(2)「尊王攘夷」思想の原点 −水戸学派の儒学
●朱子学からきた「尊王攘夷」
幕末、「尊王攘夷」という言葉は、勤皇の志士たちによる倒幕運動の合言葉として使われた。この言葉を最初に使ったのは多分、「水戸学」であると思われる。
しかし一見して国粋主義的なこの言葉は、よく調べてみると朱子学を出典とする外来の言葉なのである。
まずこの「尊王攘夷」という言葉を、日本で何時、誰が最初に使い始めたか?非常に興味があるが、残念ながらそれを克明に調べた論文をまだ見たことがない。
恐らくその初期に属するものが、天保9(1838)年3月に書かれた徳川斉昭の「弘道館記」である。そこには、「我が東照宮、撥乱反正、尊王攘夷、允に武、允に文、以って太平の基を開きたまう」(原漢文)と記されており、「尊王攘夷」という言葉が登場している。(日本思想大系「水戸学」、230頁)
弘道館とは、徳川斉昭により天保12(1841)年に創設された水戸藩の藩校である。そこは文武2館に分けられ、尊王攘夷を鼓吹するとともに、実用主義の立場から洋学の技術も取り入れられた。
斉昭の文章の意味は、「我が徳川家康公は、乱世を治めて正道に還され、皇室を尊び、夷狄を攘われた。まことに文武両道に秀でた方であり、このことにより太平の基を開かれた」というようなことである。
ここに登場する「尊王攘夷」という言葉は、「尊王」も「攘夷」も実は12世紀の朱子の論語の注に出てくる中国製の大変古い言葉なのである。
朱子の「論語集注」では、論語の憲問篇の「管仲、桓公を相けて、諸侯に覇たらしめ、天下を一匡す。民、今に至るまでその賜を受く」という文章に対して、朱子が「匡は正なり。周室を尊び、夷狄を攘つ。皆、天下を正す所以なり」と注記している。ここに「攘夷」(夷狄を攘つ)という言葉が出てくる。
徳川斉昭の「弘道館記」が書かれた天保9(1838)年は、その前年の6月にアメリカの商船モリソン号が浦賀に入港し、浦賀奉行がこれを砲撃する事件がおきている。しかしそれは、ペリーの黒船が来航する10年以上も前のことである。
既にその頃、西欧列強が日本を伺い始めた予感はあるにしても、「攘夷」はまだ観念的なものである。従がってここでの「攘夷」は、「鎖国政策」を取る征夷大将軍を上に頂く幕府の当然の外交政策を表明したに過ぎない。
つまり日本における最初の「攘夷」という言葉は、むしろ「尊王」を確認するための枕言葉であったと考えられる。そこで次に「尊王思想」を考えてみよう。
●日本のこみ入った尊王思想
まず「尊王」という言葉には、通常は「皇」ではなく「王」の字が使われる。
儒学の社会的背景をなす春秋、戦国時代において、既に、古代中国の中心である「周帝国」の勢力は非常に衰退していた。そこでの周王と諸侯の関係は、江戸時代の天皇と将軍・藩主に似た封建的関係が成立していた。
従って、そこで言う「王」とは、「周王」のことである。つまり春秋時代の諸侯たちは、自ら勝手に「王」を名乗り、覇権をめぐる紛争は絶えなかったものの、厳密にいえば彼らは「諸侯」であり、未だ「王」ではなかった。
この「尊王」を日本に当てはめてみると、周王に相当するのは「天皇」であり、諸侯に相当するのが幕府と藩主たちであった。
江戸時代における政治の実権は既に朝廷から幕府に移っており、天皇の機能は祭祀と形式的な貴族の位階任命などにせまく限定されていた。
しかし形式的にいえば、幕府の将軍は天皇から任命された「征夷大将軍」にすぎず、「攘夷」を行なうために天皇から任命された武官のトップにすぎなかった。そして、全国の藩主たちは、将軍によって任命される武官にすぎず、その意味から将軍の勢力は圧倒的に強力であった。
つまり江戸時代において形式的な「王」は天皇、実質的な「王」は将軍である。つまり、江戸時代には、このような政治的二重構造が存在しており、これを「尊王・敬幕」といった。
しかし江戸時代の各藩の武士から見ると、その様相はさらに異なる。各藩の武士たちが「二君にまみえず」として仕える「王」=主君とは、天皇でも将軍でもなく「藩主」である。従って彼らが命をかける「王」は、天皇でも将軍でもなく藩主である。
山本七平氏によると、幕末の志士たちが「天下国家」を論じる場合の「国家」とは、自分が属する「藩」のことであったといわれる。
従って、通常の武士から見た「尊王」を素直に解釈すると、主君である「藩主」に忠誠を尽くすことであるが、儒学的「尊王」は、「天皇と幕府」を尊敬することであった。
ここで難しい立場は徳川将軍家である。よく考えてみると、形式的には徳川将軍家は諸大名の1人に過ぎず、たまたま天皇から征夷大将軍に任命されているに過ぎない。従って、将軍が天皇に置き換わっても、国家組織としては十分に成立する。
しかし江戸時代を通じて、「尊王敬幕」に代わって「尊王倒幕」という思想が現れるのは、明治維新直前の慶応2年以降のわずか2年に過ぎない。それまでは一貫して「尊王敬幕」であったことに驚かされる。
儒学的にいうと、藩主たちが忠誠を誓う「王」は天皇ではなく、徳川将軍なのである。この矛盾が明らかになるのは、幕末の「戊辰戦争」のときであった。
さらに、各藩の藩士たちが忠誠を誓うのは「天皇」でも「将軍」でもなく、「藩主」である。この矛盾も、幕末の「戊辰戦争」で明らかになった。
そこでは江戸攻めの「官軍」は、名前は「天皇の軍」を称してはいるものの、実は薩摩藩と長州藩の兵士が江戸の徳川氏を攻撃しているにすぎず、儒教的には孟子の易姓革命のような位置づけになる。
このように「尊王」という言葉は、非常にあいまいで言葉足らずである。そのためいくつかの言葉を補わないと、本当の「尊王」の姿は見えてこない。
つまり水戸学が、天保9年に標榜した「尊王攘夷」という言葉を正確に表現してみると、「尊王−敬幕−忠藩−攘夷」となる。「尊王−敬幕」という言葉は既に存在しているが、「忠藩」は「藩士が藩主に忠誠を尽くす」という私の造語である。
この言葉が、明治維新の直前に「尊王−倒幕−忠藩−開国」になり、さらに明治4年以降には藩もなくなって、「忠君愛国」に変わる。
明治維新の進行過程で、薩摩藩の島津公や長州藩の毛利公は倒幕に尽力した自分たちまでが、まさか自分の領地を失うことになるとは夢にも思っていなかった。
そのため、明治の廃藩置県のとき、ペテンにかけられたと激怒したとも伝えられる。このあいまいな尊王思想は、歴史の進行のなかで、あいまいなままではすまなくなった。その過程を、維新で最も悲劇的な結末になった水戸学の例で見てみよう。
●尊王攘夷の推移と変貌
「水戸学」とは、「尊王」の大義名分を明らかにするため、水戸光国公による「大日本史」の編纂を目的として成立してきた学問である。
当初は、朱子学に基づく理論的なものであったが、水戸斉昭公以降における尊王攘夷運動の高揚の中で、全国の志士たちから政治的に注目されるようになった。
しかしその後、尊王攘夷の論点が大きく変わり、運動の性格も変わる中で、水戸学は次第に尊王攘夷運動から浮き上がっていく。
さらにそれが水戸藩内部の政治抗争と絡み、明治維新を迎える頃には水戸藩から有為な人材が殆んど失われてしまった。そのため尊王攘夷の主流は、薩摩、長州に移るという悲劇的な結果を招いた。 その幕末の簡単な年表を図表-1に揚げる。
図表-1 尊王攘夷運動の推移
西暦 |
邦暦 |
事項 |
幕府の政策 |
朝廷 |
尊王攘夷運動 |
1838 |
天保9年 |
徳川斉昭の「弘道館記」に「尊王攘夷」という言葉が登場 |
尊王、敬幕、攘夷 |
攘夷 |
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1853 |
嘉永6年 |
ペリー艦隊、浦賀に来航 |
同上 |
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吉田松陰、ペリー船で密航を図る |
1854 |
嘉永7年 |
幕府、ペリーと日米和親条約を締結、下田、函館開港 |
尊王、敬幕、開港 |
朝廷(攘夷)の了解なく幕府が条約締結 |
|
1858 |
安政5年 |
幕府、ハリスと日米修好通商条約を締結 |
尊王、敬幕、開国 |
天皇は条約締結拒否の勅答、水戸藩などに不満を表明 |
京都、江戸で尊攘派の志士が逮捕される(安政の大獄) |
1859 |
安政6年 |
幕府、神奈川、函館、長崎開港、露・仏・英・蘭・米と貿易を許す |
同上 |
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1860 |
万延元年 |
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同上 |
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桜田門外の変、井伊大老が水戸浪士に暗殺される |
1861 |
文久元年 |
将軍家茂、5国へ両港両都の開市、開港の延期を要請 |
尊王、敬幕、攘夷? |
|
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1862 |
文久2年 |
和宮婚儀(公武合体への動き) |
尊王、敬幕、攘夷?(幕議で攘夷の勅旨に従うと決定) |
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生麦事件、英人殺害される。高杉晋作らが品川御殿山の英国公使館を焼く |
1863 |
文久3年 |
家茂上洛、天皇、将軍に政務委任確認の勅、幕府、横浜鎖港を米蘭に提起、幕府、5月10日を攘夷の期限と上奏、四国艦隊、下関攻撃 |
尊王、敬幕、攘夷? |
攘夷親征の詔勅出る |
新撰組結成、馬関戦争 |
1864 |
元治元年 |
将軍家茂、横浜鎖港を奏上、幕府、4国と横浜居留地覚書12か条調印。第1次長州征伐 |
尊王、敬幕、攘夷?幕府、英、仏、蘭、米にパリ約定廃棄を通告 |
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池田屋騒動、禁門の変、筑波勢、加賀藩に降伏、翌年処刑 |
1865 |
慶応元年 |
条約勅許、兵庫先期開港は不許可 |
尊王、敬幕、開国 |
天皇、条約許可
開国 |
江戸市中に外国通商批判、大政奉還の張り紙 |
1866 |
慶応2年 |
将軍家茂、孝明天皇逝去、第2次長州征伐 |
慶喜、将軍職の辞職を請う |
王政復古、小御所会議 |
農民一揆、打ち毀し |
1867 |
慶応3年 |
兵庫開港勅許、板垣、中岡、西郷、京都で倒幕の密約、 |
大政奉還、江戸城開城、皇居となる |
新政府、幕府締結の条約遵守を各国に通告 |
大久保、岩倉ら、王政復古を計画 |
図表-1を見ると、徳川斉昭の「弘道館記」にあげた「尊王攘夷」の概念が、わずか30年の間に目まぐるしく変化したことがわかる。それを幕府と朝廷の立場からまとめてみると、次の図表-2のようになる。
図表-2 尊王攘夷思想の変貌
西暦 |
邦暦 |
幕府の立場 |
朝廷の立場 |
1838 |
天保9年 |
尊王−敬幕−忠藩−攘夷 |
尊王−敬幕−忠藩−攘夷 |
1854 |
安政元年 |
尊王−敬幕−忠藩−開港 |
同上 |
1858 |
安政5年 |
尊王−敬幕−忠藩−開国 |
同上 |
1862 |
文久2年 |
尊王−敬幕−忠藩−攘夷? |
同上 |
1865 |
慶応元年 |
尊王−敬幕−忠藩−開国 |
尊王−敬幕−忠藩−開国 |
1866 |
慶応2年 |
尊王−大政奉還?−開国 |
尊王−大政奉還?−開国 |
1867 |
慶応3年 |
尊王−大政奉還−開国 |
尊王−王政復古?−開国 |
1871 |
明治4年 |
(廃藩置県) |
忠君愛国 |
●水戸学における「尊王攘夷」
水戸学は天保期(1830-43)以降、尊王攘夷の思想において指導的役割を演じるようになった。しかし水戸藩は徳川御三家に一つである。そのため、そこで主張される「尊王」は、朱子学の正統的思想に支えられたものであり、「尊王思想」は幕政の改革を含むものの「倒幕」などは夢にも考えないものであった。
そのために尊王攘夷運動の初期段階においては、運動の主導権をもったものの、それが激化してくると主導権は次第に長州、薩摩に移り、水戸学派は運動から浮き上がっていった。
▲藤田幽谷と正名論
この水戸学の思想をまず藤田幽谷についてみる。藤田幽谷(1774-1826)は水戸の古着屋の子として生まれて、10歳で彰考舘編集(のち総裁)立原翠軒に入門。15歳で師の推薦を受けて彰考舘に入った。
そして18歳のときに有名な「正名論」を書いて、尊王の大義名分を明らかにしたほどの優れた人物である。
幽谷は「正名論」において、社会秩序の保持には、君臣上下の名分を正す必要性があることを主張し、天皇、将軍などの社会的な位置づけ、つまり「尊王」にいたる理論的根拠を明確にした。
幽谷は、孔子の「春秋」を論拠にして天皇を「天を称し、以って無二の尊を示す」存在とし、「天下の共主(天下が共に宗主とする君主)」に位置付けた。
しかし、その天皇の機能は「上天に敬事し、宗廟の礼、以って皇尸(皇祖)に君事する」もの、つまり天と皇祖にたいする祭祀を中心にしたものとしている。
また将軍の立場は、「皇室を翼載す」る「征夷大将軍」であり、両者の関係は、「幕府が皇室を尊べば、すなはち諸侯は幕府を崇び、諸侯が幕府を崇べば、すなはち卿・大夫、諸侯を敬す。夫れ然る後に上下相保ち、万邦協和す」としている。
したがってこの社会的な関係を確立すれば社会は平和に治まる、と考えていた。
この観点から当時の日本の政治体制を見ると、幕府が天下国家を治めており、上に天子を戴き、下に諸侯を撫するは、覇主の業」というのが幽谷の幕政批判の姿勢であった。それはまさに尊王−敬幕−忠藩−攘夷の社会秩序を、典型的に説明したものといえる。そしてこの幽谷の思想は、門人である会沢正志斎に伝えられた。
▲会沢正志斎と新論
会沢正志斎(1781-1863)は、10歳のとき18歳の幽谷に入門し、彰考舘で修史事業に携わり、幼少期の徳川斉昭の侍読(じとく:藩主の教師)となった。
正志斎は、師・幽谷の影響を受けて、西欧列強のアジア進出に危機感をもっていた。そのことから1824年にイギリス捕鯨船が大津浜に上陸した事件を直接担当することになり、そこから「攘夷」を信念とするようになった。
まさに尊王攘夷の信念のもとに書かれた正志斎の「新論」(1825)は、尊王攘夷思想とその運動の聖典とされるまでになった。
会沢正志斎の「新論」は、国体、形勢、虜情、守禦、長計の5論7編から構成されている。国体においては、皇祖・天照大神が忠孝の道徳に基づいて建国された、わが国の政治体制の原理を記し、内政面から国力を充実させる方策を述べている。
次に形勢、虜情において世界の大勢を観望し、西欧列強が領土的野心をもって近海に迫っている危険性を説いた。
守禦においては、この危険性を予め防止するための軍事的措置として、屯田兵、海岸の整備、鉄砲技術の訓練、軍事物資の備蓄などの必要性を述べた。
そして最後の長計で、建国の精神に立ち返った政治のあり方について述べた。
会沢正志斎の「新論」は、もともと一般世人に示す書ではなく、当時の水戸藩主・徳川斉脩(なりのぶ)に上呈することを目的にしたものであった。
しかしそれが果たせないでいるうちに、門人や有志たちの間に、この書が筆写されて広まり、さらに出版にまで到ったものである。
その結果、嘉永年間(1848-1853)には本活字本、安政4年(1857)には整版本となり出版された。当時のペリー来航をはじめとする外国艦隊の入航が相次ぐ緊迫した時代背景を受けて、この状況に対応した「新論」はベストセラーになり、全国の志士たちに読まれた。
「新論」の論点は、朱子学の立場から藤田幽谷の正名論の趣旨を、さらに詳細に展開したものである。特に天皇の機能は、幽谷が「上天に敬事し、宗廟の礼、以って皇尸(皇祖)に君事する」としたものを、正志斎は「天朝、武をもって国を建て、詰戎方行する(=軍備を充実して四方に武威を振るう)由来は旧(ふる)し」としている。
しかしこの考え方をとると、軍備や政治を幕府にまかせる根拠が失われて、天皇が祭祀のみか武力の頂点に立つことにより、国家権力は1本化されて、一挙に「王政復古」に突き進む危険性を秘めていた。
そこまで会沢正志斎が考えていたかどうかは定かではないが、昭和になってよく言われた「祭政一致」という思想は、この水戸学を基盤にしている可能性が高い。
▲藤田東湖の弘道館記述義
水戸光国による大日本史編纂を以って始まった水戸学の第2期の冒頭を飾るのが、徳川斉昭公により設立された弘道舘の発足趣旨を明確にした「弘道舘記」である。そこでは比較的短い文章にも拘らず、第2期水戸学のエッセンスが見事に集約されていた。
この重要な水戸学の宣言文とも言うべき論文に、藤田東湖が詳しく解説を加えたものが「弘道舘記述義」であり、水戸学では新論に並ぶ重要な文献といわれていた。
藤田東湖(1805-1855)は、藤田幽谷の子である。東湖は江戸へ出て亀田鵬斎らに学び、文政10(1827)年に父のあとをついで彰考舘編集となった。天保12(1829)年には総裁代理となり、藩主継嗣問題においては、下士改革派の中心となって活躍して、徳川斉昭の擁立に成功した。以後、斉昭の側にあって藩政の中枢を握り、藩政改革を推進した。
しかし天保15(1844)年、徳川斉昭が幕府から謹慎を命じられると、東湖も蟄居したが、のちに斉昭が幕政に参与するようになると東湖も側用人として活躍し、特に海防策に尽力した。
東湖は尊王攘夷派の志士たちと幅広い人脈をもち、正統の朱子学的名分論の立場から、尊王攘夷派の指導的位置を占めたが、安政の大地震で圧死した。
「弘道舘記述義」は、藩政改革にまい進していた天保13(1842)年ころ書かれたと思われものである。
徳川斉昭の「弘道舘記」は、短い文章の中に、天皇、徳川将軍、水戸藩主の名分を明快にする試みをしていた。東湖は、「弘道舘記述義」において、さらに大日本史の編纂への参加の経験を生かして、「弘道舘記」の内容を歴史的に詳しく展開している。しかも朱子学的名分論の立場から、皇室、将軍、水戸藩の歴史と名分を、詳細に展開している。
そこで注目されるのは、上記の3者をつなぐたて系列を、「忠孝無二」という思想で一元化したことである。たとえば「弘道舘記述義詳解」に次のように書いている。
「忠という事と孝という事とは、日常行為の上において途を異にし行り方が違うのみである。されどその信実真心を尽くす上においてはその帰(おもむき)は同じうしてしているのであって、唯だ父に誠意を尽くすことを孝といい、君上に誠意を尽くすことを孝というので、我が心衷の根底より真心を尽くす所以にいたっては即ち同一である」。つまり東湖によれば、「忠孝二無きや亦明らか」であり、「吾が誠を尽くす所以に至っては即ち一である」といっている。
しかし幕末の段階において、「父」に相当する立場は、天皇、将軍、藩主の3者である。しかもその間における利害は鋭く対立していた。
その意味で、水戸学における忠孝一元論は、極めて空論であり、水戸藩の悲劇はその人の良さに起因したように思われる。そのためにこの水戸学における忠孝一元論は、むしろ明治以降の日本政府により利用された。
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