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彷徨える国と人々
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  (2)佐藤政権の沖縄返還交渉

●佐藤栄作は、「沖縄返還」を目玉に自民党総裁選を戦った!
 佐藤政権が成立したのは、1964年11月のことである。この60年代初頭には、「戦後」の占領状態が続いてきていた沖縄の処遇を、早急に明確化する必要性が内外から生じ始めていた。

 沖縄は戦後27年間も、アメリカの施政権の下に置かれてきていた。
 このことについては、アメリカの国立公文書館の秘密文書を調べた共同通信の春名幹男氏による驚くべき証言がある。
(「秘密のファイル CIAの対日工作、新潮文庫、下、369頁」

 それによると、戦後の沖縄政策をめぐり、アメリカの国務省と国防省との間で激しい対立があった。国務省は沖縄を日本の支配下におき、非軍事化すべきであるとしており、1946年6月に国務・陸軍・海軍3省調整委員会(SWNCC)に提案した。これに対して軍事戦略の観点から猛烈に反対したのが、統合参謀本部(JCS)であった。

 この対立に、軍部にとっては意外な「味方」、国務省には意外な「敵」が現れた。その意外な人物が昭和天皇であった。1947年9月20日、天皇の「御用掛」であった寺崎英成がGHQの政治顧問ウィリアム・シーボルトを訪ね、その結果が、マッカーサー元帥に「琉球諸島の将来に関する天皇の意見」という秘密メモとして提出されたという。

 寺崎が述べた昭和天皇の意見は、次のようなものであったという。
「天皇は、米国が沖縄の軍事占領を継続して欲しいと希望しております。天皇の意見では、こうした占領は米国にとって利益であり、日本の防衛にもなるとのことです。」
 「天皇は、米国の軍事占領を、25年ないし50年、またはそれ以上の長期間にわたって継続し、その間日本が主権を保持する、といったような仮定に基づいて決めてはどうか、と考えておられる。」というものであった。

 寺崎によるこの天皇の配慮の根拠は、中ソに日本に手出しをさせないために、アメリカに半永久的な沖縄の軍事基地使用を認める、とするものであったといわれる。(春名幹男「上掲書」370-371頁)

 その状況は、60年代には大きく変わりつつあった。まず1960年の第15回国連総会において「植民地解放宣言」が採択され、「あらゆる形の植民主義をすみやかに、かつ無条件で終止させることの必要性が宣言された」。
 これを受けて、日本の外務省は「沖縄は植民地に該当しない」との見解を表明した。そして3月2日には、ケネディ大統領の新政策において、「琉球諸島は日本本土の一部であることを認める」ことが公式に表明された。

 この沖縄は日本本土の一部であるとする見解を受けて、1964年の自民党総裁選を目指して、佐藤は愛知揆一をチーフとした政策プロジェクト「Sオペレーション」を1月14日に発足させた。
 6月27日に完成したこのプロジェクトの報告書には、早速、沖縄と北方領土の返還をうたっていたが、最終的にはそれは削除された。

 7月の自民党総裁選には4人が立候補し、選挙の結果は第1位・池田勇人、第2位・佐藤栄作、第3位・藤山愛一郎、第4位・灘尾弘吉となり、池田が自民党総裁に就任した。
 しかし池田は、その直後、東京オリンピックの開会式に出席した後の10月10日にガンで入院した。そして11月9日に、池田勇人に代わって佐藤栄作が内閣総理大臣に就任した。
 佐藤は既に7月の記者会見において、「沖縄返還」を自らの政治課題とすることを提起していた。その意味で沖縄返還は、佐藤政権に最初から設定された政策になった。

 しかし、ベトナム戦争は激化しており、沖縄の軍事的重要性が高まる中での沖縄返還は、非常に困難が予想された。そのため佐藤は「焼身自殺」の道を選んだといわれたほどである。
 そのような中、65年1月に行なわれた佐藤・ジョンソン首脳会談において、佐藤はアメリカ側に沖縄本島以外の施政権の返還を優先させる「先島返還」を提案した。
 そして日米共同声明においては、沖縄の施政権をできるだけ早い機会に日本に返還する願望を表明することに留まった。

●佐藤・ジョンソン会談
 ★ベトナム戦争の激化の中で、沖縄返還は無理な要求か?
 一方、ジョンソン政権下でのベトナム戦争は拡大の一途を辿っていた
 65年4月に、ボルチモアのジョン・ホプキンス大学で講演したジョンソン大統領は、ベトナム戦争は北ベトナムによる南ベトナムへの攻撃であり、さらにその背景には北京政府がいると語った。
 そして、さらに果てしなくベトナム戦争を拡大する道を選択した。

 6月にはB52戦略爆撃機による爆撃が開始され、7月には南ベトナムへの地上軍の増強が行われた。
 その結果、68年初頭には南ベトナムの米軍兵力は50万人を超え、11月には原子力空母エンタープライズが第7艦隊に配属される事態となった。
 既に66年6月から7月にかけての北爆はハノイ、ハイホン地区に及んでおり、12月にはハノイ市街まで爆撃された。
 爆撃の範囲も病院、学校などに対する無差別爆撃にまでエスカレートしており、このことから世界中の世論を敵に回す事態を招いていた。

 このような北爆の拡大とその日常化にも拘らず、北ベトナムの士気は逆に高まっており、解放戦線も67年4月から軍事的攻勢に出ていた。
 一方、50万人を投入した米軍の死傷者は、67年末までに11万6千人を突破していた。
 その頃ベトナム戦争には、わずか17万平方キロ、人口1,700万人の小さな国土に、米軍50万、サイゴン軍60万、韓国軍などを含めるとなんと120万人の大兵力が投入される状況になっていた。

 そこには毎月8万トンの爆弾が投下され、年間250億ドルという巨額な軍事費が費消されながら、軍事的にも政治的にもアメリカの敗退が続いていた。このような中で68年春から、南ベトナムの開放戦線は更なる大攻勢に出ようとしていた。

 このようにベトナム戦争がエスカレートする中で、沖縄の戦略的位置は益々増していた。その軍事的重要性から考えると、この状況下で日本が沖縄返還をアメリカに求める事は、殆ど無謀ともいえる状況にあった。
 このような中で、沖縄自身は日本への復帰を真剣に求めており、既に62年2月1日に、琉球立法院は満場一致で日本本土への復帰を決議していた。

 ★佐藤・ジョンソン首脳会談
 佐藤首相とジョンソン大統領の首脳会談は、65年1月と67年11月の2度、ワシントンで行なわれた。最初の首脳会談が開かれた「65年の世界は、概してベトナムに明け、ベトナムに暮れた」(「朝日年鑑」(1966年版))といわれる状況にあった。
 このような状況下での日米首脳会談において、沖縄返還の口火を切ることは容易ではなかったと思われる。

 しかし65年1月13日の日米首脳会談後の共同声明においては、従来、米国は沖縄の行政問題に日本の関与をかたくなに否定してきたのに対して、「大統領は、施政権返還に対する日本政府および国民の願望に理解を示し、極東における自由世界の安全保障上の利益が、この希望の実現を許す日を待望していると述べた。」(藤本一美、浅野一弘「日米首脳会談と政治過程」、龍渓書舎、159頁)
 そこでは一応、沖縄の施政権の返還が取り上げられており、大きな前進が見られたといえる。

 67年11月の第2回首脳会談は、ベトナム戦争が泥沼的拡大をしている最悪の段階で開かれた。
 そのため当然のこととはいえ、アメリカ側は次の3点を示して沖縄の返還時期を明らかにできないとした。
 (1) 施政権が返還されても基地の機能が十分維持できるか、日本が安全
  保障上、新しい貢献をするかの目途が付かない限り米国は返還の時期を
  明示できない。
 (2) 来秋の大統領選挙の前に大統領が長期的な取り決めを約束すること
  はできない。
 (3) ベトナム戦争の最中に、沖縄返還を近い将来のこととして約束した
  場合には、議会に対する大統領の力を弱める。

 結果として、共同コミュニケにおいて沖縄の施政権返還の方針は明示されたものの、沖縄の地位、本土との一体化などについては継続的に検討することとして、返還時期は明らかに出来なかった。
 しかしこの会談の結果として、返還時期の目安を「両3年以内」とすることをワシントンは了解しているとする情報が得られた。

●佐藤3選とニクソン登場
 1968年11月、自民党総裁選において佐藤は3選された。そして同年11月にアメリカ大統領として、共和党のニクソンが勝利を収めた。
 11月には沖縄において主席,立法院議員,那覇市長選挙が行なわれ、主席には「本土並み」、「無条件即時全面返還」を主張する革新共闘が押す屋良朝苗氏が当選した

 ニクソン大統領は、ベトナム戦争からの名誉ある撤退、東西冷戦体制の終結、ベトナム戦争への膨大な軍事支出の結果としての深刻な経済危機から脱却するための対処を迫られていた。
 その意味では、沖縄を巡る国際情勢は大きく変化しており、日本は返還交渉へのチャンスを迎えていた。

 沖縄返還に関する佐藤・ニクソンの首脳会談は、69年11月19日からワシントンで開かれた。この首脳会談を目指して、69年6月から9月にかけて愛知揆一外務大臣が2度渡米して、米国首脳と沖縄返還に向けて会談をもち、7月にはロジャース国務長官が来日して問題点を協議していた。

 佐藤・ニクソンの首脳会談は3回にわたり行なわれた。
(1)第1回会談(11月19日)
 歓迎式の後、首脳会談は通訳のみを入れた「さし」で行なわれた。そこでニクソン大統領は、「沖縄が日本の主権に入ったら、日本としても軍事的により大きな責任をとってほしい」と述べ、佐藤首相は「沖縄が現在、日本を含むアジアの安全保障に重要な役割を果たしていることを十分に踏まえて万事処していく」ことを表明した。(楠田実「太平洋新時代」、「佐藤政権・2797日」(下)、行研、所収)

 この会談で沖縄返還は正式に決まったといわれる。そして時期については愛知・ロジャース会談で1972年中に返還することが内定していた。
 しかし「核問題」は、大統領の専権事項であるため事前に詰めを行なうことができず、日米双方がそれぞれの案を用意していたといわれる。
 佐藤首相が、核兵器に対する日本国民の特殊な感情と日本政府の政策を説明し、その結果、ニクソンは日米安保条約の事前協議制度に関する米国政府の立場を害することなく(without Prejudice to)沖縄の返還を、日本政府の政策に背馳しないように実施する旨を佐藤総理に確約した案を提示したといわれる。(藤本,浅野「前掲書」、205頁)

(2)第2回会談(11月20日)
 この会談は経済問題が主題となり、懸案であった繊維の輸出自主規制が討議された。繊維問題については共同声明に盛り込まず、佐藤首相のいう「繊維問題を沖縄返還と取引した」という批判は避けられた。
 しかしこの問題に対するニクソン大統領の執着は強く、そのことに気がつかなかった佐藤首相は、71年7月のニクソン訪中の発表、71年8月15日の金・ドルの交換停止などにおいて、日本は「聾さじき」に置かれるという大変な疾病返しを食う事になった。

(3)第3回会談(11月21日)
 この会談により共同声明を採択して閉幕した。その共同声明においては、72年中の沖縄返還をうたうとともに、「核ぬき」も、日本の核政策にたがわない形、つまり「核ぬき・本土なみ」で実施するむねが確約されたとされる。






 
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