アラキ ラボ
彷徨える国と人々
Home > 彷徨える国と人々1  <<  26  27  28  29  >> 
  前ページ次ページ
  (4)変貌する日米軍事同盟 ―試される90年代

 日米軍事同盟は、1951年9月8日にサンフランシスコでソ連や中国を排除したアメリカを中心にした「西側陣営」と日本の間で締結された平和条約に引き続き、日本とアメリカ合衆国との2国間で結ばれた「安全保障条約」(=旧日米安保条約)に基づく日米同盟に始まる。

 最初の日米安保条約は、9月8日にサンフランンシスコ市内のオペラ・ハウスにおいて21カ国という多数の国々が参加して行なわれた調印式の後で、市内のアメリカ第6軍司令部に場所を移して、日米の2国間のみで調印されたものである。

 そこでは平和条約の調印とは異なり、日本側では吉田首相1人が署名し、アメリカ側はアチソン、ダレスなど4人が署名した。
 吉田は、日本国内において安全保障条約の締結には、反対の空気が強いことを考慮して、自分1人で責任を負う形にしたといわれる

 この最初の日米安保条約は、連合軍による占領状態を終結するに当たり、アメリカが日本と沖縄の基地を維持し、ソ連と軍事的に対決する足場とする必要性から生まれたものである。
 そのため当然とはいえ、アメリカの国家的都合を中心にした片務的な性格が強いものであった。
 その間の事情については、このwebの「どこへ行く日本」のうち、「9. 平和日本のカタストロフ −第二部 戦後の日米関係(その2)」に詳述しているので、その項を見ていただきたい。

 岸信介首相による1960年の新安保条約への改定は、日本を独立国として日米の軍事同盟をより対等の関係に移行させようとするものであった。それは独立国としては当然の方向であったといえる。
 しかしその新安保条約への改定は、日本国民から歴史的にかつて経験したことのないほどの反対運動に遭遇することになった。それが全国民的に高揚した、60年安保改定に対する反対運動であった。

 その反対運動の最大の理由は、新安保条約により日米の対等な軍事同盟へ移行した場合、日本の利益とは無関係なアメリカの戦争に日本が巻き込まれる危険性が生じることと、岸信介という戦前の政治家を通じて、日本が再び戦前と同じ戦争への道を辿る危険性に対する国民の反発であったといえる。

 しかし結果的には、岸内閣の新安保条約は自然成立した。そしてそれから10年後に行なわれた佐藤内閣による70年安保条約の改定は、自動継続ということになった。
 そのことにより新安保条約による日米対等の軍事同盟の体制は、1960-1980年にかけて日米間で定着してきたといえる。
 しかし日本には、国家による戦力行使を否定する憲法が存在するため、日米の軍事同盟といっても、建前としては、70年安保の佐藤政権によって確立した「非核3原則」に基づくものであった。しかし現実には、米軍基地の独立性と基地の自由使用が前提になっていた。

 つまり日米の軍事同盟は、建前と実体が大きく食い違ったまま、それを十分に知った上で、黒を白と言いくるめる論理を積み上げてきた
 そのため、日米の政府自身の相互不信は、その陰で非常に高まってきていたといえる。
 1990年代になり、日米同盟の相互不信は、北朝鮮の核開発疑惑と中台危機により一挙に炙り出されることになった。

●北朝鮮の核開発疑惑 ―それは核戦争の寸前まで行った!
 1993年から94年にかけて、北朝鮮の核疑惑は核危機へと発展し、国際政治の焦点に登場してきた。
 93年2月、国際原子力機関(IAEA)は、北朝鮮が査察対象として申告していなかった2施設の「特別査察」を要求した。これに対して、北朝鮮はこの査察を拒否し、3月にはNPT条約(核拡散防止条約)からの脱退を通告した。

 クリントン政権は、このことは北朝鮮が核兵器を開発しているとする「核疑惑」の証明であるとして、「北朝鮮が前向きの反応を示さなければ武力『制裁』を加える」方針を明らかにした。
 そこでクリントン大統領は、93年6月3日に、日本・韓国の高官をワシントンに呼び、6月4日付けで次のような日米韓の高官協議による「共同新聞発表」を行なった。

 「北朝鮮の行動が、朝鮮半島に重大な情勢を作り出し、また北東アジア地域の平和と安定に対し、さらに(核兵器の)国際的不拡散努力に対し脅威を作り出したことで合意した。
 我々は、国際社会が、国連安保理事会を通じて、制裁を含む適切な対応策を緊急に協議することを情勢は求めているとの見解を共有した」
    (小泉親司「日米軍事同盟史研究」新日本出版社、312頁)

 しかし北朝鮮の核疑惑に対する「制裁」には、明確な根拠があるわけではなかった。それはブッシュ大統領が、イラクのフセインが大量破壊兵器を保有しているとする疑惑によりイラクへの軍事攻撃に踏み切ったことに似ていた。
 当時、アメリカのペリー国防長官自身が、北朝鮮において「抽出された核燃料から核兵器に転用されたものはないと確信している」と述べているほどである。
 しかも核兵器の開発疑惑を理由に武力「制裁」を加える事は、国連憲章も認めていない。そして核を保有している5大国に対しては、査察も義務付けられていない。
 それにも拘らず北朝鮮の核疑惑だけを取り上げ、その「制裁」に固執するのは、明らかにNPT条約やIAEA体制が定める規定に違反するものであった。

 当時、クリントン政権は、武力制裁の選択肢として核兵器の使用も検討していた。そのため北朝鮮に対するアメリカの武力行使は、「一触即発」の危機を迎えていた。
 それは韓国の金泳三前大統領が、韓国の雑誌「月間中央」(99年8月号)のインタビューの質問に答えた記事からもわかる。
 そこでの応答は次のようなものである。(小泉親司「上掲書」314頁)
 
 (問)この機会に話してほしい。戦争一歩手前までいったという話はその通りなのか。
 (金)戦争一歩手前までいった。この問題のために、クリントンと私が極秘電話を設置した。・・(略)・・。
 上記の叙述においては、明らかにクリントン大統領は、北朝鮮に対する核攻撃の開始を決意していた。しかし金泳三前大統領の反対にあい、「クリントンはショックを受けたようだった」。

 そしてレイニー駐韓米大使及び大使館員とその家族たちがすべて引きあげる話がその後に続いており、かなり切羽詰まった深刻な事態が、金泳三大統領の政権下にある韓国において進行していた。
 ジェームス・レイニー大使は、この日増しに高まる緊張に危機感を強めていた。もし朝鮮半島で「戦端が開かれれば、米軍5万2千人、韓国軍49万人、民間人を含めれば、死傷者数は数百万人に上る、というのが在韓米軍の見積もり」であった。(「朝日新聞」1999年4月16日号)。

 何とか戦争を回避しようと考えたレイニー大使は、94年5月に、アトランタ州のエモリー大学の卒業式に出席するためアトランタに戻り、学長をしていたジミー・カーター元大統領の北朝鮮訪問を打診した。
 レイニー大使は、エモリー大学の学長としてカーター元大統領を迎え、そこに「カーターセンター」を作った人物である。
 
 カーター元大統領とレイニー大使は、91年に北朝鮮から招待を受けていた。それから年数はたっていたが、北朝鮮に問い合わせるとまだ有効であるということである。そこでホワイトハウスに打診して、ゴア副大統領、クリントン大統領の了解を取り付けることにより、カーター元大統領の訪朝を計画した。

 6月15日、オルブライト米国務長官は経済援助の停止など、北朝鮮制裁の安保理決議案を常任理事会に提示しており、緊張は一段と高まっていた。そのような中で、6月17日未明、クリントン大統領から金泳三大統領に緊急電話がかかり、クリントンは北朝鮮の寧辺の核施設への攻撃の許可を求めてきた。
 これに対して金大統領は「絶対にだめだ。私は司令官だ。韓国軍は1人も動かさない」(「毎日新聞」2003年2月25日付)といったとされる。

 両大統領の電話会談は数時間に及んだが、金大統領の賛成が得られず、電話会談は終わった。時差があるので同じ6月16日に、ホワイトハウスでは国家安全保障会議(NSC)が開かれていた。
 そこでは在韓米軍の増派が検討され、北朝鮮への開戦がさらに近づいていた。(「朝日新聞」1999年4月16日)
 ここへカーター元大統領から、北朝鮮が核開発の凍結に合意したという電話が入り、戦争はぎりぎりのところで回避されたといわれる。
          (五十嵐仁「戦後政治の実像」、小学館、282頁)
 
 丁度、朝鮮半島において核戦争の開始直前の深刻な危機が進行している最中、日本では自民党が野党にくだり、細川連立政権が成立していた。そして94年春には、突然の国民福祉税による大騒動?が持ち上がり、朝鮮半島の核危機どころではなかった??頃のはなしである。
 朝鮮半島で一触即発の危機が進行していたとき、日本の外務大臣の言動がさらに日米同盟に冷水を浴びせた話が、船橋洋一「同盟漂流」岩波書店、310頁―に載せられている。

 同書によると、94年春、新生党の外務大臣・羽田孜氏がワシントンを訪れていた。そこで有力上院議員との懇談の場が設けられたとき、上院院内総務のジョージ・ミッチェル(メイン州)氏が、朝鮮有事の際に、日本はどうするつもりだ? と尋ねた。
 すると羽田氏は、日本国内における国会答弁のように「憲法の範囲内で、やる事はやる」と答えた。この日本の外務大臣の驚くべき答弁に、ミッチェル氏はキョトンとして、言葉を失った。

 「自分の隣の国で、自分の海で、何かがあった時、憲法の範囲内だと?それで、その範囲内で一体、何をするんだ?」
 別の議員がたたみかけた。
 「アメリカの若者をそんなに遠くまで送り、危険にさらさせるのに、日本は何もしない。そんな話はないだろう。だいたい、日本そのものが危険な状態にあり、脅威を受けるというのに、何もしないというのはどういうことなのか?日本は本気なのか?」
 「もうあきれ果てた。物も言いたくない」という空気を羽田氏は肌で感じていた。(船橋洋一「上掲書」315頁)

 日本の連立政権には、社会党が与党として入っており、社会党は北朝鮮と友好関係にあった。そこで「国会での議論」や「表の議論」は当面中止し、徹底的に勉強?することを外務省に指示した
 朝鮮半島で核戦争が始まろうとしていたとき、日本政府は一生懸命勉強していた。いったい、何の勉強をしていたのであろうか??

 社会党の伊藤茂運輸大臣は、「北朝鮮からの大量難民、日本海から上陸」の可能性に悩んでいた。そこには超法規的措置しかなく、法的手段はなにもない。
 伊藤大臣がそこから得た教訓は2つあった。1つは、事態をそこまでいかせないように外交を強化すること、いま1つは、驚くべきことに、PKO法では鉄砲を撃つことを決める責任は兵隊にある。これを保安庁の職員の行動責任は、大臣と長官がとることにする、と修正することであった。(船橋洋一「上掲書」316頁)

 北朝鮮は、国連制裁が発動したとき、ソウルのみでなく、日本を火の海にする事を公言していた。
 しかも前年の93年5月、北朝鮮は中距離弾道ミサイルの「ノドン1号」を日本海に向けて発射し、成功していた。
 94年2月の日米首脳会談では、朝鮮半島の問題が半分を占めた。そして帰国した細川総理は、石原信雄・内閣官房副長官に「朝鮮有事の研究」を指示した。それから日本は、国連が制裁を決めた時の対応策を作り始めた。

 北朝鮮は、国連制裁が発動されれば「宣戦布告だ」と言明していた。94年春からは、米政府の中からも軍事的解決を辞さずとする見解が出ていた。ところが日本では、この重要な時期にさらなる政治的混乱が続いていた。
 94年4月8日、細川首相は突然、政権を放り出し、朝鮮半島の危機が頂点に達していたときに、日本では政治的空白が生まれていた。

 4月25日になり、ようやく羽田内閣が誕生したが、これも2ヶ月しか持たず、6月17日に自民党は羽田内閣不信任案を提出して、日本は再び政治的大混乱に突入した。
 まさに朝鮮半島で戦争に突入するかどうかぎりぎりのせめぎあいが続いていたときである。
 この間に米政府は、緊急事態における日米同盟のもろさ、危うさをいやというほど味合わされていた。

●第2次朝鮮戦争への日米軍事作戦計画の進行
 94年春、朝鮮半島が第2次朝鮮戦争の開始直前の状態に追い込まれていた段階で、日本の政治は殆ど収拾不能のような混乱状態に追い込まれていた。
 このように日本の政治が殆ど頼りにならない状態になった段階において、米軍と自衛隊との間では、朝鮮有事を前提にした詳細な軍事計画が作られていた事が、99年になって明らかになった。

 それは99年3月26日に、衆議院における日米防衛協力の指針(ガイドライン)に関する特別委員会において、クリントン政権が作成した朝鮮半島の戦争計画に基づき、自衛隊統合幕僚会議が作成していた「対米支援要求の経緯」という計画を、日本共産党の志位和夫書紀局長(当時)が取り上げた事から明らかになった。
 しかし当然のこととはいえ、防衛庁は公式の計画としてそれを認めているものではない。(衆議院ガイドライン特別委員会、99年3月26日)

 その経緯は次のようなものである。

(1) 94年4月15日、在日米軍司令部第4部が、自衛隊「統幕4室」に
   996項目に及ぶ「対米支援要求(第1次案)」を提出してきた。
(2) 94年10月14日、在日米軍から外務省に1900項目の「第2次案」が
   提出された
(3) 95年10月27日、在日米軍司令部第3部から防衛庁防衛政策課、
   統幕3室に対して「対日支援要求」の説明。在日米軍司令部は
   「第3次案」を作成中。
(4) 95年12月1日、「第3次案」を非公式に入手。項目数は、1059項目。
(5) 96年3月8日、「対日支援要求(第3次案)の幕僚資料」に基づく
   細部の検討開始。内局防衛政策課は、関係省庁との検討や防衛庁
   の内部検討、対応を取りまとめ、総理、官房長官に報告。

 このように、自衛隊内部では、米軍の「対日支援要求」についての検討が行なわれていた。しかし野呂田防衛庁長官は、「こういうものがまとまった形で防衛庁へきたという事実は承知しておりません。」と答えている。(衆議院ガイドライン特別委員会、99年3月26日)

 そこには自衛隊の基地ばかりか、民間空港や港湾を米軍の出撃基地化する計画が明記されていた。「支援要求」は、朝鮮半島の有事を想定して、日本全土を後方支援の拠点として、可能な限り米軍兵力を集中して行なわれる作戦であった。

 自衛隊基地の利用では、米海軍基地に隣接する海上自衛隊基地の支援を要求しており、共同使用基地化の要求を行なっていた。
 軍需物資の輸送では広島県の川上弾薬庫から、弾薬輸送のために10トントラック148台、沖縄の海兵隊基地と山口県の岩国基地でトラックやトレーラー1370台、沖縄や佐世保などで1333のコンテナーを用意して輸送する要求など、が出されていた。

 これらの計画をみると、朝鮮半島有事の際には、日本全土が米軍の出撃基地・兵站基地となる事が分かる。

●中台危機
 1996年3月5日朝の北京放送は、中国人民解放軍が8日から15日まで、台湾沖の所定海域内で地対地ミサイルの実験を行なうので、安全のため航空機や艦船はこの海域内に立ち入らないようにという警告を発表した。

 この3月には台湾で総統選挙が行なわれており、これに対する圧力をかけるねらいがあることは明らかであった。
 クリントン政権は、ただちに原子力空母ニミッツと横須賀を母港とする空母インディペンデンス、巡洋艦バンカーヒル、駆逐艦オブライエンなどの空母機動部隊を、その海域に出動させた。

 沖縄嘉手納基地からはRC135偵察機が現地に向かい、沖縄第3海兵隊第31海兵遠征隊に出動待機命令が発令されて、台湾海峡は一挙に緊張に包まれた

 米下院は、中国が台湾を攻撃した際には、「台湾関係法」に基づき、台湾防衛のため米軍の軍事介入を求める決議を行なった。
 ニクソン政権は79年の米中国交回復の際、「一つの中国」政策を表明するとともに、「台湾関係法」を作り台湾への軍事援助を事実上存続させた。

 台湾関係法第2条は、「西太平洋における平和、安全及び安定の維持に寄与する事」を明示していた。そして米国がとるべき外交政策として、「米国は台湾住民の安全、あるいは社会または経済体制を危機にさらす、いかなる武力行使または他の形による強制にも抵抗する能力を維持する」としていた。

 さらに第3条においては、「大統領は台湾住民の安全あるいは社会、もしくは経済体制のいかなる脅威、およびそれから生じる米国の利益に対するいかなる危険についても、迅速に議会に通報するよう指示される。
 大統領と議会は、憲法上の手続きに従い、このような危険に対応して米国がとる適切な行動を決定しなければならない」と明確に台湾の「防衛」を規定していた。(小泉親司「前掲書」320頁)

 96年の中台危機は、はからずもこのアメリカによる台湾の軍事的防衛体制を現実的に試す機会になった。一方の中国は、アメリカによるこのような軍事的防衛体制があることを知ってか、知らずか? 96年2月に15万人の中国軍を動員して、「台湾開放」の侵攻作戦である「海峡961」に着手した
 これは94年、中国共産党軍事委員会により完成していたものであり、次の3段階の作戦から構成されていた。(船橋洋一「前掲書」390頁)

(1)第1段階 ミサイル発射 ―空軍基地、レーダ−基地、通信系統の破壊。 
(2)第2段階 制空権の把握 ―空海合同で、制空権を把握する。 
(3)第3段階 上陸作戦 ―海軍と空軍に護衛された陸軍上陸部隊が渡海、上陸する。

 今回は第1段階が目玉であり、3月8-15日にかけてミサイルの発射演習が行なわれることになった。
 第2段階は、3月12日から台湾海峡の東山島(広東省)と南澳島(福建省)で、海空合同の水上・地上攻撃の実弾演習で行なわれた。
 第3段階は、18日から25日にかけて実施された。悪天候が続いたため、3軍による共同作戦は殆ど実施されず、江沢民国家主席の現地視察も中止された。

●変貌する日米軍事同盟
 90年代初頭におけるソ連の崩壊、94年の北朝鮮の核開発疑惑、そして96年の中台危機を通して、それまでの日米同盟は大きく変貌を余儀なくされる事になった。
 それは圧倒的に大きな軍事大国であったソ連が後退すると同時に、次の軍事大国化が予想される中国が進出し、北朝鮮が核保有国への仲間入りをすることによって、地域的核戦争を想定した日米同盟への組み換えが要請され始めたことによる

 このような軍事同盟の中で沖縄の地勢的役割は、中国、朝鮮と近いことにより益々重要性を増しているのみか、沖縄を含む日本列島全体がロシア、北朝鮮、中国に対するアメリカ国防の第一線としての重要性を増してきたことが、90年-2000年代にかけて明確になってきた。

 その軌跡を辿ってみると、まず96年4月、クリントン大統領と橋本首相が東京で日米首脳会談を行い、「日米安全保障宣言 ―21世紀に向けての同盟」を発表した。それはクリントン政権がすすめてきた、日米安保条約の「再定義」の結果として行なわれたものである。

 そこではアジア・太平洋地域にアメリカは10万の兵力を維持するが、それとともに、「日本周辺地域において発生しうる事態で、日本の平和と安全に重要な影響を与える場合」と認定されれば、何時でも自衛隊が参戦するとともに、政府・民間企業を動員した「日米間の協力に関する研究」を行なおうというものであった。

 「宣言」では、(1)「アジア・太平洋」全域を「防衛対象範囲」とした攻守同盟をめざしていた。そしてそのために、(2)「両国政府が、両国間の緊密な防衛協力が日米同盟関係の中心的要素である事を認識し」78年の「日米防衛協力の指針(ガイドライン)」の見直しをすることで合意した

 そのために従来の安保条約第5条は、現実に日本に武力攻撃が行なわれた場合に限定されていたものを、日本が武力攻撃をうけていなくても、自衛隊が米軍との共同軍事行動が出来るようにした

 さらに旧ガイドラインは日本への「武力攻撃の怖れ」が前提であったが、それが、日本への武力攻撃とは関係がない「周辺事態」に拡張された
 つまり中国の「人民日報」の言葉を借りれば、「日米安保体制はすでに『ソ連抑制』から『極東有事』の対応に転化し、『1国型から地域型へ』、『防衛型』から『攻撃型』へ変わり、日本も『被保護型から参加型』へ変わった」(小泉親司「前掲書」332頁)

 97年9月23日、「日米安保宣言」にもとづく「日米防衛協力の指針」(ガイドライン)の見直しが終了し、78年の旧ガイドラインに代わる新ガイドラインが合意された。これにより、周辺事態とアメリカの先制攻撃への協力関係が出来上がった。
 さらに、これにより自衛隊による「後方地域支援」と称する「兵站支援」活動が可能になった。

 小渕内閣の98年4月28日には、日米ガイドランに関連する3法案が国会に提出、制定された
 ―「周辺事態に際してのわが国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律案」(周辺事態法案)、「自衛隊法改正案」、「日本国の自衛隊とアメリカ合衆国軍隊との間における後方支援、物品または役務の相互の提供に関する日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定」(「日米物品役務相互提供協定(ACSA協定)」がそれである。

 この新ガイドラインによる日米軍事同盟の拡大・強化により、在日米軍基地からは、中東・ペルシャ地域、アジア・太平洋地域への襲撃が可能となり、大きく変貌を遂げた。
 2000年9月21日の市議会で鈴木三沢市長は、アメリカは「日本をまるで植民地扱いしているのではないかと思う」と答弁した。(小泉親司「前掲書」367頁)

 沖縄返還に当たり結ばれた米軍基地の自由使用の秘密協定は、現在では公然たる協定となった。そして日本国民が余り明確な認識を持たない間に、かつての「沖縄」の米軍基地のありかたは、90年代を通じて日本列島の全米軍基地のありかたに拡張されたようである。
 まさにアメリカは、沖縄を日本に返却することにより、日本列島のすべてを沖縄化する事に成功した。
                                                (つづく)






 
Home > 彷徨える国と人々1  <<  26  27  28  29  >> 
  前ページ次ページ