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日本人と死後世界
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  (2)古代貴族の死に方

◆念仏三昧による極楽往生 -藤原道長

 今から約1000年の昔、後一条天皇の万寿4(1027)年12月、一段と冷え込む平安の都、富小路の東に広大な地域を占める土御門京極殿の東寄りに、極楽浄土を模して建立された法成寺阿弥陀堂で、一人の貴人が死を迎えようとしていた。
 その貴人は、「藤原時代」とよばれる時代をつくり、「この世をば、わが世」と読んだ「御堂関白 従一位太政大臣 藤原道長」(966-1027)である。この「望月の欠けることなき」貴人にも、老いと病いは自分の思いのままにはならなかった。

 すでに50歳を越えて出家したころから「風病」(今の風邪ではなく、広義の成人病であり、貴族の多くがかかっていた)に「胸病」(「小右記」)が加わり、足も弱り、眼も見えない状態になってきていた。(岸元史明「王朝史の証言」)
 11月24日には、背中の腫れ物が胸まで広がり、12月1日にはその腫れ物を針でつぶした(「小右記」)。さらに、消化器系の病気が致命的になってきていたようである。

 さてこのような状態になった段階での道長の言動は、「栄花物語」に次のように記されている。まず長子の頼道に対して、祈祷や読経、さらにそばへ来ることまで断り、念仏だけを要求していた。彼は、自分の終焉を阿弥陀堂の念誦の室で迎えたいというのが年来の希望であり、その部屋には高い屏風を引き回し、そこには人を近づけないようにした。

 道長の長女彰子は一条天皇の后、同じく次女妍子(9月に死去)は三条天皇の后、三女威子は後一条天皇の后である。つまり三代にわたる皇后の父親が道長である。病気を心配した後一条天皇の行幸と東宮の行啓だけは、かろうじて受けたが、女院や中宮とも顔を合わさず、念仏三昧に過ごしたと言われる。

 この阿弥陀堂では、朝夕日中の3回の念仏は平生からもおこなわれていたが、めぐらせてあった屏風の西の方だけをあけ、阿弥陀仏の御手から我が手に5色の糸を引いて、北枕に寝て、最後まで念仏を唱えながら、62歳の生涯を閉じた。12月4日の午前10時ごろのことであった。死んだあとにも口が動いて、念仏を唱えていたといわれる。

 阿弥陀堂には、極楽に往生するための段階、九品往生に沿って9体の阿弥陀仏が安置されていたと思われる。9体の阿弥陀仏の安置は、藤原中期以降の阿弥陀信仰の特徴であり、東京の世田谷に今も残る「九品仏」の名もここに由来している。(岩本祐「極楽と地獄」 三一新書)
 道長は、この世に極楽世界さながらといわれた法成寺をつくっただけでなく、真の極楽世界への再生をかけて、念仏三昧の中で死んでいった。

 道長の葬送は、12月7日の夜、雪が降り続く鳥辺野で行われた。阿弥陀堂の南大門の脇の門から出た葬列は20町も続いた。念仏僧は、奈良、三井寺、比叡、岩倉、仁和寺、横河、法性寺の僧や尼僧が参加した。葬場では、院源座主が導師をつとめた。
 火葬がすみ、骨上げが行われた頃は夜明けとなっていた。甕に入れられた骨は、左少弁章信が首にかけて、定基僧都といっしょに藤原家の墓所がある木幡へ埋葬にいった。そこまでついていった人々も少なくなかったという。

◆源信の「臨終の行儀」

 藤原道長の死から200年の後、嘉禎元年(1235)4月頃から、三条家の右大臣・藤原実親の妻の容体が急に悪くなった。彼女は死期が迫ったことを知り、出家をして、6月15日夜に亡くなった。

 この状況を藤原定家の「明月記」が詳しく書いている。それによると、当日彼女は沐浴のあと浄衣をまとい、清い畳を敷いて端座し、五色の糸を阿弥陀如来像の手から引いて定印を結び、死期を待った。
 午後2時頃からは、無言で観想を行い、夜半にいたって遷化した。

 この女性には、未婚の妹がいて8年前の安貞元年(1227)に亡くなっているが、最後に大病でやせ細った妹は、前日の朝に出家し、死去の日には念仏を数百回も唱え、五色の糸を引いて定印を結び、午後4時頃に亡くなった。
 これらは源信(942-1017)の「往生要集」(985)の「臨終の行儀」に記された方法に従ったものであり、姉妹ともに絶賛に値する往生であった。(角田文衛「平安の春」)

 往生要集は、寛和元年(985)に天台沙門源信により書かれた、念仏信仰の書である。これにより、地獄・極楽のイメージが日本人の心に定着したといわれる。
 前記の道長の死も明月記に書かれた姉妹の死も、この源信の「臨終の行儀」に従ったものであると思われる。そしてこの行儀に従い臨終を迎えた貴紳衆庶は、おびただしい数にのぼるといわれ、それは「日本往生極楽記」(985-986成立)をはじめとする往生伝に、多数記録されている。

 この行儀は、臨終に臨み阿弥陀如来の来迎をお迎えするためのものである。高野山の「聖衆来迎図」を見ると、彩雲に乗った25人の聖衆が、音楽を奏したり舞踏をしながら、金色燦然と輝く阿弥陀仏を囲ぎょうして、しずしずと湖水の面に天下っている光景を描いている。

 ご来迎の様子は、身近な人の夢の中などにでてくる。例えば、叡山西塔の沙門仁慶は、死の病の中で、自ら法華経を読み、結縁の衆僧を請じて、読経・念仏を唱えて入滅した。
 そのとき傍らの人の夢に、大宮大路に五色の雲が空より降りて、音楽と妙なる香りが空に満ち溢れた。仁慶は頭を剃って大きな袈裟を着て、威儀具足して手に香炉を持って、西に向かって立っていた。そこへ雲の中から蓮華台が下りてきた。
 仁慶はこの蓮台に座して、雲の中を西方遙に去っていった。時の人は、これは仁慶が極楽に迎えられたしるしであるといった。(「大日本国法華経験記」第52)







 
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