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(2)仏典とその形成

●インドにおける仏典の形成と中国への伝来
 
▲ブッダ入滅と教団の分裂
 ブッダの入滅は、BC383年?といわれる。その直後からマハーカッサバ(摩訶迦葉:シャカ十大弟子の1人)が中心となり、シャカの教えの整理、編集が始まったと伝えられている。これが第1結集とよばれるものである。
 しかしこの段階では、文字によるブッダの説教の記録がつくられたのではなく、口頭による口伝の突合せが始まったと思われる。その段階で仏教集団は一枚岩ではなく、ブッダの教えの「経」、仏教教団の規律「律」をめぐり対立が深刻化し、小分派に分裂して、その中からBC3世紀初期までに大乗仏教が成立したとみられている。

 ▲大乗経典の成立
 BC3-1世紀の段階で製作者を異にするグループにより、般若経、法華経、維摩経、無量寿経、阿弥陀経、華厳経などの大乗経典が作られたと思われている。BC250年ころ、ブラーフミー文字(アショカ王碑文文字)、カローシュテイ文字(驢唇字)で書かれた文字による原始経典が成立しており、ブッダの入滅後、約百年の間は、ブッダの教説は文字ではなく口伝によって伝えられていたようである。
 中国へ仏教が伝えられたのは、西暦の紀元前後と思われているが、この頃には、すでに大乗仏典の多くは文字に書かれたものとして伝えられたと思われる。これらの文字による原始仏典は、2世紀の中葉に中国において漢訳が始まった(古訳時代)。

●中国への仏教の伝達
  ▲龍樹
2-3世紀頃、南インドのビダルバの出身のバラモンと伝えられるナーガールジュナ (naagaarjuna)、漢訳名龍樹(りゅうじゅ)が現れ、「般若経」の空の思想を理論化し、中観論を確立し、中期大乗経典の唯識系の経典が成立する。彼は、サータヴァーハナ朝の保護のもと、セイロン・カシミール・ガンダーラ・中国などからの僧侶のために僧院を設けた。

 龍樹は、大衆部・上座部・上座部系説一切有部、さらには当時始まった大乗仏教運動を体系化したともいわれる。ことに大乗仏教の基盤となる「般若経」で強調された「空」を、無自性に基礎を置いた「空」(サンスクリット語では、シューニャSunya、数字のゼロの意味もある)であると論じ、釈迦の縁起を説明し、後の大乗系仏教全般に決定的影響を与えた。このことにより龍樹菩薩は、「大乗八宗の祖」として仰がれている。

 この頃、中国において仏典の漢訳が始まった。道生(355?-434)が漢訳した「妙法蓮華経疏」が最古のものといわれる。

  4世紀はじめ、インドではガンジス川の中流地帯を基盤にグプタ王朝が起こり、勢力を広げる。グプタ王朝はバラモンを保護し、その復興運動に務めた。その結果として、仏教の中にバラモン教の儀式が入り込む。この頃から、「解深密経」などの唯識系経典、「勝曼経」、「涅槃経」など如来蔵系経典など、中期大乗経典が作られる。
 4世紀に無着(アサンガ)、弟の天親が瑜伽行唯識派を確立し、大乗仏教は中観派と瑜伽行唯識派の2大学派に分かれる

 ▲鳩摩羅什による経典の訳出と宗派の成立 ―5-6世紀
 紀元4-5世紀頃、中国には西方から渡来した仏図澄(?-348年)や鳩摩羅什(344年-413年、諸説あり)などの高僧が現われ、旧来の中国仏教を一変させるような転機を起こした。特に鳩摩羅什は、インド出身で360年代 原始経典やアビダルマ仏教を学ぶ僧であったが、369年 受具し、須利耶蘇摩と出会って大乗に転向し、主に中観派の論書を研究した。
 401年 後秦の姚興に迎えられて長安に移転し、402年 姚興の意向で女性を受け入れて破戒し、還俗させられる。以降、サンスクリット経典の漢訳に従事した。

  鳩摩羅什により訳出された著名な仏典は、「坐禅三昧経」3巻、「阿弥陀経」1巻 、「摩訶般若波羅蜜経」27巻(30巻)、「妙法蓮華経」8巻、「維摩経」3巻 、「大智度論」100巻、「中論」4巻など多数にのぼる。

  6世紀の中国には、次々と仏教宗派が生まれた。但し、中国における宗派とは、日本における各宗派独自の制度を持った独立的な組織としての教団的な色彩は薄く、奈良時代の南都六宗に通じるような、講学上や教理上の学派に近いものであった。
 たとえば、次のようなものである。

  • 菩提流支(508年 - 535年)による地論宗
  • 真諦(499年 - 569年)による摂論宗
  • 達磨(? - 528年?)によるとされる禅宗
  • 智顗(538年 - 597年)による天台宗
  • 吉蔵(549年 - 623年)による三論宗
  • 杜順(557年 - 640年)による華厳宗
  • 道綽(562年 - 645年)による浄土教
  これらの中で、教団的色彩を持つに至るのは、天台宗と禅宗である。禅宗は、第五祖弘忍(602年 - 674年)以後、南北二宗に分裂した。分裂当初は、長安を中心とした唐の中心部、都市部に教線を張った神秀(?-706年、第六祖)の北宗が優勢であった。

●密教の普及とインド仏教の滅亡
 紀元7世紀には、玄奘三蔵(600―664年)が、唐の国禁を破って天竺(インド)へ単身砂漠をこえて仏典請来の大旅行を決行した(630―644年)。
 彼の請来した仏典は、組織的に漢訳が進められ、後世の東アジアの仏教の基盤となった。彼の弟子の慈恩大師基(632年 - 682年)は、法相宗を開宗した。

 この7世紀ころから、「大日経」、「金剛頂経」など後期仏教経典としての中期密教経典が作られた。初期の密教を雑密、中期の密教を純密、という。7世紀、チベットが仏教を積極的に導入し、そこでは最初から密教的性格の強い仏教が成立した。

 8世紀以降、後期密教が金剛頂経が主体となり、ヒンズー教的色彩を加えて展開した。
 11世紀の宋代に、インドの後期密教が伝えられる。
 13世紀始め、イスラム教徒により大寺院ヴィクラマシラーが破壊され、ここでインド仏教は滅亡した。





 
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