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日本人と死後世界
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  (4)極楽往生を目指す思想 -源信、法然

 道長の死は、極楽往生を現世の栄華世界の延長線上に求める耽美的なものであった。しかし道長の死から30年後の後冷泉天皇の永承7年(1052)をもって、末法の時代に入ったとする説が普及するにつれて、悲観的、厭世的な暗い念仏信仰に変わっていった。
後冷泉天皇(1025-1068)の頃から、この末法思想を裏付けるかのように、平安京では放火が昼夜を問わずに起こり、盗賊は横行し、その上大火、地震、疱瘡、大旱魃、飢饉などの天災地変が相次いだ。

 仏教では、釈迦の入滅後の時代を正法、像法、末法の3期に分け、正法千年、像法千年、末法一万年として、永承7年からこの最後の時代に入ったとしていた。人々はこの暗い末法の世の中で、厭離浄土、欣求浄土の厭世的な思想の拠り所を、念仏思想の中に求めた。

◆源信の「往生要集」 -厭離穢土・欣求浄土のすすめ

 念仏思想は、天台沙門源信(942-1017)の「往生要集」(985)により幕開いた。この書で源信は、浄土往生に関する従来の経論を抜粋、編集し、過去の160数部の文献から950余の文章を引用して、極楽浄土に往生するための思想と方法を説いた。

 第1章の「厭離穢土(おんりえど)」では、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天の六道の、世界の内容を述べた。特に地獄における等活地獄から阿鼻地獄にいたる8段階の恐ろしい世界の描写は、鬼気迫る迫力を持つ。

 第2章「欣求浄土(ごんぐじょうど)」では、念仏をつんだ人が死に臨んだ時、阿弥陀仏が多くの菩薩や比丘達をつれて迎えに来る「聖衆来迎図」を初めとする10の楽をあげて、極楽浄土への転生を勧誘する。

 第3章「極楽の証拠」で、十方浄土や兜率浄土に対して極楽浄土が優れている証拠をあげ、第4章から極楽往生のための念仏修行の方法を具体的に述べる。

 「往生要集」は、従来の難解な仏教理論に対して、念仏往生のための明解な理論と方法を提起することにより、浄土宗を起こす契機を作り出した。

◆法然上人の「選択集」(せんちゃくしょう) -浄土教の確立

 日本の浄土教の思想は、源信から約百年後の法然上人(1133-1212)により、さらに発展した。日蓮の言葉を借りると、源信の「往生要集」により日本の1/3が阿弥陀念仏者になり、法然の「選択集」により、日本の2/3が念仏者になった。(日蓮「撰時抄」)

 この書は上人の代表作であるのみでなく、日本に浄土教を確立した名著であると言われる。
 表題の「選択」とは、諸行を捨てて念仏を選び取るという意味である。この専修念仏の選択は、単に法然の選択ではなく、阿弥陀仏の選択であり、また釈迦仏の選択であり、さらに十方常沙(無数)の仏の選択であることを、本書により示そうとした。

 法然は、大・小乗の「自力聖道門」は難行道であり、普通の人は選択できない門であると考える。そこで普通の人、たとえば愚鈍下智の者、貧賎の者、少聞少見の者、破戒の者は、易行道としての「他力浄土門」を選択すべきであり、浄土門のほうが聖道門より優れたものとする。その理由は、阿弥陀仏の称号の中に、万徳が帰するものとしている。
 つまり法然は、選択の根本を専修念仏とし、易行、易修、易往としての念仏こそが、一般大衆に開かれたものと考えた。

 平安期の仏教は、基本的には社会の頂点に立つ貴族を対象にしたものであり、その思想も修行も、一般大衆から離れた遠いところで行われていた。つまり道長の極楽往生の方法は、一般大衆はまったく真似ることのできないものであり、そのことは、普通の大衆には極楽往生は不可能であることを示すものであった。
 源信、法然の浄土宗の思想は、さらに親鸞をへて、一般大衆の極楽往生への道を開くものとなった。

   しかし「選択集」では専修念仏を強調するあまり、法然は専修念仏以外の人を「破法の人」として切り捨てた。このことが、内に「破法の人」をつくり、外にいる多くの求道の士を敵にまわすことになった。




 
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