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彷徨える国と人々
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1.ロッキード事件 −「田中支配」とは何であったのか?
2.三島事件とは何であったのか?
3.安保条約の改定反対と新左翼
4.よど号事件とその後
5.連合赤軍の事件
6.日本赤軍の事件
7.金大中事件と朴政権
8.北朝鮮による拉致事件とは何であったのか?
9.佐藤政権の沖縄返還と日米軍事同盟の変貌

10.北方領土問題とは何なのか?(第1部)
(1)「北方領土問題」とは? ―戦後の日露外交史そのものであった!
(2)日ソ中立条約とは何であったのか?
(3)日ソ戦争と「北方領土」の誕生

11.北方領土問題とは何なのか?(第2部)
 
  10.北方領土問題とは何なのか?(第1部)

(1)「北方領土問題」とは? ―戦後の日露外交史そのものであった!
 日本列島は、地質学の分野において「花綵(さい)列島」という美しい名前で呼ばれている。「花綵」とは「花飾り」のことである。
 それは日本列島が、ユーラシア大陸、中国大陸から垂れ下がる花飾りに似ていることからきている。
 この美しい島々を北から見ると、その最北端にカムチャッカ半島から北海道に繋がる千島列島、その次に北海道から九州に繋がる日本列島の本島があり、その南には、九州から台湾につながる琉球諸島がつらなる。

 これらの島々は、戦前においてはそのすべてが日本領であった。それが敗戦によりアメリカとソ連に占領され、沖縄はアメリカ、樺太と千島列島は旧ソ連、現在のロシア領となった。
 南の沖縄は1972年5月15日に日本に返還されたが、ソ連に占領された北の樺太の南半分と千島列島は、今に至るまで返還されていない。

 簡単にいえば、「北方領土問題」とは、日本がロシアに返還を求めている北方の旧日本領土の返還を巡る問題のことである。
 戦後、日本とロシアとの関係は、この北方の領土問題を軸に動いてきた。そしていまや、その推移は戦後の日露外交史そのものになっている。

 ロシアが旧日本領の返還に応じない根拠は、1951年9月8日に日本と48カ国との間で締結されたサンフランシスコ平和条約の第2条C項において、日本が千島列島と樺太南部およびこれに近接する諸島に対する権利、権限、請求権を放棄したことにある。

 ところが、このサンフランシスコ平和条約にソ連は参加していない
 さらに、この放棄した「千島列島」には、歯舞、色丹、択捉、国後の4島は含まれないとする日本政府の見解が1964年6月17日に発表されており(外務次官通達)、それを認めない旧ソ連との間で長い交渉が続いている
 その上、この政府・外務省の見解も、日本の国内において必ずしも統一的に確認されているわけでもない。
 そこで、この長い期間の問題を、まず日本の国内における「北方領土」の範囲の見解から眺めてみよう。

●「北方領土」の範囲とは?
 上記の日本政府が定義する「北方領土」は、国内の政党、諸団体の見解を拘束するものではなく、現状ではその範囲は、大体、次の5つの種類に分けられる。(恵谷治「北方領土の地政学」カッパビジネス、156-158頁および岩下明裕「北方領土問題」中公新書)

(1) 南樺太、全千島列島、歯舞列島、色丹島:全領土返還論
 終戦時に日本領土であった地域は、すべて回復すべき範囲であるとする見解である。

(2) 全千島列島、歯舞群島、色丹島:全島返還論
 この見解は、日露戦争の講和会議である1905年のポーツマス条約で獲得した南樺太の放棄は容認するが、1875年の千島樺太条約により平和的に獲得した全千島は、放棄する必要はないと考えるものである。
 政党では日本共産党と旧社会党の一部がこの見解をとっている。(1981年9月10日朝日新聞)

(3) 千島(=択捉・国後)、歯舞群島、色丹島:4島返還論
 いわゆる「北方4島」の返還論であり、日本政府、外務省の公式の立場がそれである。
 1855年2月7日に締結された日魯和親条約により、択捉島とウエルプ島の間を国境とし、樺太は両国の雑居地としたことを根拠としている。
 これらの地域は、この条約の締結以前から幕府の政治的支配下にあったものであり、旧ソ連による占領以外に外国による支配を受けた事のない地域であることから、この4島を「日本固有の領土」と考える。
 この立場は、政府、自民党、公明党、旧民社党、旧社民連など、多くの政党が支持している。

(4) 歯舞群島、色丹島―日ソ共同宣言・1956.10.19):2島返還論
 この「2島」は、サンフランシスコ平和条約で放棄した千島群島に含まれず、北海道の一部であると考えられている。
 それはロシア語でも千島群島を「クリル列島」とよぶのに対して、歯舞、色丹はそれに含まれず、「小クリル列島」と呼んでおり、ロシアでも2島を千島列島から区別していることを根拠にしている。

(5) 国後島、歯舞群島、色丹島―2島返還+アルファ論:3島返還論
 中ソの国境紛争の解決方法から、返還交渉のアルファ部分に国後島を加えて、3島返還を要求しようというものである。21世紀に入り北大教授・岩下明裕氏などにより提起された。(同氏、「北方領土問題―4でも0でも、2でもなく」)、中公新書)

 北方領土問題の出発点となる「日ソ共同宣言」は、1955年8月9日、ロンドンにおいて、日本側全権・松本俊一とソ連側全権マルク駐日大使の間で行なわれた日ソ国交調整交渉において、ソ連側の平和条約案として出されたものである。それが2島返還案であった
 その後、この案はフルシチョフも言明し(9.21)、鳩山首相は2島返還で早期妥結を開陳(10.25)した。しかし当時、保守合同した自民党が結党大会で4島返還を党議とした(11.15)ため、実施に到らなかった

 1956年にモスクワで行なわれた日ソ交渉において、重光全権は2島返還で平和条約に調印する意思を正式に表明した(8.11)。
 しかし今度はアメリカのダレス国務長官が、日本が2島返還に合意すれば、アメリカは沖縄を永久に領有すると横槍を入れ(8.19,8.28)、2島返還は流れた。
 その結果を受けて、1956年10月12日に初の日ソ首脳会談に臨んだ鳩山首相は、最も重要な領土問題を棚上げにせざるを得なくなり、未解決のままで現在まで続く日ソ領土交渉の出発点となった。






 
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