヨルダン川西岸(ヨルダン領)、ゴラン高原(シリア領)を、一挙に占領し、アラブ側は完敗した。

 この戦争で、アラブ指導者は、厳しい批判にさらされ、これ以降、パレスチナ解放運動は、PLOを中心としたゲリラ組織に移る。その反面で、西岸地区、ガザ地区、シナイ半島という広大な地域を占領したイスラエルでは、6日でイスラエルが勝利を得た背景には、神の意思があるとする「大イスラエル主義」のイデオロギーが一挙に吹き出した。神とユダヤ教徒の「約束の地」をめぐる神学的命題が現実の政治課題、領土問題として浮上したのはこの時からである。

 この年の11月、国連安保理事会は、イスラエルの生存権を認め、占領地からの撤退を求めたが、イスラエルは受け入れなかった。この戦争の結果を受けて、70年代に入ると、イスラエルの存在を受け入れる代わりに、西岸、ガザ地区にパレスチナ国家の樹立を目標とする「2国家解決構想」または「ミニ・パレスチナ国家構想」が登場した。

★第四次中東戦争(73.10-74.1)
 73年10月、第三次中東戦争で失った領土の回復を求めて、今度はアラブ諸国がイスラエルに先制攻撃をしかけた。エジプトはスエズ運河方面から、シリアはゴラン高原方面からイスラエルに侵入した。更に、ヨルダン、サウジアラビアも参戦して、イスラエルは立ち往生した。この戦争でアラブ側は予想外の健闘をして、「イスラエル不敗の神話」が破れ、アラブの自信は大きく回復した。
 しかし最初は、アラブ諸国が優勢に見えたが、後半、イスラエルは、アメリカからの緊急援助を受けながら強力な反撃を開始した。

 この戦争の特徴は、石油による「資源ナショナリズム」が戦略として利用されことにある。そして、その石油戦略は世界中の先進諸国に深刻な衝撃を与えた。
 中東のアラブ諸国の資源ナシヨナリズムは、60年9月に、イラク、イラン、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラが石油輸出国機構(OPEC)を設立したことに始まる。その後、この機構には、カタール、インドネシア、リビア、アブダビ、アルジェリア、ナイジェリア、エクアドル、ガボンも加盟した。

 OPECは、産油国の石油政策の協調と情報の収集および交換を目的に掲げていたが、国際石油会社による原油の公示価格の引き下げに対抗することが主な目的であった。公示価格の引き下げは、産油国の所得税収入の減少を意味していたからである。つまり従来、国際石油資本に支配されてきた石油政策を、産油国の手に取り戻すための組織がそれであった。

 更に、1968年1月には、クウェート、リビア、サウジアラビアの三国が、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)を設立した。この機構にはその後、アルジェリア、アブダビ、カタール、バーレーン、イラク、エジプト、シリア、チュニジアが加盟した。

 1972年12月20日、サウジアラビアの首都リヤドで、サウジアラビアとアブダビの両国が、国際石油会社10社と資本参加協定を結んだ。この協定では、産油国は最初に25%の資本参加を行い、その後にこの比率を1982年に51%まで高めるというものであった。その後、サウジアラビアのスピードは速まり、1980年に100%の資本参加、つまり国有化を達成した。

 この「リヤド協定」は、イラク、リビア、アルジェリアなどアラブの「急進派」による石油全面国有化の路線に対抗して、「穏健派」が考えた漸進主義的国有化の路線であった。
 この「資源ナショナリズムの制度化」の進行が、第四次中東戦争における「石油戦略」の発動を可能にしたのである。

 第四次中東戦争開始の11日後、OPECに加盟するペルシャ湾岸の6カ国は、石油公示価格の21%引き上げを発表した。同時に、OAPECに加盟する10カ国がアメリカに対する石油輸出の全面禁止とイスラエル支持国向けの石油輸出の毎月5%の削減を決定した。

 先進主要国の外交政策を親イスラエルから、親アラブに転換させるため、「石油戦略」を発動したわけである。この「石油戦略」は、中東の石油にエネルギーを依存している先進国の政治・経済に深刻な影響を齎した。いわゆる「第一次石油ショック」である。

 アメリカでは、キッシンジャー国務長官が中東諸国とソ連を訪問して休戦に努力し、国連緊急安全保障理事会が、アメリカとソ連の共同提案による中東停戦決議を採択し、イスラエル、エジプト、シリアがあいつで受諾した。そして停戦後も「石油戦略」は暫く継続され、世界の多くの国が、中東の動きに一喜一憂した。

 第四次中東戦争を通じて、アラブ対イスラエルの戦争は、実は、ソ連対アメリカの代理戦争としての性格が明白になる。そのため70-80年代にかけて、ソ連、アメリカと中東諸国の間にいろいろ問題が生じ、戦争や革命にいたるケースが現れるようになった。

★大イスラエル主義とパレスチナ問題
 第三次中東戦争の頃から、イスラエルでは労働党を中心とする非・大イスラエル主義政党の勢力が衰退し、それに代わって大イスラエル主義政党が支持基盤を拡大し始めた。
 そして77年5月の第9回国会選挙では万年野党で超タカ派のリクード党が第1党となり、党首ベギンを首班とする内閣が誕生した。これは、この国で「大激震」と呼ばれた。

 リクードが政権をとった77年を境に、西岸、ガザ地区へのユダヤ人の入植者の数も増加の一途を辿り、80年代の半ばには5万人を越えた。土地の確保が絶対視され、国家予算を含む多くの資源が投下された。

 第三次中東戦争で、イスラエルが西岸、ガザ地区を占領し、大イスラエル主義が強まると、この地域でパレスチナ人との共存を模索する動きがイスラエルの中にも出てきた。驚くべきことであるが、それまでユダヤ人たちは、従来、パレスチナ人の民族意識を過小評価するか、場合によっては考慮外においてきた。シオニストたちは、ユダヤ人が「平等で自由な社会」を実現すれば、パレスチナ・アラブ人たちは喜んで新しい社会の構成員になると信じていた。シオニズム側のこのような考え方の裏には、「進んだヨーロッパ文明」、「遅れたイスラム文明」という西欧中心の考え方がある。

 第三次中東戦争でイスラエルが西岸、ガザ地区を占領したとき、イスラエルはこの占領を「啓発的占領」、「寛容な占領」と自画自賛していた。つまりイスラエルによる「近代的」、「民主的」な占領は、やがてパレスチナ人に、無抵抗で受け入れられるであろうというものである。今度のアメリカ・イラク戦争と極めて類似している。

 パレスチナ問題の発生は、イスラエルの建国から始まる。1948年、パレスチナの地にイスラエル国家の建国、そして67年の第三次中東戦争により、そこに住んでいた多くのパレスナ人たちが難民となった。そしてそれ以来、長い間、民族であることを否定され、自決権も認められず今日に到っている。21世紀初頭に国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)に登録している難民数は約370万人を数え、その三分の一はいまだに難民キャンプでの生活を余儀なくされている。

★PLOとアラファト議長
 1964年、エジプト大統領ナセルの呼びかけで開催されたアラブ首脳会議で、パレスチナ人を代表する政治組織として「パレスチナ解放機構(PLO)」が作られた。この組織は、48年以来、「難民」としてしか扱われなかったアラブ系パレスチナ人にとって、「領土なき国家」の誕生といえるものであった。
 議会にあたる最高意思決定機関「パレスチナ民族評議会」(PNC)は、ゲリラ各組織や職業団体などの代表から成り立っていた。また憲法に相当する「パレスチナ民族憲章」の効力は、パレスチナ全土に当たるものとされた。軍事部門として、エジプト軍の1部隊に過ぎなかったが、「パレスチナ解放軍」も持っていた。

 1967年の第三次中東戦争の大敗により、エジプトのナセル大統領は権威を失墜した。その結果、多くのゲリラ組織はシリア、イラクあるいは共産主義諸国と結びつき、60年代後半から70年代にかけて、イスラエルに対する無差別テロを繰り返すようになった。そのことから国際社会とアラブ諸国からも非難を浴びるようになった。
   
 このような中で急成長したのがアラファトに率いられたゲリラ組織の「ファタハ」(パレスチナ民族解放運動)であった。アラファトも武装闘争を旗印にしており、68年3月、ヨルダン国境においてイスラエル軍と善戦したことが若者の人気を得て、500人位のメンバーが一挙に1万人に増えたといわれる。
 このようにしてゲリラ組織の中で最大の組織になったファタハは、68年にPLOに参加し、アラファトは69年にPLOの議長に就任した。

 アラファトは、1929年、エジプトのガザの生まれ。1959年以降、ムスリム同胞団に所属して第一次中東戦争から歴戦の経験をもつ。PLO議長に就任後、74年にはアラブ首脳会議で「パレスチナ人の唯一の正当なる代表」と認知された。同年、国連がパレスチナ人の自治権とPLOを承認して、PLOは国連総会で演説を行った。




 
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